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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『庶民』 ~section 1:理化学的な朝食と、幼馴染の令嬢~

 鼻腔をくすぐる、芳醇で、それでいてどこか暴力的なまでに食欲を刺激する温かな香りが、僕の意識を深く暗い微睡みの底からゆっくりと、しかし確実に引き上げていった。


 それは、緻密に温度管理されたお湯の中で、極上の鰹節と利尻昆布が静かに、そして劇的に己の旨味成分を抽出されている匂いだった。日本人のDNAの奥底に直接語りかけてくるような、有無を言わさぬ朝の情景。それに加えて、どこか遠くから微かに、だが恐ろしいほど一定のリズムで聞こえてくる包丁の音と、小鍋の中で湯が小さく弾けるコトコトという小気味よい音が、僕の鼓膜を優しく、リズミカルにノックしている。


 僕はゆっくりと、鉛のように重いスウェットの感覚を引きずりながら、張り付いたまぶたを開けた。


 視界に飛び込んできたのは、いつもの見慣れた自室の白いクロスが貼られた無機質な天井——ではなかった。そこに広がっていたのは、長年の生活の煤と埃を吸い込んで飴色に変色した古い木目の天井板と、いつできたのかもわからない不規則な雨染みが描く、奇妙な幾何学模様だった。


「……ん? なんだ、これ」


 寝ぼけた頭のまま、掠れた声が口から漏れた。僕はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡す。

 自分が横たわっているのは、いつもの体圧分散に優れたスプリングの効いたマットレスではない。畳の上に直接敷かれた、妙に重みのある、そして微かに湿気を帯びた古い綿の布団だった。使い込まれたい草の香りが、古い木材の匂いや、どこかから漂ってくる線香のような匂いと混ざり合って、部屋の中に重く立ち込めている。


 視線を壁に向ける。そこにあるべき僕の精神的支柱、心のオアシスである地下アイドル『GyoGyoっとラブ』——通称魚魚ラブのセンター、箱崎彩華ちゃんの眩しい笑顔のポスターは跡形もなく消え去っていた。

 それだけではない。学習机の上に丁寧に並べていた、去年の全国ツアーの限定アクリルスタンドも、全メンバーのサインが入ったマフラータオルも、未開封のまま保存用として取っておいたファーストアルバムの初回限定盤も、一切合切が神隠しにでも遭ったかのように消失している。僕の魂の構成要素とも言える愛すべきガジェットたち、最新型のタブレット端末も、ノイズキャンセリング機能付きのワイヤレスイヤホンも、どこにも見当たらない。


 代わりに壁に掛けられているのは、日めくりカレンダーと、振り子が規則正しく『カチ、コチ』と時を刻む古びた柱時計だけだ。部屋の隅には、ブラウン管の小さなテレビが鎮座し、その上にはレースの編み物がかけられている。


 窓ガラスの向こう側からは、スズメのさえずりとともに、自転車のブレーキが軋む音や、「豆腐ー、豆腐ー」という昔ながらの引き売りのラッパの音が聞こえてくる。差し込んでくる朝陽の色すらも、いつもの月見坂市のスマートシティが放つ無機質でクリアな光ではなく、まるで古い映画のフィルムを通したかのような、セピア色がかった温かくも埃っぽい光だった。


 ここは僕の家、朔家であることには違いない。部屋の広さや、窓の位置、廊下に続く扉の立て付けの悪さといった空間的な感覚は、確かに僕の家そのものだ。しかし、時代錯誤というか、環境のレイヤーそのものが根本からすり替わっているような強烈な違和感がある。まるで、昭和の時代にタイムスリップして、旧市街の古い長屋の一室に放り込まれたかのようだった。


「どうなってるんだ、本当に……」


 僕は寝癖のついた頭を乱暴にかきむしりながら、重い綿布団から這い出した。

 足の裏に直接触れる畳の感触は冷たく、そしてどこか懐かしい。ふと自分の姿を見下ろすと、いつも着ている着心地の良いスウェットではなく、よれよれの、少し黄ばんだ綿のパジャマを着ていることにも気づいた。


 状況が全く理解できない。

 先ほどまで、僕は自分の部屋で休日の午後を満喫していたはずだ。ポテトチップスをつまみ、コーラを流し込みながら、タブレットで魚魚ラブのライブ映像を見ていた。そして、『もしも如月さんが旧市街の長屋育ちの庶民だったら』という、くだらない妄想を膨らませていたところまでは覚えている。


「……まさか」


 嫌な予感が背筋を駆け上がった。

 僕はごくりと唾を飲み込み、パジャマの裾を掴んだまま、匂いの発生源である台所へと向かうことにした。


 古い木造建築特有の、歩くたびにミシミシ、ギシギシと悲鳴を上げる廊下を抜ける。足元から伝わる冷気が、僕の意識を少しずつ鮮明にしていった。突き当たりのすりガラスがはまった引き戸の向こうから、先ほどの強烈な出汁の香りが漂ってくる。


