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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~section 8:学生時代の挫折と、親父の背中~

 時田時計店の重く、立て付けの悪い木枠の引き戸を閉めると、背後でカランカランという真鍮のベルの音が郷愁を帯びて鳴り響き、やがて旧市街の夕暮れの空気の中へとゆっくりと溶けて消えていった。


 数千もの時計が狂気じみた精度で刻み続けていた『時間』の奔流から抜け出した僕たちを待っていたのは、すっかり日が落ちかけ、深い茜色と群青色が複雑に混じり合う、逢魔が時の空だった。西の空の低い位置に沈みゆくセピア色の太陽は、この夢の中の世界である旧市街の輪郭を、まるで燃え尽きる直前の炭火のように赤々と、そしてどこか物悲しく照らし出している。


 木造モルタルの長屋のひび割れた壁も、サビが浮いたトタン屋根も、電柱からクモの巣のように複雑に伸びる電線のシルエットも、すべてがセピア色から深いオレンジ色へとその色調を変え、長い長い影を路地裏のアスファルトに落としていた。

 どこかの家の換気扇から、焼き魚の焦げる匂いや、ネギをリズミカルに刻む小気味よい包丁の音が漏れ聞こえてくる。遠くの空ではカラスが二羽、三羽とねぐらへ帰るための鳴き声を上げ、豆腐屋のラッパの音が、パープーと間延びした旋律を奏でながら、迷路のような路地の奥へと遠ざかっていく。


 現実の月見坂市——完全なスマートシティとして再開発され、夕暮れになれば自動的に照度を調整された白色LEDの街灯が点灯し、常に無機質で完璧な清潔感に包まれるあの街では、決して嗅ぐことのできない「生活の匂い」と「人間の体温」が、この夢の空間にはむせ返るほどに充満していた。


「……すっかり遅くなっちゃいましたね」


 僕は、自分の右手でぶら下げている、油染みのついた茶色い紙袋を見つめながら、隣を歩く如月さんにポツリとこぼした。


 時計店を出た後、僕たちは再び商店街のメインストリートを通り抜けた。しかし、時刻はすでに夕刻のピークを過ぎており、各店舗は店じまいの準備を始めていた。父さんが今朝の食卓で豪語していた肉屋の『特上の霜降り和牛』などはとっくに売り切れていたし、そもそも如月さんが看破した通り、朔家の家計のエンゲル係数を考えれば、最初からそんな高級食材を買える余裕などあるはずもなかったのだ。


 結局、手ぶらで帰るわけにもいかず、僕たちは先ほど如月さんに熱々のコロッケを恵んでくれた『鈴木精肉店』に再び立ち寄った。そして、残っていた特売の豚コマ肉のパックと、夕飯のおかずのボリュームを補うためのメンチカツやハムカツをいくつか見繕い、この茶色い紙袋に放り込んでもらったのだ。


「サクタロウよ。お主の脳内は未だにすき焼きという強固な固定観念に支配されておるようじゃが、栄養素の観点から言えば、和牛の霜降りに含まれる過剰な飽和脂肪酸よりも、豚肉に含まれるビタミンB群の方が、疲労回復およびエネルギー代謝のプロセスにおいて遥かに理にかなっておる」


 如月さんは、夕暮れの冷たい風に木綿のワンピースの裾を静かに揺らしながら、前を向いたまま淡々と答えた。その両手は純白のオーダーメイド手袋に包まれたまま、ワンピースのポケットの奥底に沈められている。その手の中には、時田時計店の老人が『青春の残骸』と呼んだあの『ひしゃげた真鍮の筒』が、外部の衝撃から守られるように大切に握られているはずだ。


「さらに言えば、あの精肉店の揚げ物は、ラードとヘッドを独自の比率で配合した揚げ油を使用しておる。パン粉の糖分とアミノ酸がメイラード反応を起こした香ばしさに加え、動物性油脂の深いコクが衣に完全にコーティングされている。これを炊きたての白米と共に咀嚼すれば、お主の父親が求める『休日のご馳走』としての多幸感は十分に、かつ物理的に満たされるはずじゃ。特上の和牛などという記号的な価値に縋る必要は全くない」


