第六章 届かない声(前編)
救急車が病院へ到着した頃には、空はすっかり夕闇に包まれていた。
病院の救急外来。
ストレッチャーに乗せられた神原葵は、そのまま処置室の奥へ運ばれていく。
「葵!」
遥は思わず名前を呼ぶ。
しかし、その声に返事はない。
閉まりかけた扉が静かに音を立てる。
その向こうへ、葵の姿は消えていった。
◇
待合室。
白い壁、白い照明。
時計の秒針だけが、静かに時を刻んでいる。
遥は椅子に座ったまま、一度も顔を上げることができなかった。
制服のスカートを握る手は震え続けている。
指先が冷たくなり、爪が食い込むほど強く布を掴んでいるのに、その感覚さえどこか遠い。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息を吸うたびに喉がひりつく。
頭の中で何度も同じ場面が繰り返されていた。
『すぐ戻る。』
『うん! こっちは任せて!』
もし、先生に呼ばれなかったら。
もし、自分が脚立を押さえていたら。
もし――。
その「もし」が、鋭い棘のように何度も胸を刺す。
考えるたびに、胃の奥が重く沈み、吐き気にも似た感覚が込み上げてくる。
自分の選択が、あの一瞬が、葵をあそこへ追いやったのではないかという思いが、逃げ場なく遥を締めつけていた。
「上乃園さん。」
優しい声に顔を上げると、文芸部の部長と顧問の先生が立っていた。
「今日はもう帰りなさい。」
遥は首を横に振る。
「……帰れません。」
声を出した瞬間、自分の声がひどくかすれていることに気づく。
「でも……。」
「葵が、まだ……。」
言葉を続けようとすると、喉が詰まり、胸の奥から何かがせり上がってくる。
声は震え、最後まで言葉にならなかった。
部長は何も言わず、遥の隣へ腰を下ろした。
ただ静かに寄り添う。
その温もりに触れた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩み、逆に涙がこぼれそうになる。
その沈黙が、今は何よりありがたかった。
◇
一時間ほど経った頃。
処置室の扉が開いた。
白衣を着た医師がゆっくりと歩いてくる。
遥は立ち上がった。
膝がわずかに震え、足裏が床に吸いつくように重い。
「神原さんは……。」
医師は静かに頷く。
「命に別状はありません。呼吸や循環は安定しており、現時点で致命的な損傷は確認されていません。」
その一言に、張りつめていた空気が少しだけ緩む。
肺に溜まっていた空気が一気に抜けるように、遥は小さく息を吐いた。
しかし、医師の表情は晴れなかった。
「ただ、頭部をかなり強く打っています。CT検査では明らかな大きな出血は見られませんが、脳震盪に加えて、脳に軽度の浮腫が生じている可能性があります。」
遥の心臓が大きく鳴る。
鼓動が耳の奥で響き、医師の言葉が遠くなる。
「現在も意識は戻っていません。刺激に対する反応も弱く、いわゆる意識障害の状態です。」
言葉が胸に重く落ちる。
その一つ一つが、冷たい石のように沈んでいく。
「今後については、脳の腫れが引くかどうか、また遅れて出血が起きないかを含めて、慎重に経過を見守る必要があります。数時間から数日で回復する場合もありますが、予断は許されません。」
「……いつ、目を覚ましますか。」
震える声で尋ねる遥。
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
医師は静かに首を横へ振った。
「それは、今の段階では分かりません。回復のタイミングには個人差があり、場合によっては長引くこともあります。」
遥の視界が揺らいだ。
足元から力が抜けそうになる。
頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。
ただ、「分からない」という言葉だけが何度も反響する。
部長が慌てて肩を支える。
「上乃園さん!」
遥はその場に立ったまま、小さく唇を噛みしめた。
血の味が広がる。
それでも、その痛みの方がまだ現実を感じられて、少しだけ救いだった。
◇
病室へ案内される。
静かな個室。
窓の外には冬の夜景が広がっていた。
ベッドの上で眠る葵は、まるで眠っているだけのように穏やかな表情をしている。
「葵……。」
遥はゆっくりとベッドへ近づいた。
足音がやけに大きく響く気がして、無意識に歩幅を小さくする。
呼吸はしている。
胸も規則正しく上下している。
それなのに、返事だけが返ってこない。
椅子へ腰を下ろし、そっと葵の手へ触れる。
冷たくはない。
いつもの温もりが、確かにそこにはあった。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥がじんわりと痛む。
ここにいるのに、届かない。
そんな現実が、じわじわと広がっていく。
「……起きて。」
小さな声。
喉が乾いて、うまく声が出ない。
「明日、一緒に学校へ行こう。」
返事はない。
「肉まん、まだ食べてないよ。」
静かな病室には、機械の電子音だけが響いている。
遥は俯いた。
涙が一滴、葵の手の甲へ落ちる。
その瞬間、自分の涙の温かさがやけに鮮明に感じられた。
「ごめん……。」
声が震える。
「私が、離れなければ。」
あの時の光景が、鮮明に蘇る。
脚立、笑っていた葵、自分の背中。
「私が……。」
言葉が続かない。
胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
何度も謝る。
何度謝っても、葵は目を覚まさない。
その事実が、ゆっくりと、しかし確実に遥の中に沈んでいく。
◇
夜遅くなり、帰宅した遥は玄関で立ち尽くしていた。
靴を脱ぐことさえ忘れたまま、しばらく動けない。
いつもなら、この時間。
葵と「また明日」と手を振って別れる頃だった。
その当たり前が、もう戻らないかもしれないという考えが、ふと頭をよぎる。
胸がぎゅっと縮み、息が詰まる。
部屋へ入る。
机の上には、昨日まで一緒に作っていた卒業記念部誌の原稿。
その隣には、まだ渡せていない三年生へのプレゼント。
そして、帰りに食べる約束をしていた肉まん屋の割引券。
遥はそれを手に取り、静かに握りしめた。
紙がくしゃりと音を立てる。
その音がやけに大きく響き、胸の奥に刺さる。
「……葵。」
その名前を呼んでも、返事は返ってこない。
呼んだ瞬間、喉の奥が熱くなり、涙が込み上げる。
窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。
冬の終わりを告げる雨。
けれど遥には、その雨が春を連れてくるものには思えなかった。
ただ、大切な誰かを遠くへ連れて行ってしまう雨のように感じられた。
その音を聞きながら、遥はただ立ち尽くす。
何もできなかった自分の無力さと、取り返しのつかないかもしれない現実が、静かに、しかし確実に心を蝕んでいった。
(第六章・中編へ続く)




