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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:『微睡』

 休日の午後。まどろみを誘うような柔らかい陽射しが、薄手のカーテン越しに僕の部屋をオレンジ色に染め上げていた。


 ベッドの上に仰向けに寝転がった僕は、深く、そしてゆっくりと息を吐き出した。開け放たれた窓からは、遠くの公園で遊ぶ子供たちの歓声や、月見坂市を走る路線バスの微かなエンジン音が入り込んでくる。平和だ。そして、限りなく退屈だ。だが、この平穏で退屈な時間こそが、今の僕にとっては何にも代えがたい至福のオアシスだった。


 僕の周囲、自室という名の絶対的な聖域には、愛してやまない地下アイドル『GyoGyoっとラブ』——通称『魚魚ラブ』のグッズが所狭しと並べられている。壁にはセンターを務める箱崎彩華ちゃんの弾けるような笑顔のポスターが貼られ、学習机の上の棚にはライブ会場の物販でしか手に入らない限定アクリルスタンドや、メンバー全員のサインが入ったTシャツが丁寧に飾られていた。


 手元のタブレット端末の画面では、先日のライブ映像のアーカイブが再生されている。ステージ上でスポットライトを浴びて歌い踊る箱崎彩華ちゃんの姿を眺めながら、僕は手探りで袋の中に手を突っ込み、ポテトチップスを一枚つまみ出した。パリッと小気味良い音を立てて咀嚼し、塩気と油分が口の中に広がったところで、すかさず冷えたコーラを流し込む。炭酸の刺激が喉の奥を弾け、脳髄にジャンクな幸福感が染み渡っていく。


 誰にも邪魔されない、僕だけの完璧な時間。

おばあちゃんの作る筑前煮も好きだが、休日の昼下がりにベッドの上で貪るポテチとコーラは、また別のベクトルで僕の心を完全に満たしてくれた。


 ここ最近の僕は、休日のたびにこうして自室に引きこもり、徹底的に怠惰を貪るようにしている。無理もない。平日の僕は、あまりにも異常で、非日常的で、僕の許容範囲をはるかに超えた出来事に巻き込まれ続けているからだ。


 その元凶は、たった一人の同級生にある。


 如月(きさらぎ)瑠璃(るり)


 如月コンツェルンの社長令嬢であり、圧倒的な美貌と、それ以上に圧倒的な頭脳を持つ規格外の天才。そして、僕を勝手に『助手』あるいは『下僕』として扱い、平穏な高校生活を根底から破壊した人物だ。


 彼女の姿を思い浮かべるだけで、手元のコーラの炭酸が少し抜けたような錯覚に陥る。艶のある黒髪のロングストレートヘアに、深く透き通るアメジストのような瞳。身長は百四十七センチと小柄で、黙って木陰で本でも読んでいれば、誰もが息を呑むような可憐な美少女だ。実際、学園でも彼女に言い寄る男子生徒は後を絶たない。


 だが、彼女の本質はそんな可憐な外見とはまるで対極にある。


『サクタロウ。お主は本当に愚鈍じゃの。その程度のことも分からんのか』


 脳内で、彼女の呆れたような、しかしどこか涼やかな声が再生された。僕を『サクタロウ』と呼び、年寄りのような古風な言葉遣いで話す彼女は、普通の女子高生が興味を持つようなもの——動画配信サイトや最新のコスメ、流行のファッション、あるいは恋愛やSNSといったものには一切の関心を示さない。地位や名誉、他人の評価すらも彼女にとっては道端の石ころと同義だ。


 彼女の瞳が捉えているのは、常に『モノのルーツ』ただ一つ。


 公園の砂場に落ちている卵焼き。雨ざらしになっている自転車。道端に落ちている片方だけの手袋。普通の人間なら一瞥して通り過ぎるような、日常の風景に溶け込んだ些細な違和感。彼女はそんなモノたちを見つけると、純白の手袋をはめ、銀のルーペを取り出し、古い懐中時計の秒針で自身の思考を調律する。そして、彼女だけが持つ『物理的観察眼』と『情動の視座』という二つの視点を用いて、そのモノがどこで作られ、どのように流通し、誰の手に渡って、なぜ今ここにあるのかを、凄まじい論理で解き明かしていく。


 僕はただのオタクで、内向的な一般人に過ぎない。それなのに、なぜか彼女に目をつけられ、旧校舎の図書室——図書委員でもないのに彼女が勝手にアンティーク家具や高級茶器を持ち込んで占拠している秘密の拠点——に呼び出されては、助手として不可解な鑑定に付き合わされているのだ。


(それにしても、僕も随分と図太くなったもんだな)


