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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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エピローグ:『日常』

 視界のすべてを真っ白に染め上げていた、あの世界を崩壊させるほどの圧倒的な光の奔流。

 それは、空間の次元そのものを焼き尽くすような凄まじい熱量を持っていたはずなのに、今の僕の網膜を焼いているのは、ただひどく穏やかで、どこか眠気を誘うような微熱を帯びたオレンジ色の光だった。


「……ん、あ……?」


 僕の意識は、底なしの暗い水底から一気に水面へと引き上げられたような、唐突で暴力的な浮上感と共に覚醒した。

 耳の奥で、世界の終わりを告げるように鳴り響いていた「ピーッ」という甲高い電子音のような耳鳴りが、次第に別の音色へとその輪郭を変えていく。それは、どこか遠くの電線で鳴くカラスののんびりとした声であり、開け放たれた窓から入り込む風が、古い木製のサッシをガタガタと微かに揺らす、ひどく平和で日常的な環境音だった。

 鼻腔を容赦なく突き刺し、呼吸をするたびに肺の粘膜を焼き焦がしていた、魔王城のあの古い血と硫黄の致死的な瘴気は、もはや微塵も存在しない。

 代わりに僕の嗅覚を満たしたのは、長年放置された大量の蔵書が放つ古い紙の匂い。太陽の光をたっぷりと吸い込んだ埃っぽさ。そして、ほんのりと甘く焦げたような、カラメルの匂い。


「……ハッ!! 魔王は!? 世界の崩壊は!?」


 僕は、全身のバネを弾かせるようにして、ガバッと勢いよく顔を上げた。

 咄嗟に、腰に帯びていたはずの『伝説の聖剣』の柄を握りしめようと右手に力を込めるが、そこにあるのは冷たく重たいプラチナのガントレットの感触ではなく、僕自身の生身の、少し寝汗ばんだ無防備な手のひらだけだった。

 僕の身体を押し潰そうとしていた、数十キログラムはあろうかという勇者のフルプレートアーマーの絶望的な重圧も、どこにもない。代わりに僕の肩をふんわりと覆っているのは、着慣れた如月学園の、少し硬い生地で作られた指定のブレザーだった。


 激しい動悸で胸を上下させながら、僕は大きく瞬きをして、自らが現在置かれている『三次元座標』をぐるりと見渡した。


 そこは、黒曜石で造られた禍々しい魔王の玉座の間ではなかった。赤黒く渦巻く絶望の空も、僕たちを押し潰そうとする致死的な重力波もない。

 見上げるほど高い天井と、壁一面にそびえ立つ巨大な本棚の群れ。窓から真っ直ぐに差し込む西日が、空気中を漂う無数の埃の粒子を、まるで金色の砂のようにキラキラと輝かせている、極めて静謐な空間。

 ネットワークを介した情報収集や環境操作が可能な最先端のスマートシティであるこの月見坂市において、まるでそこだけが時代に取り残され、物理的な時間の流れから切り離されたかのような、アナログで古びた聖域。

 僕と彼女が勝手に拠点として占拠している、立ち入り禁止の『如月学園旧校舎の図書室』だった。


 僕の右頬には、硬いアンティークのマホガニー製の机に突っ伏して寝ていたせいで、制服の袖のシワの跡がくっきりと赤く刻み込まれている。口の端からは微かに涎が垂れており、僕は慌ててブレザーの袖口でそれを乱暴に拭い取った。


(夢……。全部、僕が図書室の机で居眠りしている間に見ていた、ただの夢だったのか……)


