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第六章 届かない声(中編)


 事故から五日が過ぎた。


 冬の空は少しずつ明るさを増し、校庭の桜の枝先にも、小さな蕾が膨らみ始めていた。冷たい風が頬をかすめ、乾いた枝がかすかに擦れ合う音が耳に残る。


 けれど、遥の時間だけは、あの日の放課後で止まったままだった。


 学校へは毎日通っている。


 授業も受けているし、先生に名前を呼ばれれば返事もする。


 ノートを取り、友人に話しかけられれば笑顔も作る。


 それでも、どれも自分の意思で動いているようには思えなかった。


 ただ、一日を終わらせるためだけに過ごしている。


 そんな日々だった。教室のざわめきやチョークの擦れる音が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


     ◇


 放課後になると、遥はまっすぐ病院へ向かう。


 病室の扉を開ける。消毒液の匂いが鼻を刺し、白い光が静かに広がっていた。


 そこには、今日も変わらない景色があった。


 窓際のベッド。


 静かに眠る葵。


 規則正しく響く心電図の電子音。一定のリズムが、空気を刻むように続いている。


「……来たよ。」


 椅子へ腰を下ろし、鞄から今日の授業で配られたプリントを取り出す。


「数学、小テストだった。」


「みんな難しいって言ってた。」


「でも、葵ならきっと『全然分かんなかったー!』って笑うんだろうね。」


 返事はない。


 それでも遥は毎日話しかけ続けた。


 その時間だけが、まだ葵と一緒にいられるような気がしたからだった。静かな空間に、自分の声だけがやけに鮮明に響いていた。


     ◇


 そして迎えた卒業式当日。


 体育館には真新しい花が飾られ、卒業生たちが晴れやかな表情で席に着いていた。花の甘い香りと、人の熱気が混ざり合い、空気が少し重たく感じられる。


 数日前まで葵と一緒に飾り付けをしていた場所。


 その光景を見るだけで、胸が苦しくなる。


 遥は在校生席へ座る。


 自然と隣へ視線が向く。


 もちろん、そこに葵はいない。


 空いた椅子だけが、静かにそこにあった。冷たい座面が、ぽっかりとした空白を際立たせている。


 式が始まる。


 卒業証書授与、送辞、答辞。


 会場は感動に包まれていた。


 あちこちからすすり泣く声が聞こえる。鼻をすする音や、ハンカチが擦れる音が静かに広がる。


 遥は何も感じられなかった。


 涙も出ない。


 心だけが、どこか遠くに置き去りになっているようだった。


     ◇


 式が終わると、文芸部の部室では卒業する三年生を送る小さな会が開かれた。


 机の上には、お菓子と温かい紅茶。湯気がゆらゆらと立ち上り、甘い香りが部屋に広がる。


 そして、みんなで作った卒業記念部誌。


 部長が優しく笑う。


「みんな、本当にありがとう。」


「いい部だった。」


 三年生たちが一人ずつ後輩へ言葉を贈る。


「白石さん。」


「はい!」


「これからは頼んだよ。」


「頑張ります!」


 白石は涙をこらえながら頭を下げた。指先がわずかに震えているのが見えた。


 そして最後に、部長が遥の前へ立つ。


「上乃園さん。」


 遥は静かに顔を上げる。


「神原さんのこと、心配だよね。」


 その一言だけで、遥の表情が揺れた。


「でも。」


 部長は穏やかに続ける。


「神原さんは、きっと今でも文芸部のみんなのことを考えてる。」


「だから、君まで倒れちゃだめだ。」


 遥は俯く。


「……はい。」


 返事はした。


 けれど、その声には力がなかった。喉の奥がひりつくように乾いていた。


     ◇


 送別会が終わると、部員たちは卒業記念部誌と寄せ書きをまとめた。


「神原さんにも届けよう。」


 三年生の一人がそう言うと、全員が頷いた。


 その日の夕方。


 文芸部全員で病院を訪れた。廊下には足音が反響し、静けさが一層際立っていた。


 病室へ入ると、葵は今日も静かに眠っていた。


「神原さん。」


「卒業生のみんなからだよ。」


 部長が部誌をベッドサイドへ置く。


「また一緒に部活しようね。」


「待ってるから。」


 三年生たちも優しく声を掛ける。


 誰も泣かなかった。


 泣いたら、本当に別れになってしまう気がしたから。胸の奥に重たいものが沈んだまま、誰もそれを言葉にできなかった。


 やがて面会時間が終わる。


 部員たちは一人、また一人と病室をあとにした。


 最後に残ったのは遥だけだった。


     ◇


 窓の外では、夕焼けが病室を淡く染めていた。橙色の光がカーテン越しに揺れ、静かな影を落としている。


 遥は椅子へ腰掛け、葵の手をそっと包む。ひんやりとした感触が、現実を突きつけるようだった。


 しばらく、何も言えなかった。


 電子音だけが、一定の間隔で鳴り続ける。


 ――ピッ、ピッ、ピッ。


 その音が、やけに大きく感じられる。


「……今日ね。」


 ようやく、声がこぼれる。


「先輩たち、卒業したよ。」


 少し間を置く。


「部誌も渡してきた。」


 指先に力がこもる。


「みんな、葵に会いたがってた。」


 沈黙。


 返事はない。


 ただ、同じ音が繰り返される。


 ――ピッ、ピッ、ピッ。


「ねぇ、葵。」


 呼びかける。


 けれど、その声はどこにも届かない。


「卒業式、終わっちゃったよ。」


 言葉が途切れる。


 息を吸う音だけが、静かに響く。


「一緒に見送る約束だったのに。」


 ぽたり、と。


 涙が一粒、葵の手の上へ落ちた。


 温かさが、冷たい肌に広がる。


 それでも――


 何も、変わらない。


「……お願いだから。」


 声がかすれる。


 もう一度だけ。


「起きて。」


 沈黙。


 長い沈黙。


 電子音だけが、変わらず刻まれる。


 ――ピッ、ピッ、ピッ。


 遥は目を閉じる。


 耳の奥で、あの日の声を探す。


『遥、おはよう!』


 あの明るい声。


 笑顔。


 温もり。


 ――けれど。


 現実には、何もない。


 ただ、静けさだけがそこにある。


 夕日はゆっくりと沈み、光が薄れていく。


 影が伸び、やがて部屋は夜に飲み込まれていく。


 遥は葵の手を握ったまま、もう一度だけ口を開いた。


「……私は、待ってる。」


 間を置く。


「何日でも、何か月でも。」


 言葉が、空気に溶ける。


「だから……帰ってきて。」


 その声は、小さく、かすかで。


 そして――


 どこにも届かない。


 沈黙が、すべてを包み込む。


 遥は動かない。


 ただ、手を握り続ける。


 指先に残るわずかな温もりだけが、かろうじて現実と繋がっていた。


 それでも。


 それだけでも。


 離すことが、できなかった。


                (第六章・後編へ続く)

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