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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~Section 3:埃まみれの物置と、真鍮の筒~

「光太郎! 商店街の肉屋に行く前に、裏庭の物置からクーラーボックスを出してきてくれ! 一番デカいやつだ!」


 父さんのそんな理不尽で一方的な指示により、僕はパジャマから着古したジーンズとパーカーに着替えるや否や、朔家の裏手へと続く薄暗い廊下を歩かされる羽目になった。

 木造建築特有の、歩くたびにミシミシと沈み込むような床板の感触。裸足の裏から伝わってくる冷たさは、この世界が僕の夢の中であることを忘れさせるほどに生々しい。


 裏庭へと通じる勝手口の引き戸は、木枠が湿気で膨張しているのか、いくら力を込めてもなかなか開こうとしなかった。両手で取っ手を掴み、全体重をかけてガタガタと揺さぶるとようやく、ギィィィッという金切り声のような摩擦音を立ててスライドした。


 勝手口の外に広がっていたのは、四方を苔むした灰色のブロック塀に囲まれた、猫の額ほどの狭い裏庭だった。

 地面は雑草がまばらに生えた剥き出しの土で、昨夜降ったらしい雨のせいで少しぬかるんでいる。隅の方にはプラスチック製の青いゴミバケツがポツンと置かれ、物干し竿にはサビの浮いたハンガーが風に揺れて頼りない音を立てていた。見上げれば、隣の長屋のトタン屋根がすぐそこまで迫っており、空は四角く切り取られている。セピア色がかった朝陽は、この裏庭までは十分に届かず、常に日陰特有のじめじめとした空気と、土やカビの匂いが滞留していた。


「……なんだか、本当に昭和のセットに迷い込んだみたいだな」


 僕はパーカーのポケットに両手を突っ込みながら、小さく息を吐いた。白い息が出るほどではないが、朝の空気はひんやりとしている。

 父さんの言う『物置』は、この裏庭の一番奥、ブロック塀にへばりつくようにして建っている、トタン張りの小屋のことだ。


「サクタロウ。先ほどから歩行速度が著しく低下しておるが、お主の筋肉はすでに乳酸が蓄積し疲労状態にあるのか? 肉の流通ルートの調査に向かうには、早急なクーラーボックスの確保が必須であると論理的に理解しておらんのか」


 背後から、澄んだ、しかし温度の低い声が鼓膜を打った。

 振り返ると、勝手口の(かまち)に立ち、こちらを静かに見下ろす如月さんの姿があった。


 先ほどまで身につけていた質素なリネンのエプロンは外され、洗いざらしの簡素な木綿のワンピース一枚という出で立ちだ。しかし、その飾らない服装が逆に、彼女の透き通るような白い肌や、サラサラの黒髪、そして深いアメジストの瞳の美しさを際立たせている。このじめじめとした埃っぽい裏庭の背景から、彼女一人だけが圧倒的な高解像度で切り取られ、浮き上がっているように見えた。


「いや、如月さん。別に疲れてるわけじゃなくて、ちょっとこの裏庭の雰囲気に圧倒されてたというか……。それにしても、なんで如月さんまでついてくるんですか? クーラーボックスを出すくらい、僕一人でやりますよ」


「愚問じゃ。お主のような空間認識能力の低い人間に単独での探索を任せれば、物置の奥底から目的の物品を発見し抽出するまでに多大なタイムロスが生じることは明白じゃ。わしが同行し、物理的配置から最短の導線を指示した方が、全体のプロジェクト進行において遥かに効率的である」


 如月さんはそう言うと、勝手口に置かれていた、サイズの合わないゴム草履を器用に履き、土の地面へと降り立った。彼女が歩くたびに、地面のぬかるみがわずかに形を変える。僕は彼女の足元が汚れないかハラハラしたが、彼女はそんな些細な汚れなど全く気にする素振りも見せず、真っ直ぐに物置へと向かっていく。


 相変わらずの徹底した合理主義だ。夢の中の『庶民の幼馴染』という設定など、彼女の強固なパーソナリティの前では単なる背景の書き換えでしかない。僕は諦めて彼女の背中を追い、物置の前に立った。


 トタン張りの物置の扉は、見るからに開かずの扉といった風情を漂わせていた。

 表面の塗装はあちこち剥がれ落ちて赤茶けた錆が侵食しており、取っ手の部分には長年の埃と手垢がこびりついている。南京錠はかかっていないものの、扉のレールそのものが歪んでいるのか、これもまた簡単には開きそうにない。