 僕は震える手を伸ばし、引き戸の取っ手に手をかけた。ガラガラと、油の切れた戸車がけたたましい音を立てる。

 少しだけ開いた隙間から、そっと中を覗き込んだ。


 そこで僕が目撃した光景は、このセピア色がかったレトロな空間において、最も場違いであり、同時に最も目を引く、ある一人の少女の姿だった。


「如月……さん?」


 思わず、呆然とした声が漏れた。


 薄暗い長屋の台所に立っていたのは、僕の同級生であり、如月コンツェルンの社長令嬢である、如月瑠璃だった。


 艶のあるサラサラの黒髪のロングストレートヘアを、普段は絶対にしないような緩い一つ結びにまとめ、華奢な肩には質素な生成りのリネンエプロンを身につけている。その下に着ているのは、装飾の一切ない、洗いざらしの簡素な木綿のワンピースだ。

 ゴシックドレスや、隙のない高級な制服を見慣れた僕にとって、その格好はあまりにも庶民的で、素朴すぎるものだった。


 しかし、不思議なことに、彼女が身に纏うと、ただの木綿のワンピースとリネンのエプロンが、まるで計算し尽くされたオートクチュールのように完璧な調和を見せていた。彼女の持つ本来の気品、背筋のピンと伸びた美しい姿勢、そして透き通るような白い肌が、安っぽい布地の質感を完全に凌駕しているのだ。薄暗い台所に射し込む朝の斜光が彼女の横顔を照らし出し、その深いアメジストの瞳が、手元の作業に静かに注がれている。


 黙って立っているだけで一枚の絵画のように美しい。だが、僕の目を釘付けにしたのは、彼女のその可憐な外見ではなく、彼女が古びた台所で行っている『異常な調理風景』の方だった。


 彼女は朝食を作っていた。ここまではいい。問題は、その手順と、彼女の手つきだ。


 彼女の右手には、菜箸や木べらといった一般的な調理器具は握られていない。彼女が持っていたのは、医療用か、あるいは時計の精密部品の組み立てに使うような、銀色に光る細長いピンセットだった。


 ガスコンロ——それも、ひねって火をつける古いタイプのガステーブルの上では、雪平鍋の中で出汁が静かに湯気を立てている。如月さんはその小鍋の横に、見慣れない棒状の温度計──目盛りの細かい水銀温度計のようだった──を差し込み、じっとガラス管の赤い線を親の仇のように睨みつけていた。


「よし。水温摂氏八十五度。鰹節に含まれるイノシン酸と、昆布のグルタミン酸が最も効率よく抽出され、かつ相乗効果を生み出す最適な温度帯じゃ。これ以上の加熱は雑味の抽出と香りの揮発を招き、これ以下の温度では旨味成分の遊離が不十分となる」


 彼女は誰に言うでもなく、極めて論理的かつ冷徹な声で独り言を呟くと、ピンセットを使って、鍋の中から鰹節の欠片を一片の狂いもなく、一枚一枚丁寧に引き上げ始めた。その無駄のない動きは、家庭料理というよりも、もはや理化学実験か、あるいは爆発物の解体作業のようだった。


「次じゃ。大豆のタンパク質が発酵によってアミノ酸に分解された、この味噌という調味料。これを投入するにあたり、最も忌避すべきは沸騰による風味の飛散じゃ。味噌に含まれる酵素は摂氏六十五度を超えると失活し始める。したがって、火を止め、鍋内の温度が摂氏七十度付近に低下した瞬間を狙って溶き入れるのが最も理にかなった物理的アプローチと言える」


 彼女は手際よく火を止め、また別の小さなビーカーのような容器に入った味噌を、正確なグラム数で計量しながら鍋へと溶かし込んでいく。


 さらに隣のコンロでは、使い込まれた鉄のフライパンの上で目玉焼きが作られようとしている。

 しかし、彼女は卵を直接フライパンに割り入れるような、大雑把な真似は決してしない。小さなシャーレのようなガラス容器に一度卵を割り入れ、黄身と白身の比率、そして鮮度を目視で厳密に確認している。


「白身の主成分であるオボアルブミンは摂氏約八十度で完全凝固し始めるが、黄身は摂氏六十五度から七十度で半熟状態を形成する。この熱伝導のタイムラグを完全に制御しなくては、理想的な食感は得られん。特にこの粗悪な鉄フライパンは熱伝導率にムラがある。注水による水蒸気加熱を利用し、表面温度を均一化させる必要があるのじゃ」


 彼女はそう言うと、手元の銀の匙を使って数滴の水滴を正確にフライパンに落とし、蒸発の速度を視覚と聴覚で確認してから、ようやくシャーレから卵を滑り込ませた。ジュッ、という心地よい音が鳴るや否や、彼女はエプロンのポケットから、見慣れた古い懐中時計を取り出し、カチリと秒針を鳴らしてその動きを厳しい目で見つめ始めた。


