第五章 最後の放課後(後編)
二月の終わり。
卒業式を数日後に控えた校内は、どこか慌ただしい空気に包まれていた。
朝から教師や生徒たちが行き交い、体育館では卒業式の準備が進められている。
文芸部も、生徒会から依頼を受け、体育館の飾り付けを手伝うことになっていた。
「じゃあ、この花飾りをステージの上に付けていこう。」
担当の先生が指示を出す。
「上乃園さんと神原さんは、こっちお願い。」
「はい。」
二人は声をそろえて返事をした。
体育館には、在校生たちの笑い声が響いている。
卒業する三年生へ感謝を伝えるため、誰もが真剣に、それでも楽しそうに作業を進めていた。
ふと、天井近くの窓から冷たい風が吹き込み、吊るされた飾りがわずかに揺れた。
その風は一瞬で収まったが、どこか乾いた音を残し、体育館の広い空間に不自然な静けさを落とした。
◇
「遥、このリボン少し曲がってない?」
脚立の上から葵が声を掛ける。
脚立はわずかに軋む音を立て、床との接地が少しだけ不安定に見えた。金属の脚が床を擦るような、耳に残る嫌な音が小さく響く。
下で花飾りを受け取っていた遥は、一歩下がって全体を見渡した。
「あと少し右。」
「これくらい?」
葵が体重を移した瞬間、脚立がかすかに揺れる。ほんのわずかな揺れだったが、上にいる葵の体が遅れて揺れを追うように傾いた。
そのとき、再び窓から風が吹き込み、リボンや紙花がざわりと揺れた。軽いはずの飾りが、妙に重たく空気を切る音を立てる。
「うん。そのままで大丈夫。」
「了解!」
葵は笑顔で親指を立てたが、その足元では脚立の関節部分がきしりと鳴り、わずかに沈み込むような感触があった。
その様子を見ていた先生も微笑む。
「二人は息がぴったりだね。」
葵は照れくさそうに笑いながら、
「いつも一緒なので!」
と答えた。
遥も少しだけ頬を赤くしながら、小さく笑った。
その足元で、脚立の金具が小さく鳴ったことに、誰も気づかなかった。
そして、天井近くの窓が、風に押されるようにわずかに軋んだ。
◇
作業は順調に進んでいた。
その時だった。
「上乃園さん。」
後ろから先生に呼び止められる。
「悪いけど、生徒会へこの名簿を届けてもらえるかな?」
「はい。」
遥は頷き、葵を見上げた。
脚立の上で作業を続ける葵の足元が、ほんのわずかにぐらついて見えた。先ほどよりも揺れが大きくなっているような気がして、遥は一瞬だけ眉をひそめる。
その瞬間、また冷たい風が吹き込み、脚立の影が床の上で揺れた。
「すぐ戻る。」
「うん!」
葵はいつもの笑顔で手を振る。
「こっちは任せて!」
「無理しないで。」
「大丈夫、大丈夫!」
軽く言いながらも、葵はバランスを取るように足の位置を微調整していた。
その笑顔を見届け、遥は体育館をあとにした。
背後で、風が一段と強く吹き込み、飾りが擦れ合う音がざわざわと重なった。どこか不吉なざわめきのように、それは長く尾を引いた。
◇
生徒会室へ名簿を届けるだけの、ほんの数分だった。
廊下を戻っている途中。
体育館の方から、何かが倒れるような大きな音が響いた。
――ガタンッ!
その瞬間、時間が引き延ばされたかのように、すべてがゆっくりと動き始める。
体育館の中では、脚立の一本の脚がわずかに浮き上がり、金属同士が擦れ合う甲高い音が「ギィ……」と長く伸びていた。床との接点がずれ、脚立全体が傾き始める。
葵の足元が滑る。靴底が床を掴みきれず、「キュッ」と乾いた摩擦音を残す。
彼女の体が、重力に引かれるようにゆっくりと傾いていく。
手に持っていたリボンがふわりと宙に浮き、空気を切る音が耳に残る。紙花がばらばらと舞い上がり、色とりどりの影が視界をかすめる。
「……あっ」
葵の小さな声が、やけに遠く、長く響いた。
彼女の指先が空を掴もうとするように伸びる。しかし、その手は何も掴めないまま、空中でわずかに震える。
脚立が完全にバランスを失い、ゆっくりと横へ倒れ込む。金属の骨組みが空気を裂き、「ガラ……ガタン……」と重く鈍い音を引きずりながら床へ向かう。
葵の体も、それに引きずられるように宙へ投げ出される。
髪がふわりと広がり、光を受けて一瞬だけきらめく。
視界が回転する。天井の白い照明、揺れる飾り、遠くで誰かが振り向く姿――それらがゆっくりと流れていく。
次の瞬間。
――ドンッ。
鈍い衝撃音が体育館に響いた。
背中が床に打ちつけられ、空気が一気に押し出される。「ぐっ……」というかすれた息が漏れる。
遅れて、脚立が横倒しになり、「ガシャンッ」と金属音を響かせて床に叩きつけられる。その振動が床を伝い、周囲の飾りを震わせた。
紙花がひらひらと舞い落ち、葵の周囲に静かに降り積もる。
一瞬の静寂。
そして、
「きゃあっ!」
「誰か先生を!」
悲鳴が一気に現実を引き戻した。
遥の心臓が大きく跳ねた。
「……葵?」
嫌な予感が胸を締めつける。
次の瞬間には、遥は走り出していた。
体育館の扉を勢いよく開ける。
そこには、さっきまでの穏やかな空気はなかった。
倒れた脚立。
散らばった花飾り。
床に転がる金属の脚が、まだ微かに揺れている。
慌ただしく駆け寄る先生たち。
そして、その中心には――。
「……葵。」
床に横たわる葵の姿があった。
「葵!」
遥は駆け寄ろうとする。
しかし先生が両腕を広げ、静かに制した。
「上乃園さん、近づいちゃだめ!」
「でも……!」
「救急車を呼んでいるから!」
遥の視線は、ただ葵だけを見つめていた。
返事はない。
目を閉じたまま、静かに横たわっている。
「葵……。」
名前を呼ぶ声が震える。
「お願い……。」
その願いが届くことはなかった。
◇
数分後。
体育館の外に救急車のサイレンが鳴り響く。
救急隊員が慌ただしく駆け込み、葵は慎重に担架へ乗せられた。
遥はただ立ち尽くすことしかできなかった。
手は震え、足には力が入らない。
部長がそっと肩に手を添える。
「上乃園さん……。」
その温もりに触れた瞬間、遥の張り詰めていた心が崩れた。
「……私。」
震える声が漏れる。
「私が……離れなければ……。」
「違う!」
部長が静かに首を振る。
「誰も悪くない。」
しかし、その言葉は遥の耳には届かなかった。
救急車の扉が閉まる。
サイレンが鳴り響く。
車はゆっくりと校門を出ていった。
遥は、その姿が見えなくなるまで動くことができなかった。
冷たい風が頬をかすめる。
昨日、二人で交わした約束が頭をよぎる。
『終わったら駅前で肉まん食べよう!』
『……いいね。』
もうすぐ放課後になる。
けれど、その約束は果たされなかった。
白い息だけが、静かな冬空へ消えていく。
遥は小さく唇を震わせた。
「……葵。」
その名前を呼ぶ声だけが、夕暮れの校庭に静かに響いた。
――第五章 最後の放課後 完




