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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~section 7:最古参の時計店と、映写機の部品~

 川沿いの児童公園のベンチで、如月さんが『かためのプリン』を平らげ、真鍮の筒に隠された光学ガラスの欠片という決定的な物理的証拠を発見してから、僕たちは再び立ち上がった。


 傾きかけたセピア色の陽光が、旧市街の入り組んだ路地に長く濃い影を落とし始めている。商店街の喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりにどこかの家から漂ってくる夕飯の支度の匂いや、豆腐屋のラッパの音が、夢の中特有の奇妙なノスタルジーを帯びて僕の鼓膜と鼻腔をくすぐっていた。現実の月見坂市——完全なスマートシティとして整備され、夕暮れになれば自動的に白色LEDの街灯が点灯し、無機質な清潔感に包まれるあの街では、決して嗅ぐことのできない『生活の匂い』と『人間の体温』が、この空間にはむせ返るほどに充満している。


「さあ、サクタロウ。データは出揃った。あとはこの推論を歴史の証言という名のデータベースに照合し、確定させるフェーズじゃ。この旧市街において、過去数十年にわたる技術と記憶の集積を持ち、なおかつ現在も稼働している情報ハブへ向かうぞ」


 如月さんは、一切の迷いがない足取りで迷路のような路地をズンズンと進んでいく。木綿のワンピースの裾が、夕暮れの風を孕んで静かに揺れている。

 彼女の向かっている先がどこなのか、僕には全く見当もつかなかった。八百屋の大将や精肉店のおかみさんから得た『三十年前に川沿いにあった篠原製作所』という情報は、すでに過去の遺物であり、今はアパートか何かに変わってしまっているはずだ。物理的な工場が存在しない以上、誰に話を聞くというのだろうか。


「あの、如月さん。目的地はどこなんですか? さっきの町工場はもう無くなってるんですよね?」


 僕が背後から尋ねると、彼女は振り返ることもなく答えた。


「工場という物理的建造物が消失したからといって、そこで生み出された技術や、それを知る人間のネットワークまでが完全に消滅するわけではない。職人の仕事というものは、必ず別の職人の記憶や技術とリンクしておる。特に、この手の中小規模の工場が密集していた旧市街においては、金属加工の技術、光学機器の修理、あるいは精密機械の調整といった分野は、相互に依存し合うエコシステムを形成していたはずじゃ。この街の歴史の地層を掘り下げるには、これ以上ない適任の証人がいる」


 如月さんの歩みが、路地のどん詰まり、アーケードの喧騒から完全に切り離されたような、ひっそりとした一角でピタリと止まった。


 そこにあったのは、両隣の建物から取り残されたように建つ、黒ずんだ木造モルタル二階建ての古い店舗だった。

 色褪せた日よけのテントには、かすれて辛うじて読める程度の文字で『時田時計店(ときたとけいてん)』と書かれている。ショーウィンドウのガラスは長年の埃と排気ガスで曇っており、中には日に焼けたアンティークの掛け時計や、誰が買うのかもわからないような古びた懐中時計が無造作に並べられていた。入り口の木枠の引き戸は固く閉ざされ、営業しているのかどうかも怪しい雰囲気を漂わせている。


「時計店、ですか?」


「左様。機械式時計の修理とメンテナンス。それは旋盤による金属加工、歯車の切り出し、そしてミクロン単位の精度を要求される極めて高度な物理的技術の集大成じゃ。かつてこの近辺で特注の金属部品を削り出していた町工場と、この最古参の時計店が、技術的な交流や情報共有を持っていなかったと考える方が不自然じゃ。真鍮の筒のルーツを確定させるための、最後のピースじゃな」


 如月さんはそう言うと、ためらうことなく古びた引き戸に手をかけ、横へとスライドさせた。

 カランカラン、と。くぐもった、しかしどこか郷愁を誘う真鍮のベルの音が鳴り響く。


 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、僕は圧倒的な『音の暴力』と『匂い』に全身を包み込まれた。