「まあ、如月さんがそう言うなら、今日の夕飯は豚コマの炒め物とメンチカツで決まりですね。父さん、すき焼きが食べられないって知ったら、また泣くかもしれないけど」


 僕は苦笑しながら、手元の紙袋から伝わってくる揚げたてのメンチカツの微かな温もりを、手のひらで感じ取った。

 休日の豪勢な夕食という父さんの薄っぺらい見栄は完全に潰え、結果的に手に入れたのは、庶民の味方であるお惣菜と、特売の豚肉。そして、父さんが三十年以上も前に物置の奥底にひっそりと封印した、ひしゃげた真鍮のレンズバレルという『過去の亡霊』だけだ。


 僕たちは、肩を並べて旧市街の夕暮れの道を歩き続けた。

 靴底が古びたコンクリートを擦る音が、静かな路地にリズミカルに響く。隣を歩く如月さんは、目的のデータを完全に収集し終えたからか、それ以上口を開こうとはしなかった。


 沈黙の中、僕の脳内では、時田時計店の老人が語った証言が、何度も何度も、まるで壊れたレコードのようにリフレインしていた。


 ——三十年前、この街の若い連中が自分たちで映画を撮ろうとしていた。

 ——その中心にいたのは、お前の親父さん、定光だ。

 ——完成しなかった映画を、どうしても見せたい相手がいた。結婚して、夢を諦めてでも守りたいと思った相手に。


 父さん。朔定光。

 僕の知る父さんは、休日の朝は昼過ぎまでよれよれのスウェット姿でいびきをかいて寝ており、起き出してきたかと思えばテレビのバラエティ番組を見てだらしなく腹を抱えて笑う。夕飯の時には安物の発泡酒を飲んで顔を赤くし、どうでもいい親父ギャグを連発しては僕や母さんに呆れられる。どこにでもいる、平凡で小市民の代表のような中年男性だ。


 如月さんが今日この夢の世界に現れてからもそうだった。『息子の可愛い幼馴染』の前で、出っ張った腹を引っ込め、ダンディな低音ボイスを作り、特上の和牛を買うなどと身の丈に合わない見栄を張った。そしてその数分後には、如月さんの容赦のない論理によってその見栄の城塞を木っ端微塵に粉砕され、涙目でしどろもどろになっていた。


 それが、僕にとっての『父親』の絶対的なイメージだった。

 泥臭く、情けなく、かっこ悪く、そしてどこか憎めない男。


 しかし、僕の記憶の奥底、深い深い海の底に沈殿し、分厚い泥を被っていた『ある映像』が、時田時計店の老人の言葉を強烈なトリガーにして、鮮明なリアリティを伴って一気に水面へと浮上してきていた。


 あれは僕がまだ小学校の三年生か、四年生だった頃のことだ。

 年末の大掃除の日に、押し入れの天袋の奥深く、ナフタリンの防虫剤の匂いがキツく染み付いた古い段ボール箱の中から、一冊の分厚いアルバムを見つけたことがあった。

 表紙の布が擦り切れ、ページを開くと台紙のノリが劣化してパリパリと音を立てるような、時代遅れのひどく重たいアルバム。


 そこに収められていたのは、僕の生まれるずっと前、セピア色に退色した写真の数々だった。

 風景写真や、見知らぬ若い男女が肩を組んで笑っている写真など、子供の僕には退屈なものばかりだったが、その中に、一枚だけ、僕の目を強烈に惹きつけて離さない写真があった。


 白黒からカラーへと移行し始めたばかりのような、粗い粒子の写真。

 そこに写っていたのは、長髪を後ろで無造作に束ね、洗いざらしの白いTシャツに色落ちしたジーンズというラフな格好をした一人の若い男だった。

 男の肩には、当時としてはかなり高価だったであろう、黒く重厚な金属製の8ミリフィルムカメラが担がれている。

 男の背後には、ベニヤ板にスプレーペンキで殴り書きされた『SAKU PRODUCTION』という不格好な看板が立てかけられていた。


 写真の中の男は、カメラのファインダーから片目を離し、レンズの向こう側にいる誰かに向かって、真夏の太陽のように眩しく、そして自信に満ち溢れた、少しだけ照れくさそうな笑顔を向けていた。


