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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~section 2:親父の見栄と、休日の買い出し~

 薄暗い長屋の居間にポツンと置かれた、年季の入った丸いちゃぶ台。その前に正座させられた僕は、ただひたすらに圧倒的な違和感と、鼻腔を暴力的なまでに刺激する『完璧な朝食』の香りに挟まれ、身動き一つとれずにいた。


 目の前のちゃぶ台の上には、先ほど如月さんが理化学実験のごとき精密さで作り上げた目玉焼きと、透き通るような琥珀色の味噌汁、そして炊きたての白いご飯が湯気を立てている。使い込まれた安物の漆器や、縁が少し欠けた瀬戸物の皿に盛られているにもかかわらず、その料理が放つオーラは星付きレストランのフルコースすら凌駕しそうなほどの存在感を放っていた。


 ここは紛れもなく夢の中だ。僕の脳が勝手に作り出した『もしも如月さんが旧市街の長屋育ちの庶民だったら』という、都合が良すぎる上に致命的に厄介な妄想の世界。だからこそ、僕は彼女のことを、この狂った設定に合わせて『瑠璃ちゃん』などと気安く呼ぶつもりは毛頭なかった。彼女はどこまでいっても如月瑠璃であり、僕にとっては畏怖の対象である『如月さん』以外の何者でもないのだ。


 僕がちゃぶ台の木目に刻まれた無数の傷跡をぼんやりと見つめながら、これから始まるであろうカオスな一日に思いを馳せていると、廊下の奥からドスドスという無遠慮な足音が近づいてきた。


 油の切れた引き戸が、鼓膜をつんざくようなけたたましい摩擦音を立てて勢いよく開け放たれる。


「ふわぁあ……あー、よく寝た。光太郎、朝飯できてるかー? 父ちゃんはもう腹が減って……」


 そこに立っていたのは、僕の父、(さく)定光(さがみつ)だった。

 休日の朝の定常運転と言うべきか、無精髭を生やし、よれよれのスウェット姿で、だらしなく突き出た腹をボリボリと掻きむしりながら現れた父さん。その姿は、この昭和レトロな長屋の風景に見事に、そして悲しいほど完璧に溶け込んでいた。


 しかし、あくびの途中で大きく開けられていた父さんの口は、台所からお盆を持って居間に現れた如月さんの姿を視界に捉えた瞬間、カメレオンが獲物を捕食した後のようにパチンと音を立てて塞がった。


「おや、サクタロウの父よ。休日の朝とはいえ、太陽が高く昇るまで惰眠をむさぼるとは。体内時計を司るメラトニンの分泌サイクルが完全に狂っておる証拠じゃな。自律神経の乱れは万病の元であると認識するのじゃ」


 如月さんは、手にしたお盆をちゃぶ台の上に静かに置きながら、容赦のない冷ややかな声で言い放った。その視線は、父さんのだらしないスウェット姿から無精髭、そして掻きむしっていた腹部へと滑り、まるで顕微鏡で微生物を観察するかのような物理的観察眼で細部までをスキャンしているのが僕にははっきりと分かった。


 普通の人間なら、この見下すような物言いと圧倒的な美少女のオーラを前にすれば、たじろぐか、あるいは怒り出すかのどちらかだろう。しかし、ここでの設定は『息子の可愛すぎる幼馴染』である。父さんの反応は、僕の予想を斜め下にぶっちぎるほどに滑稽なものだった。


「おっ、おお! る、瑠璃ちゃんじゃないか! いやあ、今日はうちに遊びに来てくれてたんだね! 叔父さん、昨日は少し仕事で夜遅くまで起きていてね。いやはや、お恥ずかしいところを見せてしまったな、ハハハ!」


 父さんは、ほんの数秒前まで腹を掻いていたスウェットの裾を慌てて引き伸ばし、無精髭を隠すように顎をさすりながら、声のトーンを二オクターブほど下げてダンディな低音を作り出した。さらに、猫背だった姿勢を無理やり正し、胸を張って『イケてる大人の男』あるいは『威厳ある父親』を全力で演じ始めたのだ。


 僕はそのあまりの変貌ぶりに、危うく吹き出しそうになるのを必死でこらえた。

 仕事で夜遅くまで起きていたなどと大見栄を切っているが、昨日の夜、リビングのソファでいびきをかきながらテレビの深夜番組をつけっぱなしにして寝落ちしていたのを僕は知っている。夢の中の設定だとしても、父さんのこの底の浅い見栄っ張りな性格は現実世界と何一つ変わっていなかった。


