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第六章 届かない声(後編)


 三月が終わろうとしていた。


 街には少しずつ春の色が増え、病院の中庭では桜が静かに花を咲かせ始めていた。


 けれど、その景色を見ても、遥の心は凍りついた湖のように何一つ波紋を広げなかった。胸の奥に沈んだ冷たい塊が、呼吸のたびにじわりと広がっていく。息を吸うたびに肺の奥がひやりと冷え、吐き出す息はどこか重く、胸の内側に貼りついたまま剥がれない。


 学校が終われば病院へ向かう。


 病室へ入り、「また来たよ」と声を掛ける。


 机であった出来事や、文芸部の話、先生の失敗談まで、思いつく限り話し続ける。


 言葉を吐き出すたびに、喉の奥が乾いてひりつく。それでも止められない。沈黙に飲み込まれるのが怖かった。声を止めた瞬間、耳鳴りのような静けさが押し寄せてきて、あの日の放課後の記憶――倒れた葵の姿と、呼びかけても返らなかった声――が鮮明に蘇る気がした。


 そして返事のないまま病室をあとにする。


 その繰り返しだった。


     ◇


 春休みも終わりに近づいたある日。


 病室へ入ると、担当医がカルテを閉じて振り返った。


「上乃園さん。」


 遥は小さく頭を下げる。


「神原さんの様子ですが、大きな変化はありません。」


 その言葉を聞くたびに、胸の奥に冷たい水が一滴ずつ落ちていくようだった。最初は小さな波紋だったはずなのに、いつの間にか胸いっぱいに広がり、心臓の鼓動さえ鈍く沈めていく。気づけば心の底まで満ちて、身動きが取れなくなる。


「容体は安定しています。」


「ですが、意識はまだ戻っていません。」


「……はい。」


 遥はそれだけ答えた。


 もう何度も聞いた言葉だった。


 だから驚きもしない。


 期待もしない。


 ただ、その現実を飲み込むしかなかった。喉に引っかかったまま、決して消えない苦い塊のように。飲み込もうとすると、胸の奥がきゅっと締まり、胃のあたりが重く沈む。


 医師が病室を出る。


 静寂が戻る。


 遥は椅子へ座り、眠る葵を見つめた。


「桜、咲いたよ。」


 窓の外を指さす。


「見に行こうって約束したのに。」


 返事はない。


 静かな寝息だけが聞こえていた。その規則正しい音が、かえって遥の胸を締めつける。以前は隣で笑っていたその人が、今はただ呼吸だけを繰り返している。その事実が、指先からじわじわと冷えを広げていく。


     ◇


 新学期前日。


 文芸部の部長から、一通のメッセージが届いた。


『明日から新学期だね。


 神原さんのことは心配だけど、みんなで待ってる。


 上乃園さんも無理だけはしないで。』


 遥は画面を見つめたまま、しばらく返事を書くことができなかった。


 指先が震え、文字を打とうとすると、胸の奥から何かがせり上がってきて息が詰まる。喉の奥が熱くなり、呼吸が浅くなる。スマートフォンを握る手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。


 何を書けばいいのか分からない。


 心配を掛けたくない。


 でも、大丈夫とも言えない。


 何度も文字を打っては消し、そのたびに胸の奥が擦り切れていくようだった。消した文字の残像が、まるで言えなかった本音のように画面の奥に残っている気がして、視線を逸らしたくなる。


 ようやく短く返信した。


『ありがとうございます。』


 それだけだった。


     ◇


 四月。


 始業式の日。


 久しぶりの教室には、新しいクラスの発表に胸を躍らせる声が響いていた。


「おはよう!」


「あの先生また担任だ!」


「クラス一緒だった!」


 笑い声が飛び交う。


 遥も教室へ入る。


 けれど、その賑やかさは厚いガラス越しに聞いているように遠く、音だけがぼんやりと響いていた。耳には届いているのに、意味が頭に入ってこない。足元がふわふわと浮いているようで、床を踏みしめている感覚が薄い。


