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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~section 4:無価値のガラクタと、探求の始まり~

 埃とカビ、そして長年の間、誰の目にも触れることなく放置されてきた古い物品たちが放つ独特の匂いが充満する朔家の裏庭の物置。その薄暗く閉鎖的な空間の中で、僕はただ息を潜め、目の前で繰り広げられる異様な光景をじっと見つめることしかできなかった。


 外界の時間は、この四畳半ほどの狭いトタン小屋の中だけ完全に停止してしまったかのようだった。唯一動いているのは、トタンの隙間から差し込むセピア色がかった細い朝陽の光の筋の中で、ゆっくりと、しかし確実に舞い踊る無数の埃の粒子たちだけだ。


 僕の目の前には、薄暗い背景から完全に切り離されたかのように、異常なほどの存在感を放つ一人の少女がしゃがみ込んでいる。

 木綿のワンピース姿という、この『庶民の幼馴染』という夢の中の設定に完全に溶け込んだ素朴な出で立ちでありながら、彼女の両手には、この場には最も不釣り合いな純白のオーダーメイド手袋がはめられていた。そして、その右手には、精緻な銀細工が施されたアンティークのルーペが握られている。


 如月瑠璃。

 彼女は今、完全に彼女自身の絶対領域である『鑑定モード』へと移行していた。


 純白の手袋に包まれた両手の上には、先ほどまで床の泥と埃にまみれて転がっていた、ひしゃげた真鍮の筒が大切に、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように乗せられている。深いアメジストの瞳が、銀のルーペのレンズ越しに、その金属の表面に刻まれた微細な傷跡や、熱による変色、内側にこびりついた炭素の結晶を舐め回すように観察し続けている。


「……」


 如月さんは無言だった。しかし、その沈黙は決して思考の停止を意味するものではない。むしろ逆だ。彼女の驚異的な頭脳の中では今、凄まじい速度で物理的データが収集され、過去の膨大な知識のデータベースと照合され、いくつもの仮説が構築されては棄却されるという、超高速の演算処理が行われている真っ最中なのだ。


 僕は、そのピンと張り詰めた空気を肌で感じ取りながら、持っていたクーラーボックスの取っ手からそっと手を離した。

 もはや、休日のすき焼きパーティーのための買い出しなどという平和なミッションは、完全に彼女の意識の外へと追いやられてしまったことは明白だった。僕がここで「如月さん、早くクーラーボックスを出して肉屋に行きましょう」などと声をかけたところで、彼女が「そうじゃな」と素直に応じる確率など、天文学的な数字よりも低い。


「……仕方ない、か」


 僕は心の中で深く、重いため息をついた。

 たとえここが僕の脳が作り出した『もしもの世界』の夢の中であろうと、如月瑠璃という強烈な個人のパーソナリティは一ミリもブレることはない。彼女の興味を惹く『謎』と『物理的痕跡』が存在する限り、彼女はそれを徹底的に解剖し、ルーツを白日に晒すまで決して歩みを止めることはないのだ。助手として彼女の側にいる僕は、その嵐が過ぎ去るのをただじっと待つか、あるいは巻き込まれて共に吹き飛ばされるかの二択しか与えられていない。


 そんな諦観に僕が浸っていた、まさにその時だった。


「おーい! 光太郎、瑠璃ちゃん! 何をそんなに手間取っているんだ? クーラーボックスを出すだけだろう、早くしないと商店街の肉屋の特上肉が売り切れてしまうじゃないか!」


 物置の外、裏庭のぬかるんだ地面を踏みしめる音とともに、無神経で呑気な声が響き渡った。

 父さんだ。

『イケてる親父』を如月さんの前で演じきれず、見え透いた虚勢を論破されてすっかり意気消沈していたはずの父さんだったが、立ち直りの早さだけは現実世界と何一つ変わっていないらしい。足音は迷いなく物置の入り口へと近づいてくる。


「おお、二人ともこんな埃っぽいところで……うわっ、なんだこのカビ臭さは。光太郎、お前はもっと日頃からここを掃除しておきなさいと言っているだろう」


 自分が何年も放置してきた事実を完全に棚に上げ、父さんは偉そうに小言を言いながら、半分だけ開いた物置の引き戸からぬっと顔を覗かせた。


「父さん、急に来るなよ。今ちょっと、如月さんが……」


 僕が言いかけた言葉は、最後まで続くことはなかった。

 物置の中を覗き込んだ父さんの視線が、僕の顔を通り越し、その奥でしゃがみ込んでいる如月さんの手元へと注がれた瞬間。


 ピクリ、と。

 父さんの顔の筋肉が、不自然に引きつるのを僕は見逃さなかった。


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。時間にしてコンマ数秒にも満たない、極めて微細な表情の変化。