 カチ、コチ、カチ、コチ。チク、タク、チク、タク。

 狭い店内の壁という壁、棚という棚を埋め尽くす、数百、いや数千にも及ぶであろう大小様々な時計たちが、それぞれに異なるリズムで時を刻んでいる。大型のホールクロックの重厚な振り子の音、目覚まし時計のせわしない音、そして懐中時計の微かな駆動音。それらが複雑に絡み合い、まるで狂気じみたオーケストラのように空間を支配している。


 そして、その音の隙間を埋めるように漂っているのは、古い木材の匂いと、揮発性の機械油、そして微かな金属の錆の匂いだった。壁紙は長年のヤニと埃で茶色く変色し、床のフローリングは歩くたびに微かな軋み音を上げる。夢の中の光景であるにもかかわらず、そこにある時間の蓄積は恐ろしいほどのリアリティを持って僕に迫ってきた。


「なんだ、冷やかしか。悪いが、お嬢ちゃんたち。ここは駄菓子屋でもオモチャ屋でもないぞ」


 店の最奥。ショーケースの奥に設置された、手元だけを強烈な白熱灯で照らされた作業机から、低く、しゃがれた声が響いた。


 声の主は、白髪を後ろで無造作に束ね、厚手の作業エプロンを身につけた老人だった。右目には時計修理用の黒いルーペをはめ込み、机の上に散乱した極小の歯車やピンセットから視線を外すことなく、手元の作業に没頭している。その背中は丸く曲がり、彼自身がこの古い時計店の一部として長年時を刻んできたかのような、頑固で気難しいオーラを全身から発していた。


「見ての通り、こっちは預かった古い機械の修理で手一杯なんだ。子供に構ってる暇はない。用がないなら、とっとと帰りな。時間は誰にとっても有限だからな」


 老人はピシャリと言い放ち、こちらに顔を向けることすらしなかった。

 完全な門前払いだ。現実世界でも、こういう職人気質の人間は一番扱いが難しい。ましてや、僕たちは女子高生と冴えない男子高校生のコンビだ。相手にされないのも無理はない。


「如月さん、やっぱりダメみたいですよ。いくらなんでも、あんな職人のお爺さんが僕たちの話なんて聞いてくれるわけが……」


 僕が小声で撤退を促そうとしたが、如月瑠璃という規格外の天才は、他人の拒絶や『空気を読む』といった概念を最初から持ち合わせていない。


「時間が有限であるという物理的事実には完全に同意する。だからこそ、わしは一秒たりとも無駄にする気はない。時田時計店の店主よ。お主の手元にあるその機械式時計は、一八九〇年代にスイスで製造されたシリンダー脱進機の懐中時計じゃな。しかし、お主のその調整のアプローチは、根本的な物理法則の理解を欠いておる」


 如月さんの凜とした声が、数千の時計の駆動音を切り裂いて、老人の背中へと突き刺さった。


 その瞬間、老人の手がピクリと止まった。

 彼は右目にはめたキズミを外し、初めてゆっくりとこちらを振り返った。深いシワの刻まれた顔に、明確な不快感と怒りの色が浮かんでいる。


「なんだと? 小娘、今なんと言った。俺の調整が間違っているだと? ガキが知ったような口を利くな。六十年、この机で時計の命を繋いできた俺の腕にケチをつける気か」


 老人の低い怒声に、僕は思わず身をすくめた。しかし、如月さんは全く動じない。彼女は木綿のワンピースの裾を翻し、ショーケースの横をすり抜けて、老人の作業机のすぐそばまでスタスタと歩み寄った。


「経験則というものは、時に人間の視覚と論理を盲目にさせる。お主は六十年の経験に頼るあまり、目の前で起きているミクロン単位の物理現象を見落としておるのじゃ」


 如月さんは、机の上に分解された状態で固定されている、真鍮と鋼の極小パーツの集合体を、冷徹なアメジストの瞳で見下ろした。


 それは、時計の心臓部とも言える『天符(てんぷ)』と呼ばれる部品だった。極細のバネが渦を巻き、その中心で金色の輪が高速で左右に振動している。僕の目には、ただ規則正しくブルブルと震えているようにしか見えない。