 今の父さんの顔の面影は確かにある。しかし、その瞳の奥に宿っている『熱量』が決定的に違っていた。何かに熱狂し、自分たちの作る物語を信じて疑わず、世界中のすべてを自分の手でフィルムに収めることができると信じ切っている、若さと情動の爆発的なエネルギー。それが、一枚の静止画からでさえビリビリと伝わってくるような、そんな一枚だった。


『お母さん、これ誰? お父さん? なんでこんな大きなカメラ持ってるの?』


 幼い僕が、たまたま掃除用具を持って部屋に入ってきた母さんにその写真を指差して尋ねると、母さんはハッとしたように目を丸くし、手にした雑巾を落としそうになった。そして、ゆっくりと僕のそばに歩み寄ると、とても優しく、どこか切なそうな、深い微笑みを浮かべた。


『……そうよ。お父さんがまだ、映画監督になるっていう無謀な夢を追いかけていた頃の写真。この時はね、毎日毎日徹夜で脚本を書いて、仲間たちと大喧嘩しながら、それでも本当に、本当に楽しそうだったわ』


 母さんのその時の声のトーンを、僕は今でもはっきりと覚えている。

 愛おしさと、懐かしさと、そしてほんの少しの『罪悪感』が入り混じったような、複雑な響き。


『でも、どうして映画監督にならなかったの? テレビでお父さんの映画、見たことないよ』


 無邪気で残酷な僕の問いかけに対し、母さんは何も言わず、ただアルバムをそっと閉じた。そして、僕の頭を優しく撫でて、まるで自分自身に言い聞かせるようにこう言ったのだ。


『お父さんはね、光太郎が生まれるってわかった時、自分でそのカメラを押し入れの奥にしまったの。夢を追いかけるよりも、お母さんと、これから生まれてくる光太郎の手をしっかりと握って、現実の地面を歩いていくことを選んでくれたのよ。だから、今のお父さんがあるのは、光太郎のおかげなの』


 あの時の僕は、その言葉の本当の重みを全く理解していなかった。

 ただ「ふーん、僕のためにやめたんだ。ふつうの会社員になったんだね」くらいにしか思っていなかった。無邪気という名の暴力で、父さんの過去をあっさりと消費してしまっていた。


 しかし、十六歳になった今ならわかる。

 自分の人生を賭けた夢を諦めるということが、どれほどの絶望と、身を引き裂かれるような喪失感を伴うものなのか。

 自分の魂の半分とも言える情熱を切り離し、平凡な日常という名のレールに自ら乗り換えるための決断が、どれほどの覚悟と痛みを必要とするものなのか。


 父さんは、才能の限界を感じたから映画を辞めたわけではない。

 仲間たちと喧嘩別れして、嫌気がさしたからでもない。

 時計店の老人が言っていた通りだ。父さんは、母さんと結婚し、僕という家族を養っていくために、自らの手で、自らの夢に幕を下ろしたのだ。


 その『最後の打ち上げ花火』となるはずだったのが、あの幻の上映会だった。

 愛する人に見せるためだけに、機械の物理的な限界を超えた無茶な改造を施し、そして本番を前にして熱暴走によって無残にひしゃげてしまった、あの真鍮のレンズバレル。


 父さんが、あの真鍮の筒を捨てられずにいた理由。

 そして、今朝、物置でそれを見つけた時に、激しく動揺し『それはただのガラクタだ』と声を荒らげて吐き捨てるように言った理由。


 それは、自分の夢が『無残に壊れた』という現実を、今さら直視したくなかったからだ。

 諦めきれなかった情熱の残骸を、如月瑠璃という、他者の感情を一切の容赦なく論理で暴き出す天才の目に触れさせたくなかったからだ。


「……父さん……」


 気がつけば、僕の視界は微かに滲んでいた。

 夕暮れの冷たい風が頬を撫でていくが、目頭の熱さは一向に引く気配がない。

 僕という存在が、結果的に父さんの夢を終わらせた。その事実の重さと、僕たち家族を守るために、あの見栄っ張りで不器用な父さんが、どれほど大きなものを一人で背負って生きてきたのかという深い感謝の念。それらが胸の奥で複雑に絡み合い、どうしようもない感情の奔流となって溢れ出しそうになっていた。