 普段の僕であれば、そんな些細な変化に気づくことは絶対にできなかっただろう。しかし、日常的に如月さんの『物理的観察眼』による人間観察のプロセスを間近で見せつけられているうちに、僕の目も無意識のうちに他者の『微細な生理反応』を捉えるように訓練されてしまっていたのだ。


 父さんの目は、如月さんの純白の手袋の上に乗せられた『ひしゃげた真鍮の筒』を視界に捉えた瞬間、明らかな動揺を示した。

 大きく開かれようとしていた口元は一瞬だけ硬直するように引き結ばれ、眉間には深いシワが寄り、そして何より、先ほどまで呑気に発声していた喉仏が、ゴクリと唾を飲み込むために大きく上下に動いたのだ。


 それは『自分の見られたくない隠し事』を突然目の前に突きつけられた人間の、極めて典型的な防衛反応だった。


「……あ、あー。なんだ瑠璃ちゃん、そんな汚いものを素手で……いや、手袋はしているみたいだが、そんな埃まみれのものを触ってはいけないよ」


 一瞬の硬直の後、父さんは慌てて表情を取り繕い、不自然なほどに高い声で言葉を紡ぎ始めた。その声には、先ほどまでの『頼れる父親』を演じようとする余裕はなく、ただひたすらに目の前の状況を早く終わらせたいという焦燥感が滲み出ていた。


「それはね、ただの昔のガラクタだ。いつか捨てようと思って、つい忘れて裏庭に放り込んでおいた鉄屑だよ。さあさあ、そんな汚いものは早くそこらへんに放り投げて、手を洗いに戻りなさい。光太郎も、ぼさっとしていないで早くクーラーボックスを外に出すんだ!」


 父さんは、まるで不浄なものを遠ざけるかのようにシッシッと手を振りながら、如月さんからその真鍮の筒を取り上げようとするかのように一歩前へと踏み出した。


 その父さんの態度は、僕の目から見てもあまりにも不自然極まりなかった。

 普段の父さんであれば、物置からよくわからないガラクタが出てきたところで「なんだこりゃ?」と首を傾げる程度で、わざわざ声を荒らげてまで捨てさせようとはしないはずだ。それなのに、今の父さんは明らかに『その筒の存在を如月さんの視界から一刻も早く消し去りたい』という強烈な意図を持って行動している。


「父さん、ちょっと待ってよ。そんなに焦らなくても……」


 僕が父さんと如月さんの間に入って場を仲裁しようと手を差し出した、まさにその時。


「……サクタロウの父よ。お主は今、この物体を『ただの昔のガラクタ』であり、『汚いから捨てろ』と呼称したな」


 低く、静かで、しかし物置の淀んだ空気を一瞬で凍りつかせるような冷徹な声が響いた。

 如月さんは、しゃがみ込んだ姿勢のまま、手元の真鍮の筒から視線を一切外すことなく、ただ声の響きだけで父さんの歩みをピタリと止めさせた。


「え……? あ、ああ、そうだ。どう見てもただのゴミじゃないか。そんなひしゃげた鉄の筒なんて、何の役にも立たない。だから早く……」


「愚鈍の極みじゃ」


 父さんの言葉を叩き斬るように、如月さんの鋭い一言が放たれた。

 その言葉には、一切の感情の昂りは含まれていない。怒りも、呆れも、軽蔑すらもない。ただ純粋に、『客観的な事実』として父さんの発言の愚かさを指摘する、氷のように冷たい宣告だった。


 如月さんはゆっくりと立ち上がった。

 木綿のワンピースの裾が静かに揺れ、純白の手袋に包まれた両手で真鍮の筒を胸の高さまで持ち上げる。そして、初めてその深いアメジストの瞳を、物置の入り口で立ち尽くす父さんへと向けた。


「思考を放棄した人間は、自らの理解を超えたもの、あるいは自らの直視したくない過去の遺物を、総じて『ガラクタ』という便利な言葉で一括りにし、視界から排除しようとする。しかし、それは現実に対する敗北宣言に他ならん」


 如月さんは一歩、父さんの方へと歩み寄った。彼女の華奢な体躯から放たれる圧倒的な知的威圧感に、大柄な父さんが思わず半歩後ずさる。


「よく聞くのじゃ。この世界に、初めから無価値な『ガラクタ』として産み落とされるモノなど一つとして存在せん。あらゆる人工物は、誰かの明確な意図と情動、そして物理的な設計思想に基づいてこの世に形を成す。それがどれほど破損し、歪み、埃にまみれようとも、そこに刻まれた『存在した理由』と『傷のルーツ』が消滅することはない」