「よく見るのじゃ。このテンプの振動角。右回転と左回転の振幅に、わずかな非対称性——片振り(ビートエラー)が生じておる。お主はヒゲゼンマイの有効長を微調整してこのエラーを修正しようと試みているようじゃが、それは対症療法に過ぎん。根本的な原因はそこではない」


「な……んだと?」


 老人の顔から、怒りの色がスッと消え、代わりに信じられないものを見るような驚愕が浮かび上がった。


「原因は、脱進機(アンクル)の爪石と、ガンギ車の摩擦係数でもない。テンプの中心軸、すなわち天真の『下ホゾ』じゃ。お主が組み上げる際、微小なチリが混入したか、あるいは油の粘度が極端に高くなっている。その結果、テンプが重力に対して垂直方向に置かれた際、下方向への摩擦抵抗が偏り、等時性が崩れているのじゃ。お主のその濁った眼球とキズミでは、秒間五回という振動の中にある、百分の一ミリの『偏心』を捉えきれておらんだけのことじゃ」


 静寂。

 数千の時計の秒針の音だけが、店内を満たしている。

 老人は、目の前の木綿のワンピースを着た少女を、まるで宇宙人でも見るかのような目で凝視した。そして、無言のまま再び右目にキズミをはめ込み、作業机の上の照明の角度を調整して、テンプの動きを食い入るように見つめ始めた。


 数秒後。

 老人は、ふうっと長く、深い息を吐き出して、ピンセットを作業机に置いた。


「信じられねえ。肉眼で、しかもたった数秒見ただけで、天真のホゾの摩擦の偏りを見抜いただと……? 確かに、お嬢ちゃんの言う通りだ。よく見りゃ、下ホゾの受け石の周りに、油が僅かに変質して固着してる痕跡がある。これが抵抗になって、振り角のバランスを崩してたんだ……」


 老人は、完全に脱帽したというように肩を落とし、そして改めて如月さんを正面から見据えた。

 そこにあったのは、子供を追い払おうとする頑固親父の目ではなく、圧倒的な技術と観察眼を持つ『同業者』あるいは『天才』に対する、純粋な敬意と畏怖の念だった。


「お嬢ちゃん……いや、あんた、一体何者だ? どこの時計師の弟子だ? これほどの目を持った人間を、俺は六十年の人生で見たことがねえ」


「わしは如月瑠璃。時計師などではない。ただ、あらゆるモノのルーツと、そこに存在する物理的真実を探求する者じゃ。お主の時計修理の腕を評価しに来たわけではない。わしは、ある『部品』の過去について、この街の記憶の管理者であるお主の証言を求めてここに来たのじゃ」


 如月さんはそう宣言すると、木綿のワンピースのポケットから、純白の手袋をはめた手で、あの『ひしゃげた真鍮の筒』をゆっくりと取り出した。

 作業机の白熱灯の光が、筒の表面のテンパーカラーと、ネジ山に食い込んだ光学ガラスの欠片を妖しく照らし出す。


「これを見るのじゃ」


 如月さんは、その真鍮の筒を老人の目の前に突きつけた。


 老人は目を細め、キズミを外した目でその金属の塊をじっと見つめた。

 最初は怪訝そうな表情を浮かべていた老人の顔が、次第に驚きに変わり、そして最後には、まるで数十年ぶりに古い友人に出会ったかのような、深く、温かい郷愁の色へと染まっていった。


「こいつは……」


 老人は、油で汚れた指先をエプロンで丁寧に拭うと、如月さんの手からその真鍮の筒を、まるで壊れ物を扱うようにそっと受け取った。

 そのゴツゴツとした指先が、ひしゃげた真鍮の表面、無数の擦り傷、そして特殊なピッチのネジ山を、愛おしむようになぞっていく。


「ああ……間違いない。この五十五度のウィットワースねじのピッチ。そして、この無骨だが頑丈な削り出しの感触。これは、川沿いにあった『篠原製作所』の親父さんが削ったモンだ。あの親父は、既製品の規格なんかクソ食らえってんで、わざわざイギリス製の古い旋盤を使って、自分の納得のいく精度の部品しか作らなかったからな」