 僕は、窮屈だったネクタイの結び目を少し緩めながら、肺の奥底に溜まっていた緊張をすべて吐き出すように、深く、長いため息を漏らした。

 あまりにもリアルで、あまりにも絶望的で、そしてあまりにも『彼女らしい』、壮大な剣と魔法のファンタジー世界の冒険。

 古代魔獣ゴーレムの物理的矛盾を外装の摩耗痕から解き明かし、暗黒騎士の触れるものを腐らせる呪いを純銀の硫化反応と超腐食反応で論破し。あろうことか、世界を滅ぼす魔王の極大魔法すらも『保存魔法の劣化版』という設計ミスの一言で完全に解体してしまった、あの孤高の天才鑑定士の姿。


「……本当に、夢の中でも一切ブレない人だな、あの人は」


 僕は、机の上に乱雑に置かれていた自分のスマートフォンとタブレットに目を向けた。魔王の放つ極大魔法の炎で炭の塊になることもなく、無傷でそこにあるデジタル機器の冷たい感触を指先で確かめ、僕は安堵の苦笑いを浮かべた。

 僕の目の前には、食べかけのポテトチップスの袋と、飲みかけで炭酸が抜けかかっているペットボトルのコーラがだらしなく置かれている。これが僕の現実であり、伝説の勇者などという大層なジョブとは無縁の、どこにでもいるただの高校生の日常の風景だ。


 そんな、僕の安堵に満ちた独り言を。

 この空間において、絶対に聞き逃すはずのない冷徹な耳が、机の向こう側からピクリと動いた。


「サクタロウ。先ほどから、お主の自律神経が著しく乱れ、心拍数と呼吸数が異常な数値を叩き出しておるのが、この距離からでも手に取るように分かるぞ」


 鼓膜を直接、極寒の氷の刃で撫でられたような、極めて平坦で、一切の感情の起伏を持たない声。

 僕はビクッと肩を震わせ、反射的に声のする方……広大なマホガニー製のテーブルの対面へと視線を向けた。


 そこには、魔王城の玉座の間で世界を救った時と全く同じ、一切の乱れがない完璧な姿勢で背筋をピンと伸ばした、一人の少女が座っていた。


 漆黒の艶やかなストレートの長髪が、窓から差し込む斜陽を受けて、深い烏の濡れ羽色に輝いている。

 透き通るような美しい白磁の肌に、世界の一切の事象を冷静に観測し、解剖しようとする、極めて知的なアメジストの瞳。

 如月瑠璃だった。


 しかし、彼女が今身に纏っているのは、僕の夢の中に登場したような、大きく胸元が開いた際どいミッドナイトブルーのコルセットドレスなどではない。

 如月学園の、清楚で機能的なデザインのブレザーの制服を、第一ボタンまで隙なくきっちりと着こなしている、見慣れた『現実』の彼女の姿だ。

 そして、その両手には、これから対象のルーツを物理的に観測せんとする外科医のように、一ミリの汚れもない『純白のオーダーメイド手袋』がはめられている。彼女のプロとしての矜持の象徴。自らの指紋や皮脂といった不純物で、対象が持つ物理的な証拠を汚染してしまうことを極端に嫌う、絶対的な鑑定士の武装である。


 彼女の手元には、美しい純銀のソーサーに乗せられた、彼女の大好物である『かためのプリン』が、一切の型崩れなく完璧な形状を保って鎮座していた。先ほど僕の鼻腔をくすぐった甘い匂いの正体は、このプリンにかかっているほろ苦いカラメルソースのものだったらしい。

 僕のジャンクなポテトチップスとコーラ。そして、彼女の純銀のソーサーに乗ったかためのプリンと、アンティークのティーカップに注がれた高級茶葉の紅茶。

 この机の上に展開されている飲食物の明確な格差こそが、僕と彼女の『主と下僕』という絶対的な身分差を、物理的に証明する証拠品であった。


「どうやら、己の大脳皮質で処理しきれない非論理的な妄想の海を漂っておったようじゃな。浅いレム睡眠特有の、眼球の激しい運動が観測できた。……よもや、この図書室という神聖な空間において、わしを被写体にした下劣で非科学的な夢でも見ておったのではあるまいな?」