 あの物置にあったのは、ただのガラクタではない。

 あれは、父さんの青春の墓標であり、挫折の象徴だったのだ。絶望の中で壊れてしまった機械の残骸を、捨てることもできずに三十年間も隠し続けていた、不器用な男の感傷。


「なんだ、サクタロウ。お主、眼球の表面に過剰な涙液が分泌されておるぞ。夕暮れの低下した気温による結膜の刺激か? それとも、大気中に浮遊する微粒子に対するアレルギー反応か?」


 僕が立ち止まり、パーカーの袖で乱暴に目元をこすっていると、少し前を歩いていた如月さんが歩みを止め、振り返って僕を観察してきた。

 その深いアメジストの瞳には、一切の感情の揺れはなく、ただ僕の生理現象を客観的に分析しようとする冷徹な光だけが宿っている。


「違いますよ、アレルギーなんかじゃありません。……ちょっと、色々と考えちゃって」


「考える? お主のその貧弱な脳細胞で、何をシミュレートしたというのじゃ」


 如月さんの冷たい言葉にも、今の僕は腹を立てる気にはならなかった。むしろ、彼女がルーツを探り当ててくれたからこそ、僕は父さんの本当の姿を知ることができたのだ。


「……父さんのことです。あの真鍮の筒が、父さんが映画監督の夢を諦めた証拠だってことが分かって……。父さんは、僕や母さんとの生活を選ぶために、あの壊れた部品と一緒に自分の夢を物置の底に封印したんだなって。絶望して、夢を終わらせたあの残骸を、ずっと捨てられずにいたんだと思ったら……なんだか急に、父さんのあの情けない背中が、すごく大きくて立派なものに見えてきて……」


 僕は、鼻をすすりながら、自分の内側に湧き上がった『情動』を素直に吐露した。

 自分の夢を犠牲にして家族を守った、不器用で優しい父親の悲しい物語。それは、ドラマチックで、感傷的で、誰もが涙を流すような美しい結末だ。


 しかし。

 僕の言葉を聞き終えた如月瑠璃の反応は、僕の予想を——いや、一般的な人間の感情のベクトルを、根底から覆すものだった。


「……サクタロウ。お主はやはり、根本的に観察眼が欠如しておるな。いや、観察眼以前の問題じゃ。焦点が完全にずれておる」


「え……?」


 如月さんの深いアメジストの瞳が、夕闇の中で妖しく、そして恐ろしいほどに冷徹な光を放った。

 彼女は木綿のワンピースのポケットから、純白の手袋に包まれた手で、再びあの『ひしゃげた真鍮の筒』を取り出し、僕の目の前へと突きつけた。


「お主は今、自らの脳内で勝手に構築した『家族愛』や『自己犠牲』という甘美で感傷的なストーリーに酔いしれ、目の前に提示されている最も重要な『物理的証拠』から完全に目を背けておる」


「目を背けてるって……どういうことですか? 時計屋のお爺さんも言ってたじゃないですか。父さんは夢を諦めたから、これを残して街を出たって……」


「時計店の店主は、あくまで『第三者』の視点から推測される情景を語ったに過ぎん。人間の記憶や伝聞などというものは、年月と共に感傷によって容易に書き換えられる、極めて不確かなデータじゃ。わしが信じるのは、ただ一つ。このモノ自体に刻まれた、嘘偽りのない物理的痕跡のみじゃ」