「よし、開けますよ」


 僕は取っ手に両手をかけ、足を踏ん張って一気に横へとスライドさせた。


 ガガガガッ!という、金属同士が削り合うような不快な音が裏庭に響き渡る。想像以上の抵抗を感じながらも、無理やり扉を半分ほど押し開けた。


 その瞬間、むせ返るようなカビと埃の匂いが、物置の中から一斉に吐き出されてきた。


「ゲホッ、ゴホッ! うわっ、埃すごいな……」


 僕は思わず顔を背け、パーカーの袖で口元を覆った。

 物置の中は薄暗く、外から差し込む朝陽の光の筋によって、空中に舞い散る無数の埃の粒子が、まるで金色の雪のようにキラキラと輝きながら漂っているのがはっきりと見えた。いわゆるチンダル現象というやつだ。


「換気効率が極めて劣悪な閉鎖空間じゃ。空気中の真菌やダニの死骸、ハウスダストの濃度が人体に悪影響を及ぼす許容量を優に超えている。サクタロウ、気道を確保し、浅い呼吸を心がけるのじゃ」


 如月さんは自身の顔を手で覆うような無防備な真似はせず、どこからともなく取り出した純白のハンカチを口元に当て、冷徹な目で物置の内部をスキャンし始めた。


 物置の中は、まさに『朔家の歴史』という名のガラクタの地層が形成されていた。

 手前には、使われなくなって久しい、カバーの破れた扇風機や、灯油の匂いが染み付いた反射式ストーブ。その奥には、父さんが昔趣味にしようとして三日で挫折したゴルフクラブのセットや、ひび割れた小型のクーラーボックス、ホコリを被った段ボール箱がジェンガのように不安定に積み上げられている。さらに壁際を見ると、サビだらけのスコップや、いつの時代のだかわからない木製のスキー板までもが立てかけられていた。


「これ、本当にこの中に一番デカいクーラーボックスなんてあるのか? 全部外に出さないと奥まで行けないぞ……」


 僕は目の前に立ちはだかるガラクタの山を見上げ、深い絶望感に苛まれた。

 ここにあるものの九割九分は、もはや本来の用途を成さない無価値なゴミだ。普通の人なら、一瞥しただけで『ただのゴミ捨て場』と認識し、速やかに扉を閉めて見なかったことにするだろう。


 しかし、僕の横に立つ如月瑠璃という少女の瞳には、この空間が全く違ったものとして映っているようだった。


「……ふむ。サクタロウよ、お主にはこれがただのゴミの山に見えるか?」


「え? いや、どう見てもゴミの山でしょう。いつか捨てようと思って、とりあえず押し込んでおいた結果がこれですよ」


「愚鈍。モノには必ずそこにある理由がある。そして、これほど無秩序に積み上げられた物品の中にも、人間の行動心理と物理的な時間の経過が刻み込まれた『法則性』が存在するのじゃ」


 如月さんはハンカチ越しにそう呟くと、紫色の瞳を細め、ガラクタの山を観察し始めた。


「例えば、あそこにある扇風機とストーブ。これらは季節家電であるにもかかわらず、全く同じ地層——つまり手前の最もアクセスしやすい位置に混在しておる。これは、所有者であるお主の父親が季節の変わり目に収納を行う際、奥へ仕舞い込む労力を惜しみ、手前の空きスペースにただ押し込んだという『怠惰の情動』の明確な証拠じゃ。さらに、段ボール箱の潰れ具合と表面の埃の堆積量から推計すれば、この最下層の荷物は少なくとも過去十年以上、一度も動かされていないことがわかる」


「ゴミの山から父さんの怠惰っぷりを論理的に暴き出すのはやめてもらえませんか。心が痛いんで」


「事実を述べているまでじゃ。さて、お主の探している『最も大きなクーラーボックス』とやらじゃが……容積と重量の物理的制約から考えて、この不安定な段ボールのタワーの最上部に置かれているとは考えにくい。また、手前の地層には存在しない。となれば、必然的に奥の壁際、比較的下層の安定したスペースに配置されている確率が極めて高い。サクタロウ、右手のゴルフバッグとストーブを屋外へ退避させ、搬入経路を構築するのじゃ」