 如月さんのアメジストの瞳が、僕の脳髄の奥底までをも直接解剖しようとするかのように、鋭く、そして極寒の冷たさを持って細められた。


「ち、違いますよ! そんな不純な夢じゃなくて、もっとこう、壮大な剣と魔法の冒険の……!」


 僕が顔の前で両手を振り、慌てて否定しようとした、まさにその瞬間だった。

 僕のポンコツな大脳辺縁系が、先ほどまで夢の中で見ていた『ミッドナイトブルーのコルセットドレスを着て、胸元と鎖骨を惜しげもなく晒しながら、銀のルーペを片手に魔王を論破する如月瑠璃』という極めて鮮明で刺激的な映像を。

 あろうことか、目の前にいる制服姿の彼女の姿に、バグのように強制的に重ね合わせ(オーバーレイ)させてしまったのだ。


「あ……」


 僕の視線は、無意識のうちに、いや、完全に抗いがたい脳の錯覚によって、彼女の制服の胸元あたり……夢の中では大きく開かれていたその空間へと、無防備に泳いでしまった。

 自分の意志とは裏腹に、顔の毛細血管が一気に拡張し、心拍数が跳ね上がり、耳の先までカッと熱くなるのが分かる。


「……サクタロウ」


 図書室の室温が、物理的にマイナス五度ほど急降下した。


「先ほどから、極めて邪で、不純で、吐き気をもよおすほどの底意地の悪い視線を感じるのじゃが。……気のせいか?」


 如月瑠璃の瞳は、もはや絶対零度だった。

 彼女は『情動の視座』を用いるまでもなく、単なる物理的観察眼だけで、僕の瞳孔の開き具合、顔面への異常な血流の集中、汗腺からの発汗、そして視線の角度という数々の物理的なパラメータから、僕が今、彼女に対して極めて不適切な妄想を抱いているという事実を、完璧に、そして論理的に証明し終えていたのだ。

 彼女の純白の手袋に包まれた右手が、机の上の純銀の匙へとゆっくりと伸びる。それが僕の眼球をくり抜くための凶器に変わるまで、おそらくコンマ数秒しかかからないだろう。


「き、気のせいです! 完全に気のせいです! 目の錯覚です! 寝起きでピントが合ってないだけです! あ、あの、ほら、それより如月さん! その、目の前にある異様な物体は一体何ですか!?」


 僕は、これ以上彼女の物理的な視線に晒されれば、夢の中の魔王の極大魔法よりも早く社会的に抹殺されると本能で悟り、顔を真っ赤にして必死に話題を逸らした。

 僕の指差す先。

 アンティークのマホガニー製のテーブルの、実に半分以上の面積を占拠している、どう考えてもこの旧校舎の図書室には存在してはならない、あまりにも異常で、不条理な『物体』。


「……これのことか?」


 如月さんは、僕の必死の話題逸らしに乗り、手にした銀の匙をプリンの横へと静かに置き直すと、僕が指差したその物体へと、純白の手袋でそっと触れた。


「ええ、それです。というか、起きた時からずっと気になってたんですけど……」


 僕は、その物体の異様さに、先ほどの不純な妄想を完全に吹き飛ばされて目を丸くした。


 テーブルの上にドンッと置かれていたのは。

 どこにでも売っているような、一般的なサイズのポリカーボネート製の『キャリーケース』だった。

 旅行や出張に出かける人間が駅や空港でゴロゴロと引きずっている、あの四輪のキャスターが付いたありふれたカバンだ。


 しかし、そのキャリーケースは、本来の用途である『荷物を運ぶ』という機能を完全に喪失するような、極めて不可解でシュールな改造を施されていた。


 キャリーケースの硬いプラスチック製の胴体。そのど真ん中に、直径三十センチほどの『巨大で真ん丸な穴』が、まるで巨大なクッキー型でくり抜かれたかのように、極めて無骨に開けられていたのだ。