「サクタロウの父よ、虚偽の申告は無意味じゃ。お主の眼球の充血具合、そして皮膚の皮脂の分泌量から推測するに、深夜までアルコールを摂取した状態で不適切な姿勢のまま睡眠に陥っていたことは明白じゃ。副交感神経の働きを阻害する行為は、自身の寿命を前借りしているに等しいと知るのじゃな」


「うぐっ……! い、いやあ、瑠璃ちゃんは相変わらず観察眼が鋭いというか、賢いというか……ハハ……」


 如月さんの冷徹なまでの事実の羅列による論破を食らい、父さんは顔を引きつらせながら誤魔化し笑いを浮かべるしかなかった。見栄を張ろうとした瞬間に、その足場ごと物理的かつ論理的に粉砕される。僕が日常的に味わっている絶望感を、父さんも身をもって体験している図は、少しだけ胸がすく思いがした。


「さあ、無駄な問答に時間を割くのは非効率の極みじゃ。料理というものは、完成した瞬間から温度低下と酸化による劣化のプロセスが開始される。速やかに着席し、栄養素を体内に取り込むのじゃ」


 如月さんに促され、父さんは逃げるようにしてちゃぶ台の前に正座した。僕たち三人が小さなちゃぶ台を囲むという、現実世界では天地がひっくり返ってもあり得ない、しかしこの夢の中では奇妙なほど自然な構図が完成した。


「それじゃあ、いただくとするか。瑠璃ちゃんの手料理なんて、本当に久しぶりで嬉しいよ」


 父さんは殊勝な態度で両手を合わせると、まずは如月さんが理化学的な温度管理の末に生み出した味噌汁の椀を手に取った。

 ズズッ、と一口すする。


 その瞬間、父さんの動きが完全に停止した。

 目を見開き、椀を持った手は微かに震え、視線は虚空を彷徨っている。


「……なんだ、これは。カツオの香りが、まるで目の前で削りたての節が踊っているかのように鮮烈だ。それに、この奥深い昆布の旨味……味噌の塩気も角がなく、まろやかで……信じられない。ただの豆腐とワカメの味噌汁が、料亭の高級椀よりもはるかに美味いぞ……!」


 父さんは大げさでもなんでもなく、本気で感動に打ち震えていた。

 無理もない。僕も一口飲んでみたが、それは僕が今まで生きてきた中で経験したことのない、全く別次元の『旨味の暴力』だった。細胞の隅々にまで浸透していくような完璧な味のバランス。それはもはや料理という芸術ではなく、数式によって導き出された絶対的な正解そのものだった。


 続いて、父さんは完璧な半熟状態を保った目玉焼きに箸を入れた。白身は縁がカリッと香ばしく焼き上げられているのに、内側は絹のようになめらかだ。そして、鮮やかなオレンジ色の黄身が、一切の抵抗なくとろりと溢れ出し、白いご飯の上へと流れ落ちていく。


「美味い……! 美味すぎる! 卵の火の通り具合が絶妙だ! 瑠璃ちゃん、君は天才か!? いや、天才だ! うちの光太郎にはもったいないくらいのお嫁さん候補だよ!」


 父さんは涙目になりながら目玉焼きご飯をかき込み、如月さんを手放しで絶賛した。息子の僕としては『お嫁さん候補』という単語が出た瞬間に心臓が縮み上がる思いだったが、如月さんはそんな父さんの言葉や感情の昂りには一切の興味を示さなかった。


「過剰な賛辞は不要じゃ。これは奇跡でも魔法でもなく、単なる物理法則と化学反応の必然的結果に過ぎん。鰹節のイノシン酸と昆布のグルタミン酸の相乗効果。卵白のオボアルブミンと卵黄の熱凝固温度の差異を利用した加熱制御。アミノ酸と糖が結合して褐色物質を生み出すメイラード反応。それらの変数を最適化しただけで、これだけの味が構築される。味覚とは、極めて論理的な感覚器官なのじゃ」


 如月さんは自分の料理を一切褒めることなく、そのメカニズムを淡々と解説した。しかし、彼女の言葉はまだ終わっていなかった。彼女の深いアメジストの瞳が、凄い勢いでご飯をかき込んでいる父さんの口元を鋭く見据える。


