12.三日前 12
ハリエットの本質は今でも昔のやんちゃな少女のままだ。貴族らしからぬメイウェザーの血筋も争えない。
だが、人生をセシリアに掛けると決めたあの日から、王妃となったセシリアの側でセシリアの役に立つためにだけに、ハリエットは礼儀作法から教養、社交や駆け引きに至るまで、本来であれば己の辞書には欠片も無かったことをこれまで必死に努力し続けてきた。
その甲斐もあり、また師匠である上司の非常に厳しい指導もあり、ハリエットはちょっとやそっとでは剥がれない見事な毛並みの猫をその身に何匹も飼っている。の、だが。
国王陛下のあまりにも斜め上の発想に、強固に爪を立てていたはずのしっかりと飼いならされたはずの猫たちが裸足で逃げて行った。
「あ!申し訳ありません!聞かなかったことに!!」
「いえ、お気持ちは分かります。私も命じられた時、同じ言葉を陛下に言いそうになりました」
その時のことを思い出しているのだろうか、ダレルは明後日の方向を見てため息を吐いた。
「さすがにそのままは言えませんので、ほんの少しだけ変えましたが」
「似たようなことは仰ったのですね?」
「はい。言いましたね。ベンジャミン直伝です」
「ああ、ベンジャミンさんの…」
引きつりそうな口元にそっと手をあてて誤魔化していると、ダレルが目を閉じて何かを思い切るように首をゆるゆると横に振った。ダレルは小さく息を吐き、ハリエットに向き直りふっと目元を和らげた。
「メイウェザー嬢。この際、礼儀も建前も省きましょう。どうぞ素のままでお話しください。僕もそうさせていただきます」
元気いっぱいに走り去った猫たちを今更連れ戻すのも億劫だ。せっかくの申し出に「はい」とひとつ頷くと、ハリエットはそれまでぎりぎりで浮かべていた淑女の仮面を脱ぎ捨てて、きゅっと赤の眉をひそめた。
「たったの十日ですよ?忙しい時期には良くあることですよ?どうせ陛下、毎日欠かさず愛のお手紙を書かれるじゃないですか」
「はい、たったの十日ではありますが…今回は王妃殿下のお怒りが解けませんので、王妃殿下から恒例の、三日に一度の短いお返事すらいただけるかどうかが分かりません」
「そこは反省なさっておいでなら陛下が我慢なさるところでは?」
「その通りです。いつもの視察ならそれで良い。ですが今回の視察先は近場………行こうと思えば、簡単に追いかけることができてしまうのです」
「あー………」
ハリエットにも、やっとダレルが何を懸念しているかが分かった。分かりたくも無かったが。
「陛下、セシリア様が三日以上お返事を書かないと、セシリア様の所に来ちゃいますからね」
「はい。今回の視察は十日と短いですから。目的地はどこも、遠くても王都から馬車で三日程度の距離です。しかも陛下はああ見えて軍馬を操れますからね…駐屯所で軍馬を乗り継ぎながら本気で走らせれば、数時間で追いつけてしまう」
「視察の日程はご存知ですから、王妃殿下がどこにいるかも分かってしまう、ということですね。視察の馬車は王族としての荷物が多い分一般的な馬車よりもさらに遅いですから陛下は追い掛け放題、と」
「そう、なりますね」
ダレルがへにゃりと眉を下げ辛そうに表情を崩した。ハリエットも淑女らしからぬ何とも言えない顔になったのが分かる。
「唯一止められるセシリア様は視察。王弟殿下はアンソニーさんの件で火消しに奔走中で陛下の側にいられない…何が起こるか容易に想像がつくのが嫌ですね」
「ええ、そうなのです」
「心中、お察しいたします……」
「お心遣いに感謝いたします……」
互いに非常に情けない顔で目を見合わせ、どちらからともなくぺこりと頭を下げ合った。それからまた苦笑すると、こほん、とダレルが咳ばらいをした。
「今回の件、王弟殿下に巻き込まれる形で宰相閣下も王妃殿下からの注意を受けられまして。医務官から胃薬がひとつ強いものに変わったと報告が入りました」
「え、あれ以上ですか!?」
「はい。これ以上はもう希少な蛇の肝くらいしかないと医務官たちから嘆願が届いております。万が一、今回の視察中に国王陛下が脱走するようなことがあれば……」
「今度こそ、倒れてしまわれるかもしれません、ね?」
気の良いおじさまと呼びたくなるようなユーモアのある宰相は、心労のためか体質か昔から胃痛持ちでひょろりと痩せている。いつも寝不足で目の下にくまを作り、文句を言いながらも国王陛下のため、国のため、いつも心を砕いてくれている。あの宰相が倒れてしまう未来はハリエットとしても可能な限り避けたい。
「宰相閣下がお倒れになるのは…嫌ですね。そんな未来はできる限り避けたいです」
「はい。ですので………メイウェザー嬢」
いつにないダレルの声色にハリエットがぱっと顔を上げると、ダレルが緑の瞳を揺らしながら縋るようにハリエットを見ていた。
「っ!はい!!」
どれほど国王陛下が暴走しようともいつも穏やかに微笑んでいるか苦笑している印象しかないダレルの初めて見る表情に、ハリエットは思わず背筋を伸ばしてごくりと喉を鳴らした。
「陛下のこれ以上の暴走を阻止するためにも。王妃殿下のお心と国の平和のためにも」
ダレルは真っ直ぐにハリエットを見つめたままで、静かに嚙んで含めるように、けれど熱すら感じそうなほどに低く響く声で言った。
「どうかメイウェザー嬢、この視察の間、僕に恋文をいただけないでしょうか?」




