8.三日前 8
薄いカーテンの向こう側、王宮を出た時にはまだ明るかった外はすっかりと暗くなっている。ちらりと時計を見れば、そろそろ王妃殿下の夕食の時間になっている。
いまだ話の行きつく先は見えないが、この流れでは絶対に簡単には終わらない。ハリエットは今更ではあるが腰を据える覚悟を決めた。
「恋は盲目と言いますが、アンソニーさんも珍しく度を越しましたね」
「はい。アンソニーは愛らしい見た目に反してやることは非常に……その、過激ではありますが、いつもなら周囲に悟られないよう動いていますからね。今回はずいぶんな立ち回りでした」
「うまく人を使ってポール卿と第二騎士団への嫌がらせを阻止していらしたようですが、今回は協力者のはずの方が加害者でしたからね。さすがのアンソニーさんも騎士団内部のことは難しかったのでしょうか」
「そうなのでしょう。実行犯がかなりの人数に及びますし、個々を押さえても組織までは動かせなかったのでしょう。動かされても困ってしまいますが」
困ったように笑うダレルにふと、ハリエットは不安を覚えた。アンソニーがうまく人を使っているのは知っているが、まさか騎士団まで動かせるとなれば話が随分と違って来る。ましてや、このような暴走をするのであれば。
「あの、騎士団、動かせる…のでしょうか?」
「いえ、無理でしょう。やろうとしてもベンジャミンが裏から潰すでしょうから」
淡々と言いゆるく首を横に振ったダレルに、ハリエットの脳裏に赤褐色がひるがえった。猫が数匹怯えてしまったようでハリエットの目が少しだけ泳ぐ。
「ああ、ベンジャミンさん………」
「はい。今回もベンジャミンがアンソニーをかなり抑えていましたが…さすがに陛下をああいう形で引っ張り出すとは思っていなかったようです。久々に魂が抜けていましたね」
ダレルが申し訳なさそうに目を閉じ、思い出すように言った。
ベンジャミン・フェネリーは官吏の名門、フェネリー伯爵家の出でありながら官吏ではなく王弟殿下の従者となることを選んだ珍しい人物だ。ひょろりと背の高い赤褐色の短髪の男性で、いつも柔和な笑顔を湛えている。
以前から「言っておくけど、レオの側近で一番の曲者はベンジャミンよ。ベンジャミンに比べたらアンソニーは本気で子犬だわ」と王妃殿下が何度か半目になっていた。の、だが。
「そういえば私、ベンジャミンさんの表情が無になるのを初めて見たかもしれません…」
ふるりと、意図せずハリエットの背が震えた。
「ああ、それは恐ろしかったでしょう」
「はい……あ、いえ」
痛ましげに細められたダレルの瞳にうっかり頷いてしまい、ハリエットは小さく咳払いをした。もちろん誤魔化しきれていなかったようで、先ほどまで苦笑以外は完全に下がっていたダレルの口角がほんの少しだけ上がっている。
ハリエットはもうひとつ軽く咳ばらいをすると誤魔化すようにまた背筋を伸ばした。
「昨日、王妃殿下が王弟殿下をお招きになったんです」
「説教ですね」
「そうです。お茶会と言う名の説教です。それと、今回の王命結婚の原因をお伝えするためにです」
「ああ、なるほど。それでベンジャミンの表情が」
「そう、ですね、はい。先日オブライエン侯爵領で新しく採掘された『光によって色の変わる新種の宝石』を王妃殿下のために優先的に用意することを条件に玉璽が押されたと王妃殿下がお伝えしたところ、瞬時にベンジャミンさんの顔から表情が抜け落ちまして……」
まるで洞のような、完全に光を失ったようなベンジャミンの瞳を思い出し、ハリエットの猫たちが完全に怯え切っている。ハリエットはそこでぐっと言葉に詰まってしまった。
暗い面影を振り切るように一度かぶりを振ると、ハリエットは「それでですね」と頷いた。
「ベンジャミンさんが、『面目次第もございません。王弟執務室に勤める者のひとりとして、そのような条件を出したにせよ出されて飲んだにせよ、再度厳しく教育いたしますことをお約束申し上げます』と深々と頭を下げられまして」
「無表情で」
「そうなんです。それを見た王妃殿下が即座に椅子の用意をさせてベンジャミンさんをお隣に座らせました。わたくしに茶の用意をお命じになり、手ずからマカロンを小皿にお乗せになり、『王の教育を間違えた私のせいでもあるの。思い詰めないでちょうだい』とベンジャミンさんの前に………」
「ああ、なるほど………」
その光景を思い出して何とも居心地の悪い思いを覚えつつちらりとダレルを見ると、ダレルも「ベンジャミンはああ見えて意外と焼き菓子を好むんですよね」などと言いつつ落ち着きなく視線を泳がせている。
「ベンジャミンさんは頭をあげられた時にはいつもの微笑に戻られていて。お座りになる事も固辞されたのですが、王弟殿下が座るよう命じられまして。お座りになってからは丁寧にお礼を仰ってマカロンを受け取られました」
「良かったです、それなら安心ですね」
「ですが、その…『いえ、さすがに今回はアンソニーも少し悪戯が過ぎたようですから』と微笑むベンジャミンさんに、王弟殿下も手ずからクッキーをお取りになってこう、ベンジャミンさんのお顔をうかがうようにしながらベンジャミンさんのお皿に乗せていらして……」
「ああ、それは駄目なやつですね……」
ダレルの表情が忙しい。上を見たり下を見たり眉を顰めたり左右に目を泳がせたり。
しばらくして、小さなため息とともに「これはやはり駄目そうだな」と眉を下げたダレルに、ずっと『無害な人』だったベンジャミンの印象が、ハリエットの中で『怖い人』に完全に書き換わった。