「上乃園さん、おはよう。」


 クラスメイトが声を掛ける。


「……おはよう。」


 笑顔を作る。


 頬の筋肉がぎこちなく引きつり、仮面を貼り付けるような感覚だった。それだけで精一杯だった。口角を上げるたびに、頬の内側がひきつり、無理やり形を整えているのが自分でも分かる。


 始業式が終わる。


 三年生としての学校生活が始まった。


 教科書が配られ、担任の話が続く。


 遥はふと、隣の席へ視線を向けた。


 そこに葵はいない。


 転校してきてから、毎日のように見ていた笑顔も。


 「遥」と呼ぶ声も。


 何もなかった。


 胸が内側から握り潰されるように痛む。息を吸おうとしても、肺がうまく膨らまない。肋骨の内側がきしむように締まり、呼吸が浅く途切れる。


 視界がにじみ、教室の輪郭が溶けていく。黒板の文字も、窓から差し込む光も、すべてがぼやけて遠ざかる。


「上乃園さん?」


 先生の声で我に返る。


「あ……はい。」


 立ち上がろうとして、教科書を床へ落とした。


 指先に力が入らない。拾おうとすると、今度は筆箱まで滑り落ちる。指が思うように動かず、まるで自分の体ではないような違和感があった。


 教室に静かな空気が流れた。


「大丈夫?」


 クラスメイトが心配そうに声を掛ける。


「……大丈夫。」


 そう答えたものの、その言葉は空っぽで、口の中で乾いた砂のように崩れていった。舌の上に残るのは、言葉にならなかった感情のざらつきだけだった。


     ◇


 放課後。


 いつものように病院へ向かう。


 病室のドアを開ける。


「……来たよ。」


 今日も葵は眠っていた。


 遥は静かに椅子へ座る。


「今日から三年生になった。」


「クラス替えもあったよ。」


「先生も変わった。」


 少し笑おうとした。


 でも、笑えなかった。


 唇が震える。喉の奥が締めつけられ、声がうまく出ない。胸の奥に溜まったものが、呼吸のたびに押し上げられてくる。


 目の奥がじんわりと熱を帯び、視界が揺れる。涙がこぼれる前の、あのじくじくとした痛みが広がる。


「……葵。」


 小さく名前を呼ぶ。


「私ね。」


 言葉が詰まる。胸の奥に溜まったものが、出口を探して暴れている。心臓の鼓動が早くなり、耳の奥でどくどくと響く。


「もう……どうしたらいいか分からない。」


 初めてだった。


 葵の前で、自分の弱さを口にしたのは。


「学校へ行っても。」


「帰り道を歩いても。」


「何をしてても。」


「隣に葵がいない。」


 その事実が、鋭い棘のように何度も心を刺す。歩いているとき、ふと隣に視線を向けてしまう癖が抜けず、そのたびに空白だけが広がる。その瞬間、胸の奥がぎゅっと縮み、息が止まりそうになる。


 涙が止まらなかった。頬を伝う温かさが、逆に自分がまだここにいることを突きつけてくる。涙が顎を伝い、制服の襟元を濡らしていく感触がやけに生々しい。


「お願いだから……。」


「帰ってきて。」


 その声は震え、かすれて、静かな病室へ溶けていく。


 返事はない。


 電子音だけが、変わらず時を刻んでいた。その規則正しさが、遥の止まった時間を際立たせる。一定のリズムが、まるで自分だけが取り残されていることを告げ続けているようだった。


 その時。


 病室の窓の外で、一枚の桜の花びらが風に舞った。淡い薄紅色の花びらは、春の柔らかな光を受けてきらめきながら、ゆっくりと空中を漂い、やがて重力に導かれるように静かに落ちていく。


 春は、もう来ている。


 それでも遥の時間だけは、あの日の放課後から、凍りついたまま一歩も動き出すことができなかった。あのとき握っていた葵の手の温もりだけが、今も指先に残っている気がして、思わず手を握りしめる。けれどそこには何もなく、空気だけが冷たく触れる。


 流れ続ける季節と、取り残されたままの自分との隔たりが、どうしようもなく胸を締めつけていた。


              ――第六章 届かない声 完

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