「やはりな。わしの推論通りじゃ」


 如月さんは満足げに頷いた。僕も、如月さんの論理がまたしても現実の歴史とピタリと一致したことに、背筋に鳥肌が立つのを感じた。


「しかし、時計店の店主よ。この筒は単なる金属部品ではない。内部の煤と、先端の微小な光学ガラスの欠片。これは映写機のレンズバレルとして使用され、しかも極めて無謀な光学改造を施された結果、高熱によって破損したものじゃ。これほど無謀な改造を、ただの町工場が単独で企画するとは考えにくい」


 如月さんの鋭い追及に、老人はクスリと、どこか楽しそうに笑みをこぼした。


「あんたの言う通りだ、瑠璃ちゃん。こいつはただの部品じゃねえ。三十年以上前、この街で一番のバカで、一番熱苦しかった『若い連中』の、青春の残骸そのものだよ」


 老人は、真鍮の筒を作業机の上にそっと置き、目を閉じて過去の記憶の糸を手繰り寄せ始めた。

 店内に響き渡る数千の時計の音が、まるでタイムマシンのカウントダウンのように聞こえてくる。


「三十年近く前の話だ。この商店街の裏路地で、毎日毎日つるんではバカ騒ぎをしている若い連中がいた。金もねえ、コネもねえ、あるのは体力と無謀な夢だけだ。あいつらはな、『自分たちで映画を撮る』って言って、どっかの質屋からポンコツの8ミリカメラと、壊れかけの映写機を二束三文で買い叩いてきやがったんだ」


 老人のしゃがれた声が、古い映画のナレーションのように店内に響く。


「最初は8ミリフィルムでちまちま撮ってたんだが、あいつらの夢はデカかった。公民館の壁じゃねえ、野外のデカいスクリーンで、町中の連中を集めて自分たちの映画を上映したいって言い出したんだ。だが、お嬢ちゃんも気づいてる通り、家庭用の8ミリ映写機の豆電球みたいな光源じゃ、野外のデカいスクリーンには光量が全然足りねえ。映像が暗くて見えやしねえんだよ」


「なるほど。光量の絶対的な不足。それが、物理的限界を超える改造への動機(トリガー)となったわけじゃな」


 如月さんの合いの手に、老人は深く頷いた。


「ああ。そこで連中が考えたのが、無茶苦茶な改造だ。映写機の光源を、当時工場なんかで使われていた、強烈な光を放つ『アーク灯』か、それに近い高輝度のランプにすげ替えようとしやがった。だが、そんな熱量の高いランプを突っ込めば、普通のプラスチックや薄いアルミの部品じゃ一瞬で溶けちまう。そこで、連中はこの街の職人たちを巻き込んだのさ」


 老人は、作業机の上の真鍮の筒を指差した。


「篠原製作所の親父に泣きついて、熱に強くて頑丈な真鍮の塊から、この特注のレンズバレルを削り出させた。そして、俺のところにも来やがったんだ。『時計の歯車を作る技術で、フィルムを送るギアの精度を上げてくれ』ってな。俺も若かったし、あいつらの熱意に絆されて、徹夜でギアを削ってやったもんさ。毎日が祭りみたいで、本当に楽しかった」


 過去の情景が、手に取るように目に浮かんだ。

 油と汗にまみれながら、一つの機械に夢を託し、試行錯誤を繰り返す若者たちと職人たちの姿。この真鍮の筒は、単なる工業製品ではなく、彼らの熱狂と情動が文字通り結晶化したものだったのだ。


「しかし、その試みは結果として物理的破綻を招いたようじゃな」


 如月さんの冷徹な言葉が、ノスタルジーに浸る空気を現実に引き戻した。

 老人の顔から、楽しげな笑みがスッと消え、代わりに深い哀愁の色が浮かんだ。


「ああ。真鍮は熱に強いが、限度がある。強引に突っ込んだ高輝度ランプの異常な発熱は、筒の内部で不完全燃焼の煤を発生させ、ついには光学ガラスのレンズを固定していた枠ごと、金属を熱膨張で歪ませちまったんだ」