「それよりも問題なのは、お主の『咀嚼』じゃ」


「……えっ?」


 ご飯を頬張ったまま、父さんが間の抜けた声を出した。


「先ほどから観察しておったが、お主は一口につき平均して七回から八回しか咀嚼を行っておらん。これは消化器官に対する重大な反逆行為である。口腔内での咀嚼によって食物を細かく粉砕し、表面積を拡大させなければ、唾液に含まれる消化酵素であるアミラーゼが十分に作用せん。結果として、胃袋に過大な消化負担を強いることになるのじゃ」


「は、はい……」


「胃液の分泌を促し、栄養素の吸収効率を最大化するためには、一口につき最低でも三十回の咀嚼が物理的に必須じゃ。さあ、今口に入れたものを飲み込む前に、あと十五回、規則正しく噛むのじゃ。わしがカウントしてやる」


 信じられない光景だった。

 あの、家庭内では無駄に威張っている父さんが、女子高生である如月さんの冷徹な指導のもと、ロボットのように『カチッ、カチッ』と一定のリズムで顎を動かしているのだ。


「一、二、三……顎の筋肉の動かし方が不均等じゃ。左右の臼歯を均等に使用し、食物の粉砕を意識するのじゃ。八、九、十……」


 如月さんのカウントダウンに合わせて、父さんは涙目で咀嚼を続けた。美味しいはずの究極の朝食が、突如として過酷な消化器官のトレーニングへと変貌してしまったのだ。僕は自分の口に入れたご飯を、誰に言われるでもなく無言で三十回以上噛み砕きながら、この異様な光景をただ見守るしかなかった。


 ようやく食事という名の修行を終え、渋いお茶をすすりながら一息ついた父さんは、どうにかして失われた父親としての威厳、あるいは大人の男としての面目を取り戻そうと思考を巡らせているようだった。


 先ほどの無精髭やだらしない咀嚼を指摘されたままでは、息子の幼馴染である如月さんに対して格好がつかない。見栄っ張りな父さんの心理状態は、手に取るように分かった。そして、そんな時に父さんが繰り出す手は、決まって一つしかなかった。


「いやあ、それにしても瑠璃ちゃんの手料理は本当に最高だったよ! 叔父さん、感動しちゃったな!」


 父さんはわざとらしくパンと手を叩き、満面の笑みを浮かべて言った。


「そうだ! 今日はせっかくの休日だし、瑠璃ちゃんも来てくれていることだしな。どうだい、今夜は奮発して、旧市街の商店街で『特上の肉』を買ってこようじゃないか! 最高のすき焼きパーティーだ! 安心しなさい、一番高い霜降りの和牛を叔父さんがポンと買ってやるからな!」


 出た。後先を考えない、親父の無謀な見栄張り宣言だ。

 僕は思わず持っていた湯呑みを落としそうになった。


「ちょっと待ってよ父さん! 特上の和牛って、うちの家計のどこにそんな余裕があるんだよ! 次の給料日まであと十日もあるのに、財布の中身はカツカツじゃないか!」


 僕は現実の家計状況と、この夢の中の設定である『貧乏長屋の庶民』という条件を重ね合わせ、全力でツッコミを入れた。実際に、現実の朔家でもすき焼きに特上の和牛など出たことはない。大抵は豚肉か、特売の外国産牛の切り落としが関の山だ。


「ばっ、馬鹿野郎! 光太郎、お前は黙ってろ! 瑠璃ちゃんの前で家計の生々しい話をするんじゃない! 叔父さんだってな、いざという時のためのヘソクリくらい……」


 父さんが顔を真っ赤にして僕を怒鳴りつけた、その時だった。

 ちゃぶ台の向かい側に座る如月さんが、純白の手袋をはめた手で、そっと制止のポーズを取った。


「見え透いた虚勢は、自らの首を絞めるだけの愚行じゃ」


 その声は、凍りつくように冷たく、しかし圧倒的な説得力を持っていた。如月さんは手元にあった小さな手帳——彼女が常に持ち歩いている、古い革張りの手帳——を開き、そこに書き込まれた何らかのデータに視線を落とした。なぜこの夢の世界で、如月さんが朔家の家計のデータを持っているのかは謎だが、彼女の論理に隙はない。


