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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『冒険』(後編) ~section 10:魔王の救済と、崩壊する空想~

 如月瑠璃という、たった一人の偏執的な天才鑑定士によって。

 世界を終わらせる絶対悪としての威厳も、人間の歴史の醜さを断罪する超越者としての傲慢な響きも、物理的な証拠と論理の刃によって完全に解体された玉座の間。

 そこにはもう、僕たちを圧倒し、絶望のどん底へと叩き落としていた恐るべき魔王のプレッシャーは、チリほどの欠片も残っていなかった。


『……あぁ……』


 魔王の顔を深く、そして分厚く覆い隠していた漆黒のフードが、まるで長年の役目を終えたかのように、パラリと力なく崩れ落ちた。

 その下から現れたのは、星が死ぬ間際のような禍々しい赤い瞳を持つ、角の生えた化け物などではなかった。世界を滅ぼす悪魔でもなければ、人間を憎む怨霊でもない。


 かつて、何かを狂おしいほどに深く愛し。

 そして、その腕の中から零れ落ちていく命、あるいは護るべきであった大切な場所を喪うという『絶対的な喪失』の前に心を完全に砕かれ。

 以来、数百、数千年という途方もない時間の中で、ただ自責の念と深い後悔の檻に囚われ続けてきた、一人のひどく無力で、悲しき『人間』の男の幻影だった。


 彼の目元には深いシワが刻まれ、その表情は、世界を憎んでいるというよりも、ただひたすらに『自分自身の無力さ』に疲れ果てているように見えた。


 如月瑠璃によって、純白の大理石の粉末、幾何学的な魔力線のベクトル、そして何より玉座を構成する『石英ガラス』という動かしようのない物理的な証拠と共に。心の奥底に何百年も封印し続け、自分自身すらも騙し続けていた『本当の情動』を白日の下に晒された魔王。

 彼は、崩れ落ちた玉座……かつて絶望のあまり自らの手で破壊してしまった巨大な砂時計の破片の上に、糸の切れた操り人形のように、力なく崩れ落ち、両膝をついた。


「……そうか」


 静まり返った玉座の間に響いたのは、僕たちの脳髄を揺さぶるようなあの恐ろしい呪詛の波動ではなく。

 ひどく掠れた、そしてどこまでも等身大の、後悔に満ちたただの男の独白だった。


「私はただ……失いたくなかっただけか」


 己のルーツを完全に悟り、全てを諦めたようなその言葉と共に。

 魔王の幻影の瞳から、一滴の透明な涙が溢れ落ちた。


 それは、数千年という途方もない時間を経て、彼がようやく自分自身の本当の悲しみと正面から向き合い、流すことを許された、初めての涙だった。

 涙の雫が、重力という物理法則に従って真っ直ぐに落下し、足元に散らばっていた砂時計の石英ガラスの破片にぶつかる。

 ピチャン、という、微かな、しかし極めて澄み切った硬質な音が、広大な空間に響き渡った。


 その小さな、たった一滴の物理的な水分の衝突音が、すべての因果を反転させる引き金となった。


 魔王の巨体を構成し、玉座の周囲を取り巻いていた赤黒い怨念の瘴気が。まるで春の暖かな陽光に当てられた冬の朝霧のように、急速にその毒々しい色を失い、純白の光の粒子へと浄化され始めたのだ。

 破壊の仮面が完全に剥がれ落ち、戦意を完全に喪失した彼には、もはや上空の極大魔法を維持するための『絶望という名の燃料』が一ミリも残されていなかったのである。


 パキィィィィィンッ……!!


 魔王城の上空をすっぽりと覆い尽くし、世界を終わらせるための臨界点を迎えようとしていた『終焉の魔法陣』。

 中心座標に向かって限界まで魔力を収束させ、外部からの干渉をすべて遮断しようとしていたその極めて不格好な『保存の魔法』は、術者自身の情動の崩壊という根本的なエラートリガーに耐えきれず、まるで空一面に張られた巨大なステンドグラスが内側から砕け散るように、華々しく、そしてあっけなく自壊した。