 タブレットの画面で歌い続ける箱崎彩華ちゃんから目をそらし、僕は自分の両手を見つめてぽつりと呟いた。


 僕は元々、女性に対する耐性が皆無だ。クラスの女子と業務連絡以上の会話をするだけでも緊張で挙動不審になるし、物理的な距離が近づけば心拍数が跳ね上がり、冷や汗が止まらなくなる。


 如月さんと出会った当初もそうだった。彼女が少しでも近づいてくればパニックになりかけ、美しい顔を至近距離で覗き込まれようものなら、そのまま気絶しそうになっていた。


 だが、人間の順応性というものは恐ろしい。


 毎日のように旧校舎の図書室で彼女と顔を合わせ、時には彼女の無茶な指示で街中を引きずり回され、常軌を逸した謎解きのプロセスを間近で見せつけられているうちに、僕は彼女の物理的な接近に対して、以前ほどの極度なパニックを起こさなくなっていたのだ。


 彼女が銀のルーペを覗き込むために身を乗り出し、そのサラサラの黒髪が僕の肩に触れても。彼女が万年筆を走らせる横顔を至近距離で眺めても。僕は変に動揺することなく、ただ『助手』として、彼女が何を考え、何を見つけ出そうとしているのかに意識を向けることができるようになっている。


 勘違いしてはいけない。これは決して、僕が彼女に恋愛感情を抱き始めたとか、そういう甘酸っぱいものではない。僕と如月さんの間にあるのは、あくまで『主』と『従者』、あるいは『天才』と『凡人』という絶対的な主従関係だ。


 僕が彼女に慣れ始めたのは、例えるなら『巨大な台風』や『活火山』に対する感覚に近い。彼女は恋愛対象という枠組みに収まるような存在ではなく、自らの興味の赴くままに周囲を巻き込み、圧倒的な論理で世界を丸裸にしていく『自然災害』のようなものなのだ。だからこそ、僕は彼女の容姿に惑わされることなく、純粋に彼女の『思考』そのものに強い関心を抱くようになっている。


(如月さんって、本当に変わってるよな……。もしも、あの人が別の環境にいたら、一体どうなってたんだろう)


 空になったコーラのペットボトルを床に置きながら、僕はふと、そんな益体もない空想を膨らませ始めた。


 環境が人を育てるという言葉がある。如月瑠璃がこれほどまでに浮世離れした、孤高の天才として完成しているのは、彼女が如月コンツェルンという巨大な財閥の令嬢として生まれ育ったからではないだろうか。


 もしも。

 もしも如月さんが、この月見坂市の旧市街、あの入り組んだ路地裏にある古びた長屋で育った、ごく普通の庶民の娘だったらどうだろう。


 銀の匙や高級なアンティーク家具ではなく、プラスチックのコップとちゃぶ台で生活していたら。そして、僕の幼馴染かなにかで、ある日突然、朔家に泊まりに来たりなんかしたら。


 想像しただけで、背筋が少しだけ寒くなった。

 いや、絶対にろくなことにならない。うちの父さん——定光(さだみつ)と如月さんが同じ食卓を囲む図など、カオス以外の何物でもない。父さんは『息子の可愛い女友達』の来訪に舞い上がり、見栄を張って特売の肉でご馳走を作ろうとするだろう。しかし、如月さんはそんな父さんの努力を微塵も汲み取ることなく、『サクタロウの父よ、この肉は解凍のプロセスを完全に誤っておる。旨味がすべてドリップとして流出しておるではないか』などと、情け容赦ない物理的観察眼でダメ出しをするに違いない。


 そこからさらに、彼女は父さんの過去の遺物や、朔家の物置に眠っている用途不明のガラクタを見つけ出し、勝手にルーツの解明を始めてしまうはずだ。庶民の生活空間に解き放たれた如月瑠璃。それはそれで、恐ろしく厄介な存在になりそうだ。


「じゃあ、逆にスケールを大きくしてみたら?」


 僕は再びポテトチップスに手を伸ばしながら、空想の翼をさらに広げた。


 もしも、あの絶対的な論理と、他者の感情に流されない冷徹なまでの判断力を持つ如月さんが、日本の総理大臣だったらどうなるだろう。


 国会議事堂の重厚な本会議場。壇上に立つのは、スーツではなくいつものゴシックドレスを身に纏った如月総理だ。

 野党のベテラン議員が、鬼の首を取ったように経済政策の矛盾を突いて激しいヤジを飛ばす。しかし、如月さんは全く動じない。懐中時計を取り出し、カチリと秒針を鳴らして思考を調律すると、冷ややかなアメジストの瞳で議場を見渡し、こう言い放つのだ。