 老人は、机の上の真鍮の筒を見つめたまま、重い声で続けた。


「上映会の日が目前に迫ってた。しかも、その中心にいたリーダー格の男には、どうしても……是が非でも、その映画を見せなきゃならない相手がいたんだよ。そいつは、この街を出て、家庭を持つことを決めていた。映画監督になるって夢を諦めて、就職して、堅実に生きるってな。だから、その映画は、そいつの夢の『最後の打ち上げ花火』だったんだ。そして、その花火を一番見せたかったのが……そいつが一生を誓った、結婚相手の女だったのさ」


 心臓が、ドクン、と大きく鳴った。

 僕の中で、点と点が繋がり、一つの明確な輪郭を持った像が結ばれようとしていた。


「だが、機械は無情だ。情熱だけじゃ熱暴走は止められねえ。本番の直前、機械は完全にオシャカになっちまった。結局、上映会は中止。映画は一度もスクリーンに映し出されることなく、幻に終わったんだ」


 老人は、机の上の真鍮の筒をポンポンと優しく叩いた。


「そいつは、この壊れた部品を抱えて、この街を出て行ったよ。二度と映画を撮ることはねえって、自分への戒めにするためにな。まさか、何十年も経ってから、こんな形でお目にかかるとは思わなかったぜ」


 老人は言葉を切り、再び僕の顔を真っ直ぐに見据えた。


「なあ、光太郎坊主」


 突然名前を呼ばれ、僕は肩をビクンと震わせた。


「お前さん、親父さんにそっくりになってきたな。昔の、あのバカで真っ直ぐだった頃の親父さんによ」


「……え?」


「この真鍮の筒を持っていた男。この無茶苦茶な映画制作の中心で、夢がぶっ壊れるのを目の当たりにした男。……それは、定光。お前さんの親父さんだよ」


 数千の時計の音が、一瞬だけ完全に無音になったかのように感じられた。


 僕の脳内で、今朝の物置での出来事がフラッシュバックする。

 この筒を見つけた時の、父さんの明らかな動揺。

「それはただのゴミだ」「早く捨てろ」と声を荒らげた、あの不自然な態度。

 如月さんに論破され、沈黙した時の、どこか遠くを見るような、哀しみを帯びた横顔。


 すべてが、繋がった。

 このひしゃげた真鍮の筒は、父さんが若き日に抱いていた夢の残骸であり、母さんに最後に見せたかった幻の映画の記憶であり、そして……夢を諦めて僕たち家族を選んだという、不器用で、どうしようもなく人間臭い『情動の塊』だったのだ。


「……父さん……」


 僕の口から、掠れた声が漏れた。

 胸の奥がギュッと締め付けられるような、痛いような、それでいてどこか温かいような、得体の知れない感情が込み上げてくる。

 ただのガラクタだと思っていたものが、僕の知らない父さんの青春のルーツであり、僕という存在に繋がる歴史の一部だったなんて。


「……歴史の照合は、これで完了じゃ」


 如月さんの静かな、しかし確信に満ちた声が響いた。

 彼女は机の上の真鍮の筒を拾い上げ、再び木綿のワンピースのポケットへと収めた。その深いアメジストの瞳には、まだ解明されていない『傷の理由』に対する静かな熱が宿っているのを僕は知る由もなかった。


「店主よ。有益な証言、感謝する。お主の時計修理の腕は、その頑固さと等しく確かなものじゃ。下ホゾの油の固着を洗浄し、振り角を適正値に戻せば、その時計はあと百年は狂いなく時を刻むじゃろう」


 如月さんはそう言い残し、クルリと背を向けて店の出口へと歩き出した。


「お嬢ちゃん」


 老人が、その背中に向かって声をかけた。


「あんた、定光の息子の幼馴染なんだろ。定光に伝えておいてくれ。あの時のバカ騒ぎは、俺たちにとっても最高の時間だった。映画は完成しなかったが、お前が残したその部品は、俺たちの誇りだってな」


 如月さんは引き戸の取っ手に手をかけたまま、振り返ることなく、ただ一度だけコクリと頷いた。


「情動の伝達は、わしの専門外じゃ。それは、そこにいるサクタロウの役目じゃろう」


 カランカラン、と。

 再び真鍮のベルが鳴り、僕たちは時田時計店を後にした。

 外に出ると、旧市街はすでに完全に夕闇に包まれようとしていた。



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