「如月さん……一体、何をしてるんですか」


 僕が戸惑いのあまり立ち尽くしていると、彼女は手元の懐中時計から目を離さず、ゆっくりとこちらを振り返った。深い紫色の瞳が、僕の顔を冷ややかに射抜く。


「遅いぞ、サクタロウ。人間の基礎代謝が最も低下する起床直後のこの時間帯、速やかに脳への糖分供給と内臓の加温を行わねば、一日の活動パフォーマンスに甚大な悪影響を及ぼす。お主はそんな基本的な生体サイクルすら理解しておらんのか。本当に愚鈍じゃの」


 いつもの、上から目線で容赦のない、古風な言葉遣い。

 僕はホッとすべきなのか、それとも絶望すべきなのか分からず、ただ口をパクパクとさせた。


「いや、どうして如月さんがうちの台所にいるんですか? しかも、その格好……というか、そもそもここはどこなんですか!? 僕の部屋の魚魚ラブのグッズはどこにいったんですか!?」


 僕がパニック気味にまくしたてると、如月さんは微かに眉をひそめ、心底呆れたような深いため息をついた。


「妙なことを言うな。寝ぼけて脳のシナプス接続がおかしくなったか。ここは月見坂市の旧市街、お主の実家である朔家じゃろう。そして、わしがお主の家の台所にいるのは、隣に住む幼馴染として、長年この怠惰な朔家の食生活を管理してやっているからに他ならん。魚魚ラブなどという正体不明の単語は知らんが、お主の脳内ホルモンが作り出した妄想の産物じゃろう」


「……はい?」


 幼馴染。

 隣に住む、幼馴染。

 この、如月コンツェルンの社長令嬢にして、世界中のどんな権威にも屈しない孤高の天才、如月瑠璃が?


「わしたちは物心ついた頃から、この旧市街の路地裏で育った仲じゃろう。お主が公園の砂場で泥まみれになって泣いて帰ってくるたびに、わしが衣服の繊維に付着した泥の成分を分析し、それがどの公園の土壌であるかを特定してやったのを忘れたとは言わさんぞ」


「そんな嫌すぎる幼馴染のエピソード、まったく記憶にないですけど!?」


「ほう、記憶障害か。ならば思い出させてやろう。七歳の夏、お主が町内会の祭りで綿飴の機械を欲しがって泣き喚いた時、わしはあの機械の遠心力と砂糖の融点の関係性を物理方程式で黒板に書き出し、あのような非効率な機械を家庭に導入することがいかに無意味であるかを論理的に説明して諦めさせてやったはずじゃ」


「子供の夢を物理方程式で粉砕する幼馴染なんて絶対に嫌だ!!」


 僕は思わず頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。

 どうやら、ここは夢の中らしい。それも、僕の脳内で先ほどまで展開されていた『もしも如月瑠璃が旧市街育ちの庶民だったら』という空想が、そのまま異常なリアリティを持って具現化してしまった世界だ。僕の脳が、彼女の存在を正当化するために、都合のいい──しかし恐ろしく厄介な──偽の記憶まで瞬時に捏造して頭の中に流し込んでくる。


 だが、設定が『庶民の幼馴染』に変更されているにもかかわらず、目の前にいる少女の本質は、現実の如月瑠璃から一ミリもブレていなかった。


 彼女は相変わらず僕を『サクタロウ』と呼び、見下し、理屈をこね回し、目玉焼き一つ焼くのにもタンパク質の熱凝固温度を持ち出して理化学実験をしている。庶民設定になっても、貧乏長屋に住んでいても、彼女の根底にある『論理』と『モノのルーツへの執着』、そして他人の感情に流されない冷徹さは全く変わっていないのだ。


「さあ、無駄口を叩いていないで席に着くのじゃ。味噌の塩分濃度と大豆タンパクのアミノ酸結合が、現在まさに最適な状態に達しようとしている。この『美味』という名の化学変化のピークを逃すことは、食材のルーツに対する最大の冒涜に他ならん」


 如月さんはそう言い放ち、ピンセットで丁寧に焼き上げられた、まるで食品サンプルのように完璧な形状の目玉焼きと、琥珀色に透き通った味噌汁を、古びた木製のお盆に乗せて居間のちゃぶ台へと運んでいった。


 僕はその洗練された無駄のない動きと、周囲の埃っぽい長屋の風景との激しいコントラストにめまいを覚えながらも、逆らうことはできず、フラフラとちゃぶ台の前に座り込んだ。


 どうやら、この狂った『もしもの世界』での一日は、この理化学的な朝食を口にするところから始まるらしい。僕は目の前に置かれた、不気味なほどに完璧な目玉焼きを見つめながら、これから始まるであろうカオスな一日に向けて、静かに、そして深く覚悟を決めるしかなかった。夢の中であっても、彼女の助手を務めるという運命からは逃れられないのだと。



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