 破片となった無数のルーン文字と、フラクタル構造を描いていた魔力線が、キラキラと輝く光の粉雪となって、玉座の間へと静かに、優しく降り注いでいく。

 毒々しく赤黒く染まり、空間の崩壊の悲鳴を上げていた空は、嘘のように澄み切った、どこまでも高い青空へと塗り替えられていく。そして、その雲の切れ間からは、この地下深くの空間には物理法則上絶対に存在するはずのない、暖かく優しい太陽の光が真っ直ぐに差し込んできたのだ。


「対象の敵対的魔力反応、完全にロスト。空間の魔力濃度、異常値から正常値へと急速に回復中。……戦闘の終了を確認した」


 僕たちを護るために前に出て、魔王の重力波と瘴気の刃を真正面から受け止めていた黒田さんが。

 限界を超えた負荷によってボロボロに砕け散り、白い蒸気を吹き出している漆黒のサイボーグ装甲をギシギシと軋ませながら、ゆっくりと強固な防御姿勢を解いた。

 彼が両手で構えていた予備の武器である漆黒の戦鎚(メイス)も、もはや戦うべき敵が存在しないことを悟ったかのように、彼の手から離れ、光の粒子となって空気中へと溶けて消えていく。


「ふう……。どうやら、世界は滅びずに済んだみたいね。本当によかったわ。これ以上あのひどく乾燥した絶望の空気に当てられていたら、お姉さんのお肌の水分まで全部持っていかれるところだったもの」


 翡翠さんも、極大魔法の暴風によってズタズタに引き裂かれたエメラルドグリーンのローブの胸元を、豊満な谷間を揺らしながら深く撫で下ろした。彼女は先端に緑の宝玉が輝く賢者の杖をゆっくりと下ろし、いつものような余裕のある、それでいて少しだけ疲れを見せた蠱惑的な微笑みを浮かべた。


 光の粒子となって浄化され、消え去っていくのは、上空の魔法陣だけではなかった。

 戦意を喪失し、涙を流した魔王自身の身体も。

 そして、純白の大理石の神殿を無理やり変質させて作られていた、この巨大な黒曜石の魔王城そのものも。


 彼が数千年にわたって纏い続けていた「絶望」という名の強固な呪縛が、如月瑠璃の論理によって完全に解き放たれたことで。

 本来の姿である、幾何学的な美しさを誇る純白の大理石の幻影をほんの一瞬だけ取り戻し。その後、サラサラと音を立てて、きめ細やかな光の砂となって、青空へと向かって静かに昇っていく。

 悪魔のレリーフも、紫色の魔力炎も、玉座へと続く赤絨毯も、すべてが本来の物理的循環のサイクルへと還っていくのだ。


 僕は、数十キログラムもの重さがあるプラチナの『伝説の勇者のフルプレートアーマー』をガシャリと鳴らしながら、砕け散った黒曜石の床からゆっくりと立ち上がった。

 激しい全身の痛みを堪えながら、僕はその美しくも信じられない光景を、ただただ呆然と見渡すことしかできなかった。


(終わった……のか? 本当に……)


 僕の腰には、魔力阻害(アンチ・マジック)の特性を持つとされる伝説の聖剣の鞘が、未だに重々しくぶら下がっている。

 しかし、この世界を救うために、僕はその剣で魔王の肉体に致命傷を与えることは、ただの一度もなかった。僕の放った勇者としての乾坤一擲の攻撃は、何一つとして魔王の絶対的な障壁には通じていなかったのだ。