 彼女の言葉は、ただの正論という枠を超え、もはや物理法則そのものを代弁しているかのような絶対的な重みを持っていた。


「お主はこれを『何の役にも立たない鉄屑』と断じたな。その観察眼の浅薄さには反吐が出る思いじゃが、そもそも材質からして間違っておる。これは鉄ではない、真鍮じゃ。そして、これが単なるゴミではないという物理的証拠を、今ここでお主の眼前に突きつけてやろう」


 如月さんはそう言うと、真鍮の筒の開口部を父さんの目の前へと突き出した。

 そして、もう片方の手に持った銀のルーペを、筒の端に切られている細かい溝——ネジ山の部分へと当てた。


「第一の証拠。この筒の両端に切られているネジ山の間隔(ピッチ)と形状じゃ。サクタロウ、お主もよく見ておくのじゃ」


 如月さんに促され、僕も横からルーペの視界を覗き込んだ。

 確かに、筒の端には、他の部品と噛み合わせるための細かい螺旋状の溝が彫られている。しかし、それは所々が潰れ、激しく摩耗していた。


「現在、日本国内で流通している一般的なネジやボルトの規格は、日本産業規格(JIS)に基づくメートルねじが主流じゃ。そのネジ山の角度は六十度と規定されておる。しかし、この真鍮の筒に刻まれたネジ山を観察してみるのじゃ。山の頂点がわずかに丸みを帯びており、谷の底も同様のカーブを描いておる。そして、山の角度は五十五度。これはメートルねじではない」


「ご、五十五度……? そんな細かいこと、目で見てもわかるわけが……」


 父さんが狼狽しながら反論しようとするが、如月さんは全く取り合わない。


「お主の濁った眼球では不可能でも、わしの物理的観察眼とこのルーペを用いればミリ単位以下の誤差も容易に判別可能じゃ。角度が五十五度、そしてこのピッチの間隔……これは明らかに、古いイギリス規格である『ウィットワースねじ』の特徴を有しておる。あるいは、それを模倣して極めて精緻に手作業で切られた特注のネジ山じゃ」


「ウィットワース……ねじ?」


 僕が鸚鵡返しに尋ねると、如月さんはコクリと頷いた。


「左様。現代の大量生産品において、あえてこのような古い規格、あるいは特殊なピッチのネジ山を採用する合理的理由は存在せん。つまり、この真鍮の筒は、どこかの工場で大量生産された水道管の切れ端などではなく、数十年前の古い機械の一部であるか、あるいは特定の目的のために、どこかの熟練した職人がわざわざ旋盤を回して一つ一つ手作業で削り出した、極めて特殊な『専用部品』であるということが、このネジ山一つから完全に証明されるのじゃ」


 如月さんの淀みない論理の展開に、父さんは完全に言葉を失い、口をパクパクとさせている。

 しかし、如月さんの追及はこれだけでは終わらなかった。彼女は筒の中央部分、最も激しくひしゃげている箇所を指差した。


「第二の証拠じゃ。お主はこれを『汚い』と言ったが、この表面の変色は単なる経年劣化による酸化や、泥汚れではない。サクタロウ、この金属の表面の色合いが、一様ではないことに気づいておるか?」


 言われてみれば、ひしゃげた部分を中心に、真鍮の表面の色がグラデーションのように変化している。全体的には鈍い黄色だが、ある部分は赤茶色に、またある部分はわずかに青紫がかった色に変色していた。


「あ、本当だ。なんか虹色というか、油膜が張ったみたいな色になってる箇所がありますね」


「その通りじゃ。これは『熱変色(テンパーカラー)』と呼ばれる物理現象じゃ。金属が空気中で加熱されると、表面に薄い酸化皮膜が形成される。その皮膜の厚さによって光の干渉現象が起こり、特定の色として人間の目に認識されるのじゃ」


 如月さんはまるで大学の物理学の教授のような流暢さで、淡々と解説を続ける。


「鉄の場合であれば、摂氏二百三十度付近で淡い黄色、二百六十度付近で褐色、三百度を超えると青色へと変化する。真鍮の場合も同様に、受熱した温度帯によって明確に色合いが変化する。この真鍮の筒の表面には、青紫から褐色に至るまでの複雑なテンパーカラーが局所的に発生しておる。これが意味することはただ一つ」