 如月さんは、銀のルーペを取り出し、真鍮の筒の最もひしゃげている中央部分へと当てた。


「よく聞くのじゃ、サクタロウ。問題は『なぜお主の父親が夢を諦めたか』ではない。そんな個人的な人生の選択など、わしの鑑定においてはどうでもよいことじゃ。この真鍮の筒が突きつけている最大の謎は、『なぜこの部品が、これほどまでに不自然な形でひしゃげているか』という一点に尽きる」


 如月さんの声のトーンが、一段階下がった。それは彼女が、論理の刃を最も鋭く研ぎ澄ませた時の合図だった。


「もしも、お主の父親が、熱暴走で壊れた映写機を見て完全に心が折れ、夢を諦めたのであれば。あるいは、結婚を機に映画への未練を断ち切るために、自らの手で引導を渡したのであれば。この筒に残るべき物理的痕跡は、『破壊』のアプローチでなくてはならない。ハンマーで力任せに叩き潰した打痕、あるいは壁に投げつけた際の一方向からの激しい衝突痕。それが、絶望と諦観を示す正しい物理的反応じゃ」


 如月さんは、筒の表面に無数に刻まれた、えぐり取るようなガリ傷を指差した。


「しかし、この筒に残されている傷は、そのどれにも該当せん。サクタロウ、お主はこの傷を、夢が破れた男の単なる絶望の痕跡だと錯覚しておるようじゃが、それは大間違いじゃ。これは単なる経年劣化ではない。そして、怒りに任せて叩き壊した痕跡でも決してない」


 如月さんは、純白の手袋に包まれた真鍮の筒を、まるで未解決の難事件の証拠品のように高く掲げた。

 夕闇の迫る旧市街の空を背景に、そのひしゃげた金属は、どんな宝石よりも力強く、雄弁に自らのルーツを語りかけているように見えた。


「これは『破壊』ではない。全く逆の、より深く、より執念深いベクトルを持った物理的アプローチの痕跡じゃ。お主の父親は、絶望してこれを壊したのではない。お主のその安っぽい感傷は、この金属に刻まれた真実のルーツを著しく歪めておる」


「破壊じゃ、ない……? じゃあ、一体なんなんですか、この傷は」


 僕が戸惑いながら尋ねると、如月さんは銀のルーペをポケットにしまい、僕を冷ややかに見つめ返した。


「答えはすでに、この傷の形状と方向性が示しておる。しかし、それを今ここで言語化するのは無粋というものじゃ。この真鍮の筒に隠された本当の情動は、当事者であるお主の父親の眼前に突きつけてこそ、初めて完全な証明となる」


 如月さんはそう言い放つと、真鍮の筒を再びポケットにしまい、今度こそ朔家への帰路を足早に歩き始めた。


「さあ、帰るぞサクタロウ。お主の感傷的な推論は一旦保留じゃ。朔家の食卓で、お主の父親の情動の深淵を、物理的証拠をもって完全に解体してやろう」


 僕は、その場に立ち尽くしていた。

 右手にある紙袋からは、メンチカツの匂いが立ち昇っている。

 頭上では、街灯がパッとオレンジ色の光を放ち、旧市街の路地を照らし出した。


 父さんは、絶望してこれを壊したわけではない?

 破壊ではないとすれば、あの不自然にひしゃげた形と、無数についた傷跡は、一体何を意味しているというのか。


 僕の脳内で組み上がっていた『夢を諦めた悲しい父親像』が、如月瑠璃の提示した『さらなる深淵』によって、再び根底から揺さぶられ始めていた。


「待ってくださいよ、如月さん!」


 僕は、夕暮れの路地を小走りで駆け出した。

 前を歩く、木綿のワンピースを着た、どこまでもブレない天才令嬢の背中を追いかけて。


 行く手には、僕たちの家——朔家が、セピア色の夕闇の中にポツンと明かりを灯して待っている。

 父さんがひた隠しにしてきた過去の遺物を、如月瑠璃の論理の刃が完膚なきまでに解剖する、最終フェーズの舞台が。


 僕の胸の中には、もはや感傷に浸る余裕はなかった。

 あるのはただ、助手の特等席で、この想像を超えた謎解きの結末を見届けたいという、純粋な高揚感だけだった。



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