 圧倒的な質量と魔力を持ち、世界を崩壊させようとしていた絶対悪を打ち倒し、この世界に完全なる平和をもたらしたのは。

 選ばれし勇者の伝説の剣でもなければ、仲間との絆が生み出した奇跡の力でもなく、規格外の賢者が放つ極大魔法でもなかった。


 ただ一人の、十六歳の少女。


 如月瑠璃は、浄化されていく魔王の悲しき最期や、光に包まれていく世界の美しく感動的な光景などには、一切の関心を示していなかった。

 彼女は、自身の純白のオーダーメイド手袋の指先についた、目に見えない大理石や石英ガラスの粉末の埃を、パンパンと極めて優雅な所作で払い落としていたのである。


彼女は、魔王の深い悲しみに同情したわけではない。『可哀想に』と彼の境遇に共感し、寄り添い、救済しようとしたわけでは決してない。

 そしてもちろん、勇者のように正義感に駆られて、この美しい世界を滅亡から救おうとしたわけでもないのだ。


 ただ、対象の抱える物理的な矛盾に気がつき。

 そのルーツが何であるかを知への極限の執着によって論理的に解明し。

 一切の誤魔化しを許さない『真理の証明』を、対象の顔面に真っ向から叩きつけただけ。


 その、一切の情動を排した残酷なまでの事実の提示が、結果的に魔王の心を縛り付けていた数千年の呪いを解き放ち、このファンタジー世界を滅亡の危機から救ってしまったのだ。

 世界を救済したという偉業すらも、彼女にとっては、自身の知的好奇心を満たした結果生じた、単なる『副産物』に過ぎなかった。


「ふむ」


 如月さんは、大きく開かれたドレスの裾を軽く持ち上げ、光となって消えゆく玉座の間を、どこまでも冷ややかに、そして心底つまらなそうに見渡した。


「ファンタジー世界とやらも、突き詰めればすべて物理と情動の法則の内に収まるものじゃな。……どれほど大仰な魔法や化け物を用意し、世界を滅ぼすなどとスケールの大きな錯覚を並べ立てようと、結局のところ、そのルーツにあるのは人間の矮小な未練と情動の延長線上に過ぎん」


 彼女は、右手で弄んでいたアンティークの銀のルーペを、パタンと小気味良い音を立てて折りたたむと、ドレスの隠しポケットへと静かにしまった。


「全くもって、退屈じゃ」


その、どこまでもブレない、徹底した『如月瑠璃のフォーマット』。

 神殺しの剣も、世界を滅ぼす魔法も、彼女の前では単なる『出来の悪い物理パズル』以上の意味を持たないのだ。


その小さくも絶対的な知性を誇る背中を見つめながら、僕は思わず、重たいフルプレートアーマーの中で深く、深いため息を吐き出した。


(結局、伝説の剣も魔法も、あのファンタジー衣装すらも……如月さんの前じゃ形無しじゃないか!)


 僕の脳内で組み上げられた、剣と魔法の王道ファンタジーという強固なシステムすらも、彼女の論理と観察眼の前には完全に屈服してしまった。

 そのあまりの理不尽さと、彼女の規格外のブレなさに、僕はついに呆れ果て、声を上げて笑い出してしまった。


「サクタロウ? 何を一人で不気味に笑っておるのじゃ。現象の解明は完全に終了した。さっさとこの崩壊する無意味な空間から……」


 如月さんが振り返り、怪訝なアメジストの瞳で僕を睨みつけた、その瞬間だった。


 世界を優しく包み込んでいた太陽の光が、突如として爆発的な輝きを放ち、僕の視界のすべてを、一切の陰影を持たない『純白』へと染め上げた。

 足元の黒曜石の床の感覚が、フッと消える。

 僕の身体を押し潰そうとしていた数十キログラムのプラチナの鎧の重みが、嘘のように消え去る。


 魔王が完全に浄化され、この空想の世界における『最大の謎』が解明されたことで。

 この夢のファンタジー世界そのものが、そのシステムとしての役割を終え、データが削除されるように崩壊を始めたのだ。


「あ……」


 僕の身体が、深い水の中を急浮上していくように、ふわりと軽くなる。

 視界が完全に白濁し、黒田さんの漆黒の装甲も、翡翠さんのエメラルドグリーンのローブも、そして僕を冷たい目で見つめる如月さんのミッドナイトブルーのドレス姿も。

 すべてが、光の渦の中へと溶けて見えなくなっていく。


 耳の奥で、ピーッという高い電子音のような耳鳴りが鳴り響く。

 それが次第に、くぐもった現実世界の環境音……鳥の声や、遠くを走る車の音、風の音へと置き換わっていくのが分かった。


 魔王城の冷たい空気の匂いが消え。

 代わりに僕の鼻腔をくすぐったのは、古い紙の匂いと、微かな埃っぽさ。


 夢のファンタジー世界が完全にフェードアウトし。

 僕の意識は、暗い水底から水面へと顔を出すように、一気に『現実』へと浮上していった。



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