 彼女の指示は、相変わらず正確で無駄がない。

 僕は言われた通りに、重いゴルフバッグを引きずり出し、灯油の臭いがするストーブを裏庭の土の上に移動させた。少しだけ物置の奥へと続く獣道のような隙間ができた。


「よし、これで奥に行けるな……。えっと、一番デカいクーラーボックス……」


 僕は隙間に体をねじ込み、奥の薄暗い空間へと目を凝らした。

 床には正体不明のガラクタが散乱しており、足の踏み場もない。僕は段ボール箱を少しずつずらしながら、目的のものを探した。


「あった。これだ。……うわっ、重いし、埃だらけだ」


 壁際の下層に、見覚えのある巨大な青いクーラーボックスが鎮座していた。僕はその取っ手になんとか手をかけ、引きずり出そうとした。


「……?」


 その時だった。

 僕の後ろ、物置の入り口付近に立っていた如月さんの空気が、ふっと変わるのを感じた。


 それは、言葉による明確な変化ではない。

 彼女の呼吸のテンポ、あるいは、周囲の空間から彼女が発する微細な緊張感。僕が『助手』として彼女の側にいる中で培ってきた、一種の直感的なセンサーが反応したのだ。


 クーラーボックスから手を離し、振り返る。

 如月さんは、ハンカチを口元から下ろし、物置の床の片隅——僕が先ほど退避させたゴルフバッグの影になっていた、暗く湿った土間の隅を、じっと見つめていた。


 その深いアメジストの瞳は、先ほどまでの『効率的な配置を分析する』ような冷徹な視線とは全く異なっていた。

 瞳孔がわずかに開き、まばたきすら忘れたかのように、ただ一点に釘付けになっている。彼女の世界から、裏庭の風景も、クーラーボックスの存在も、そして僕という人間の存在すらも完全にフェードアウトし、対象物との一対一の絶対的な繋がりが構築された瞬間だった。


「……如月さん?」


 僕が恐る恐る声をかけても、彼女は全く反応しない。

 彼女の視線の先にあるのは、埃と泥にまみれた床の上に転がっている、一つの小さな物体だった。


 それは、ただのガラクタにしか見えなかった。

 長さは十五センチほど。直径は五、六センチ。形状としては、何かの筒のように見える。しかし、その筒は綺麗な円柱形ではなく、中央部分で無残にひしゃげ、歪な楕円形に変形していた。


「……サクタロウ」


 静寂を破り、如月さんの唇から低く、しかし熱を帯びた声が漏れた。


「はい」


「お主、そこを少し退くのじゃ。光が遮られて、表面の反射率が正確に測れん」


 彼女は僕をまるで邪魔な障害物のように扱い、ゆっくりとした足取りで物置の中へと足を踏み入れた。

 そして、そのひしゃげた筒の前にしゃがみ込むと、木綿のワンピースのポケットにそっと手を入れた。


 次の瞬間、僕は自分の目を疑い、そして同時に深い深い諦観の念に包まれた。


 如月さんがポケットから取り出したのは、純白の薄手の手袋だった。

 彼女はそれを、まるで神聖な儀式でも行うかのように、両手にゆっくりと、シワ一つなくはめ込んでいく。手袋の白さは、この埃まみれの薄暗い物置の中において、異常なほどの清潔感と異物感を放っていた。


「あの、如月さん。ここは夢の中の旧市街で、如月さんは庶民の木綿のワンピースを着てるんですよね? なんでそんなところから、いつも使ってるオーダーメイドの純白手袋が出てくるんですか?」


 僕の至極まっとうなツッコミに対し、彼女は一瞥もくれなかった。


 さらに彼女は、別のポケットから、今度は美しい銀細工の施されたアンティークのルーペを取り出した。持ち手の部分には精緻な蔦の模様が彫り込まれ、レンズを囲む銀の枠は薄暗い空間でも鈍く上品な光を反射している。


「あ、これいつものヤツだ。完全に鑑定モードに入ったな……」


 僕はクーラーボックスの上に腰を下ろし、深くため息をついた。

 どんな設定であろうと、どんな状況であろうと、彼女の興味を強烈に惹きつける『謎』が現れた瞬間、彼女は如月瑠璃としての絶対的なフォーマットを自動的に展開する。物理法則を無視してでも、純白の手袋と銀のルーペは彼女の元に顕現するのだ。