 如月さんはそこで言葉を区切り、鋭い視線で父さんを射抜いた。


「この筒は、火事などの広範囲な火炎に包まれたのではない。何らかの強力な『光源』あるいは『熱源』をその内部に収め、長期間にわたって局所的かつ継続的な高熱に晒され続けたということじゃ。内部にこびりついた不完全燃焼による炭素の煤、そしてこのテンパーカラー。これらが複合的に示す事実は、この筒が単なる金属片ではなく、光と熱を操る何らかの『光学機器』の中心的な役割を担っていた中枢部品であるという、動かしがたい物理的証拠なのじゃ」


 静寂。

 物置の中に、如月さんの凜とした声の余韻だけが響き渡り、そしてゆっくりと床の埃の中へと吸い込まれていった。


 完璧だった。

 ただの薄汚れた、ひしゃげた金属の筒。普通の人なら一秒でゴミ箱に直行させるであろうその物体から、如月瑠璃はネジ山の角度と金属の酸化皮膜の光の干渉という物理的アプローチのみを用いて、そのモノがかつて担っていた役割と、特殊なルーツを見事に抉り出してみせたのだ。


 それはもはや推理などという生ぬるいものではない。事実という名の鈍器で、父さんの『ガラクタだ』という言い逃れを粉々に打ち砕く、圧倒的な論破だった。


「……っ」


 父さんは、如月さんの突きつけた物理的証拠の前に完全に沈黙した。

 顔からは先ほどまでの焦燥感すら消え失せ、ただ呆然と、自分の足元に視線を落としている。その目は、目の前にある真鍮の筒を見ているのではなく、その筒がかつて完全な形を保っていた『過去の情景』を幻視しているかのように、どこか遠くを彷徨っていた。


 その父さんの姿を見て、僕の中にある確信が芽生えた。

 この真鍮の筒は、決してどこからか偶然紛れ込んだゴミなどではない。父さんは、この筒の正体を知っている。いや、知っているどころか、この筒がこんな無残にひしゃげた姿になったことに対して、何らかの深い関わりを持っているのだ。だからこそ、如月さんの目からこれを遠ざけようと必死に取り繕ったのだ。


「お主のその沈黙は、わしの推論が的を射ていることの何よりの証明じゃな」


 如月さんは手元の真鍮の筒を、再び木綿のワンピースのポケットの中へと大切にしまい込んだ。


「しかし、わしの興味はまだ半分も満たされてはおらん。この筒が光学機器の部品であることは判明したが、なぜそれが『意図的にひしゃげさせられている』のか。そしてなぜ、それが朔家の埃まみれの物置の底に、まるで隠されるようにして眠っていたのか。そのルーツと、そこに関与した人間の『情動』を解き明かさぬ限り、この鑑定は終わらん」


 如月さんは、くるりと身を翻し、物置の出口へと向かって歩き出した。

 そして、すれ違いざまに、硬直して動けない父さんの横で、静かに、しかし有無を言わさぬ声でこう宣言した。


「当初の目的であった、休日のすき焼きのための買い出しのついでじゃ。サクタロウ、お主も来るのじゃ。これより、この月見坂市の旧市街の歴史の地層から、この金属のルーツと、それにまつわる人間の愚鈍な情動の痕跡を、徹底的に炙り出してやろう」


「……はい。了解しました、如月さん」


 僕は、もはや抵抗する気力すら湧かず、ただ深く頷くことしかできなかった。

 クーラーボックスのことは完全に忘れ去られ、夕食のすき焼きパーティーというささやかな休日の予定は、見事に空中分解した。


 しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。

 むしろ、僕の胸の奥底では、如月瑠璃という規格外の天才が、この先どんな風にこの旧市街の住人たちを巻き込み、論理の刃で切り刻んでいくのかという、不謹慎なワクワク感すら芽生え始めていたのだ。


 僕の脳が作り出した『もしもの世界』の夢。

 その中でさえ、彼女の探求心が誰にも止められないという事実を、僕は改めて痛感していた。


「さあ、行くぞサクタロウ。まずはこの旧市街で最も古くから金属加工を行っているであろう、町工場の痕跡を探すのじゃ。モタモタしていると置いていくぞ」


 裏庭のぬかるみを、純白の手袋をした美少女がスタスタと歩き去っていく。

 その後ろ姿を追いかけながら、僕は助手としての宿命を背負い、このカオスなルーツ探求の旅へと足を踏み出すのだった。

 埃まみれの物置に残された父さんの背中が、どこかひどく小さく見えたことだけが、僕の心の片隅に小さな引っかかりとして残っていた。



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