第十章 夏へ続く空(後編)
七月。
梅雨が明け、校庭には夏の日差しが降り注いでいた。
蝉の声が朝から響き渡り、窓の外では青空がどこまでも広がっている。
遥は今日も制服へ袖を通した。
鏡の前に立つと、小さく深呼吸をする。
事故以来、自分を映すことさえ苦しかった鏡の中には、はっきりとした意志を宿した自分がいた。
頬の色も、目の光も、以前より確かに強くなっている。
「……行ってきます。」
その言葉は、もう迷いなく口から出た。
玄関を開けると、いつもの場所で葵が待っていた。
「おはよう、遥。」
「おはよう。」
二人は顔を見合わせて笑う。
その笑顔は、もうどこにもぎこちなさがなかった。
◇
学校へ着くと、遥はしっかりとした足取りで校舎へ入った。
教室ではクラスメイトがいつものように声を掛けてくれる。
「上乃園さん、おはよう!」
「昨日のプリントありがとう!」
「今日も一緒に頑張ろうね。」
遥は一人ひとりに、はっきりとした声で返事をした。
「うん、おはよう。」
その声には、もう揺らぎはなかった。
◇
放課後。
文芸部の部室では、新しい部誌の原稿づくりが始まっていた。
机の上に原稿用紙を広げる。
遥は迷わずペンを握った。
白い紙を見つめる時間は、もう必要なかった。
「焦らなくていいからね。」
部長が優しく声を掛ける。
白石も笑顔で頷く。
「上乃園先輩の作品、楽しみにしています。」
遥は力強く頷いた。
「うん、任せて。」
ペン先が紙に触れる。
言葉は、止まることなく流れ出した。
事故の記憶も、痛みも、全部抱えたまま。
それでも書ける。
それでも進める。
タイトルは――
『再会』
その二文字を書いた瞬間、遥は確信した。
もう大丈夫だ、と。
◇
部活動を終えた帰り道。
駅前の商店街で、葵が立ち止まる。
「遥。」
「ん?」
指さした先には、あの肉まん屋。
遥は迷わなかった。
「行こう。」
二人は並んで肉まんを受け取る。
温かさが、指先から胸へと広がる。
「いただきます。」
一口。
ふわりと広がる味に、遥は自然と笑った。
「おいしい。」
「やっと約束、守れたね。」
「うん。」
遥はしっかりと頷く。
「ありがとう。」
その言葉は、もう過去を振り返るためではなく、今を肯定するためのものだった。
◇
夕暮れ。
オレンジ色に染まる帰り道。
遥は空を見上げる。
「ねえ、葵。」
「なに?」
「まだ怖くなる時はある。」
「夢も見る。」
葵は静かに頷く。
遥は続けた。
「でもね。」
「それでも、ちゃんと前に進めてるって思える。」
「葵がいるから。」
葵は少し照れたように笑う。
「うん。」
「ずっと隣にいるよ。」
遥はその言葉を受け止め、しっかりと頷いた。
◇
校門へ続く坂道。
二人は立ち止まり、夕焼けを見つめる。
遥はもう迷わなかった。
「葵。」
「ん?」
まっすぐに見つめる。
「私ね。」
「葵といる時間が、一番好き。」
「安心するし、ちゃんと自分でいられる。」
葵の目が揺れる。
遥は一歩近づいた。
「だから――」
息を吸う。
「好き。」
はっきりとした声だった。
葵は一瞬息を呑み、それから強く頷く。
「……わたしも。」
「ずっと好きだった。」
その瞬間、遥の中で何かがほどけた。
二人の距離が一気に縮まる。
葵が遥の肩を引き寄せる。
遥も迷わずその胸に手を添えた。
視線が絡む。
逃げない。
もう、逃げない。
次の瞬間――
唇が重なった。
最初は触れるだけだった。
けれどすぐに、互いを確かめるように深く重なる。
息が混ざり、体温が伝わる。
遥は葵の制服をぎゅっと掴む。
葵も遥を強く抱き寄せる。
長く、長く続くキス。
離れたくないと、どちらも思っていた。
ようやく唇が離れた時、二人は少し息を乱していた。
それでも、目を逸らさない。
遥は小さく笑う。
「……ちゃんと、生きてるって感じる。」
葵も笑った。
「わたしも。」
二人はもう一度、軽く唇を重ねた。
今度は優しく、確かめるように。
夏風が吹き抜ける。
その風は、確かに未来へと続いていた。
「また明日。」
葵が言う。
遥は迷わず答える。
「うん。」
「また明日。」
――第十章 夏へ続く空 完
そして、二人の物語は、まだ終わらない。