 如月さんは純白の手袋に包まれた両手で、そのひしゃげた筒を、まるで傷ついた小鳥でも扱うかのようにそっと拾い上げた。


「……実に、実に興味深い」


 ルーペを右目に当て、彼女の深い紫色の瞳が、その筒の表面を舐めるように這い回る。


「サクタロウ。お主はこれを、ただの鉄屑か何かだと思っているじゃろう。愚鈍な人間の目にはそう映るかもしれん。しかし、よく見るのじゃ」


 如月さんは筒を僕の方へと差し出した。

 僕も目を凝らしてそれを見る。


「材質は鉄ではない。その重量と、表面の酸化皮膜の色合い……鈍い黄銅色の輝き。これは真鍮(ブラス)じゃ。銅と亜鉛の合金であり、耐食性と加工性に優れているため、水道管の継ぎ手や、古くは精密機器の部品などに用いられることが多い」


 彼女の言う通り、埃を払ったその表面は、錆びた鉄のような赤茶色ではなく、くすんだ金管楽器のような独特の色合いをしていた。


「しかし、問題は材質ではない。この形状じゃ。真鍮は比較的柔らかい金属じゃが、これほど肉厚の筒が、局所的に、かつこれほど激しくひしゃげるためには、相当な物理的圧力が外部から加わる必要がある。さらに、表面のテクスチャを観察するのじゃ」


 如月さんはルーペを筒の表面に近づけた。


「不規則な擦り傷が、無数に刻まれておる。地面に落として引きずったような一方向の傷ではない。まるで、何か硬い工具で無理やり抉開(こじあ)けようとしたかのような、執拗で暴力的な傷跡じゃ」


 言われてみれば、ひしゃげた部分の周辺には、金属同士が激しくこすれ合ったような、ガリガリとした深い傷がいくつも残っていた。


「そして、最も不可解なのが内側じゃ」


 如月さんは筒の開口部を、物置の外から差し込む光の方へと向けた。

 僕も覗き込む。筒の内側は、真っ黒だった。しかし、それはただの汚れではない。


(すす)じゃ。内壁全体に、極めて微細な炭素の結晶がびっしりとこびりついておる。これは、この筒の内部で何らかの燃焼反応が起きたか、あるいは高熱のガスが継続的に通過していたことを示す物理的証拠じゃ」


 如月さんの声の温度が、少しずつ上がっていくのが分かった。

 それは彼女が、対象物に隠された『ルーツ』の尻尾を掴みかけている証拠だった。


「真鍮製の肉厚な筒。外部からの強い物理的圧力による変形。無数の不規則な擦り傷。そして内部に蓄積された高熱による煤。……これらすべての物理的条件を満たす事象は、決して自然界の偶然では発生し得ない」


 彼女は銀のルーペを下ろし、純白の手袋に包まれた真鍮の筒を、まるで宝物のように両手で包み込んだ。


「なぜ、このような不自然な歪みを持った真鍮が、朔家の埃まみれの物置の片隅に放置されているのじゃ? これは一体、いかなる用途で用いられ、そして、誰のいかなる情動によって、このような無残な姿へと変えられたのか……」


 完全に、火がついてしまった。

 先ほどまで彼女が滔々と語っていた、『旧市街の肉の流通ルート』だの『ドライエイジングによるアミノ酸の結合』だのといった探求テーマは、彼女の驚異的な頭脳の片隅から完全にデリートされてしまったのだ。


「あのー、如月さん。肉屋への買い出しは……?」


 僕が恐る恐る尋ねると、如月さんは冷ややかな一瞥を僕にくれた。


「愚鈍。肉の流通などという既存のシステムは、後からいくらでもデータとして収集可能じゃ。しかし、この真鍮の筒に刻まれた物理的な傷跡と、そこに隠された歴史のルーツは、今この瞬間、この現場において解明されなければ永遠に失われてしまう性質のものじゃ。優先順位という概念を理解しておらんのか」


 有無を言わさぬ、絶対的な宣告だった。

 僕たち——というか、父さんが提案した『休日のすき焼きパーティーのための買い出し』という平和なイベントは、この瞬間に完全に崩壊した。


 彼女の興味の対象は、完全にこの『用途不明のひしゃげた真鍮の筒』へとシフトしてしまったのだ。

 僕はクーラーボックスの上で頭を抱えながら、これから始まるであろう、彼女の容赦のない論理と行動力によるルーツ探求の嵐に巻き込まれる覚悟を、再び強要されるのだった。物置の埃っぽい空気の中で、彼女の深いアメジストの瞳だけが、獲物を見つけた捕食者のように妖しく、そして美しく輝いていた。



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