「統計および現在の朔家の生活水準から算出される、お主たちのエンゲル係数について言及しよう。家賃、光熱費、そしてお主が週末に購入している安価な発泡酒や、サクタロウが注ぎ込んでいる謎のアイドルグッズへの出費。これら娯楽費や固定費を総所得から差し引いた残額から計算すると、現在の朔家のエンゲル係数は約三十四・二パーセント。これは一般家庭における水準を大きく上回り、家計が極めて硬直化していることを示す物理的な数値じゃ」


「エ、エンゲル……係数……?」


「その通りじゃ。加えて、お主の瞳孔のわずかな収縮、そして発言の直前に右上へと視線が泳いだという生理的反応。これは『ヘソクリ』という存在が虚偽であるか、あるいは特上の和牛を購入するには到底満たない額しか存在しないことを、お主の脳が自覚している証拠に他ならん。霜降りのA5ランク和牛を必要量購入した場合、朔家の家計は三日以内に完全に破綻し、サクタロウはもやしと塩だけで残りの日数を生き延びねばならなくなる。論理的に考えて、すき焼きの提案は即座に却下されるべき事案じゃ」


 完璧なまでの論破だった。

 家計簿の数値という客観的なデータと、父さんの微細な生理反応という物理的証拠。この二方向からの容赦のない挟み撃ちにより、父さんの見栄という名の薄っぺらい城塞は、木っ端微塵に粉砕された。父さんは完全に言葉を失い、ちゃぶ台に手をついて項垂れるしかなかった。


「……ううっ……叔父さん、ただ瑠璃ちゃんに美味しいものを食べさせてあげたかっただけで……」


 完全に意気消沈してしまった父さんを見て、僕は少しだけ可哀想になってきた。しかし、如月さんは他者の感情、特にこうした個人的な感傷や見栄に対しては一切の共感を示さない。彼女にとって、情動とはあくまで『モノのルーツを探るためのヒント』であり、寄り添うべき対象ではないのだ。


「しかし——」


 如月さんは手帳をパタンと閉じ、ふと視線を窓の外、旧市街の商店街がある方向へと向けた。その深い紫色の瞳の奥に、ほんのわずかな、しかし確かな好奇心の光が灯るのを僕は見逃さなかった。


「旧市街の肉の流通ルートと、その精肉技術については、少なからず興味があるのも事実じゃ」


「えっ?」


 父さんが顔を上げた。僕も意外な言葉に目を丸くした。


「この月見坂市の旧市街における商店街。そこには大規模なスーパーマーケットの流通網とは異なる、独自の仕入れルートとコールドチェーンが存在しているはずじゃ。屠畜場からの枝肉の運搬、そして各店舗の温度管理システム。何より、長年その街で肉を切り続けてきた老練な職人の包丁さばきと、独自のドライエイジングの手法。それらが肉の細胞組織とアミノ酸の結合にどのような物理的変化をもたらすのか。そのルーツと過程を直接観察することには、大いに意義があると言える」


 如月さんの口から飛び出すのは、すき焼きの美味しさへの期待でも、家族団らんへの憧れでもなかった。ただ純粋に、肉がどのようにして店先に並ぶのかという『システム』と、職人の技術という『ルーツ』に対する飽くなき探求心だけだった。


 彼女はゆっくりと立ち上がり、リネンのエプロンを外して綺麗に折りたたんだ。


「特上の和牛などという分不相応なものは不要じゃ。安価な切り落とし肉であっても、その細胞のルーツと流通の過程を解き明かすことができれば、それは極上の知的好奇心を満たす御馳走となる。さあ、サクタロウ。準備をするのじゃ。この旧市街の商店街という名のフィールドワークに赴くぞ」


「……結局、買い出しには行くんですね、如月さん」


 僕は深い深いため息をつきながら、パジャマから着替えるために立ち上がった。

 父さんの見栄は見事に打ち砕かれたが、結果として僕たちは旧市街の商店街へと足を運ぶことになった。目的はすき焼きの食材調達から、如月瑠璃の『物理的観察とルーツ探求のためのフィールドワーク』へと完全にすり替わってしまったが。


 休日の朝の平穏はすでに完全に失われている。

 この夢の中の旧市街で、如月さんがどんな些細なモノに目をつけ、どんな暴走を見せるのか。助手として彼女に引きずり回される未来を確信しながら、僕は重い足取りで自室へと向かうのだった。



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