『愚問じゃ。お主らは数字の表層しか見ておらん。マクロ経済の動向などという曖昧な概念を振りかざす前に、己の足元の事実を見直すのじゃな』


 そして彼女は、国家の予算や外交問題などそっちのけで、野党議員の胸元についている『不自然に歪んだ議員バッジ』のルーツや、議事堂の赤絨毯の端に落ちていた『出どころ不明のガラス玉』の鑑定を始めてしまう。国会中継は彼女の独壇場となり、政治家たちの隠された裏帳簿や不正な資金ルートが、たった一つのモノのルーツを辿るという物理的アプローチによって次々と白日に晒されていく。


 国会運営は間違いなく崩壊するだろう。僕は総理秘書官あたりに任命され、議場でパニックになる議員たちの間で胃薬を噛み砕く羽目になる。想像するだけで胃が痛くなってきた。


「現実的じゃないな。じゃあ、いっそのこと現実を捨ててみたらどうだ」


 僕は天井の木目を見つめたまま、最近プレイしているファンタジーRPGの世界に思考を飛ばした。


 もしも僕たちが、剣と魔法の異世界に転生して、冒険者のパーティーを組むことになったら。


 僕は成り行きで勇者の剣を持たされるが、重くてまともに振ることもできない。パーティーメンバーには、魔法使いとして如月さんのお姉さんである翡翠さんが加わる。彼女なら楽しそうに魔法を撃ちながら、「光太郎くん、その格好似合ってるわよ」と僕をからかってくるだろう。そして戦士は、如月家の屈強なボディーガードである黒田さんだ。彼なら大剣を無言で振り回し、本物の魔物たちを物理の力で粉砕してくれる。


 では、如月さんはどうするのか。

彼女は当然、魔法も剣も使わない『鑑定士』だ。王様から魔王討伐の依頼を受けても、彼女は世界の危機になど全く興味を示さないだろう。


 魔王城に向かう道中、炎を吐く強大な中ボスが現れても、如月さんは決して動じない。本物の魔法陣が展開され、魔力石が光り輝いていても、彼女は純白の手袋をはめ、銀のルーペを取り出す。


『サクタロウ。その程度の幻影で怯えるとは、やはりお主は愚鈍じゃの。よく見るのじゃ。この魔法陣の幾何学模様の歪み、そして魔力石のカットの角度……。これは魔法などという非論理的な現象ではない。この魔力石を作ったドワーフの職人の、歪んだ情動の表れに過ぎん』


 彼女はファンタジー世界の世界観すらも自らの論理で解剖し、本物の魔法や魔剣を前にしても、ただ『モノのルーツ』と『職人の情動』を解き明かすことだけに固執する。魔王が世界を滅ぼすための究極の魔法を詠唱していても、彼女はその魔法陣の術式を物理的かつ論理的に分析し、魔王の隠された悲哀やルーツを看破して、結果的に戦わずして世界を救ってしまう──あくまで副産物として──のではないだろうか。


「剣と魔法の世界で、一人だけ物理的観察眼と論理で無双する鑑定士……。ははっ、なんだそれ。めちゃくちゃだけど、如月さんなら本当にやりかねないな……」


 自分の突飛な空想の数々に、僕は思わず声を上げて笑ってしまった。


 どれだけ異常なシチュエーションを想像しても、どれだけ非現実的な世界に彼女を置いてみても、如月瑠璃という存在の芯は全くブレない。彼女はどこにいようと、どんな立場であろうと、ただひたすらにモノのルーツを探り、冷徹なまでに事実を追求する『孤高の天才』のままだ。


 窓から差し込む午後の陽光が、少しずつその角度を下げていく。

タブレットから流れる箱崎さやかの歌声が、遠くの波音のように心地よく鼓膜を揺らしていた。


 お腹も膨れ、限界まで想像力を働かせたせいか、急激な睡魔が僕のまぶたを重くしていく。

コーラの甘い余韻と、休日の静寂。そして、脳内に居座り続ける、呆れた顔をした美少女の幻影。


「もしも、如月さんが……旧市街の、庶民だったら……」


 僕はうわ言のように呟きながら、ゆっくりと目を閉じた。

意識の輪郭が曖昧に溶け出し、現実の世界がゆっくりと暗転していく。


 次に目を開けた時、僕の目の前には、見慣れたはずの、しかし決定的に何かが狂っている『もしもの世界』が広がっていることなど、今の僕は知る由もなかった。


 微睡みの底へと沈んでいく僕の意識を、かすかな時計の秒針の音が、カチリ、と導いていったような気がした。



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