 そして何より僕の脳をバグらせたのは、その開けられた大穴の空間に。

 キッチンで野菜を洗ったり、ハンバーグの種をこねたりする時に使う、あの銀色に光るステンレス製の『ボウル』が。

 まるで最初からそこにあったかのように、一ミリの隙間もなく、みっちりと、そして見事なまでに完璧に『埋め込まれて』いたのである。


「なんですか、これ。中心に大穴が開いて、そこにステンレスのボウルが完璧に埋め込まれたキャリーケースって……。現代アートか何かですか? シュールすぎるでしょ。というか、なんでこんな意味不明なガラクタが図書室の机の上に乗ってるんですか!?」


 僕は、思わず椅子から立ち上がり、その異常すぎる光景に声を裏返した。


「愚鈍な質問じゃな」


 如月さんは、僕の驚愕を完全に環境音として処理し、極めて平坦な声で即答した。


「今朝、月見坂市の旧市街……お主が住んでいるエリアの近くにある、廃業したコインランドリーの裏路地を散策しておった時に、粗大ゴミとして不法投棄されているのを発見したのじゃ。この極めて非論理的な物理状態を見た瞬間、わしの知的好奇心が著しく刺激された。ゆえに、回収してこの図書室の机まで輸送してきた。ただそれだけの、極めて論理的で正しいアプローチじゃ」


「いやいやいや! ゴミ捨て場にあった意味不明な粗大ゴミを、わざわざお嬢様が自分の手で学校の図書室まで持ち込んで机の上に乗せるって、論理が完全に飛躍してますよ! 汚いじゃないですか!」


「ふん。表層の汚れなど、科学的な洗浄液と紫外線照射で完全に滅菌済みじゃ。そんな些細な衛生問題よりも、遥かに観測の価値があるのが、この『ボウルが埋め込まれたキャリーケース』という物理的な存在そのものじゃ」


 如月さんは、僕の常識的なツッコミを一蹴すると、懐から精緻な銀細工が施された【アンティークのルーペ】を静かに取り出した。


「問題は、このステンレスのボウルが『なぜ』、そして『どのような情動によって』、本来交わるはずのないキャリーケースの胴体に、これほどまでに執念深く、かつ完璧な精度で埋め込まれているか、という物理的矛盾じゃ。……サクタロウ。お主のその節穴の目で、このキャリーケースの切断面の『摩擦痕』と、ボウルの底面に付着している微細な『油膜の成分』をよく観測してみよ」


 彼女は、純白の手袋に包まれた指先で、キャリーケースのポリカーボネートの表面をそっと撫で、ルーペのレンズを、ボウルとの接合部ギリギリにまで近づけた。

 そのアメジストの瞳の奥には、夢の中で魔王の極大魔法の矛盾を暴き出した時と全く同じ、いや、それ以上に研ぎ澄まされた、狂気的なまでの『知への探求心』が激しく燃え盛っていた。


「よいか、サクタロウ。このキャリーケースの穴の切断面。一見すると電動ノコギリのような工具で乱暴に切り抜かれたように見えるが、ルーペでミクロン単位まで拡大して視れば、プラスチックが摩擦熱で溶けた『溶解痕』の向きが、時計回りと反時計回りで極めて不規則に交差しておる。これは、機械による一定の切断ではなく、手作業によって、何度も刃の角度を変えながら執拗に削り取られた痕跡じゃ」


 彼女の、世界を解剖する冷徹な講義が始まる。


「さらに、このステンレスボウルのフチの部分。プラスチックの穴との間に生じるわずかな隙間を埋めるために、業務用の強力なエポキシ樹脂系接着剤が、極めて均等な圧力で充填されておる。つまり、これはただのイタズラや現代アートなどではない。この物体を作った人間は、この『ボウル付きキャリーケース』を、何らかの実用的な目的のために、本気で、そして執念を持って工作したということじゃ」


「実用的な目的……? キャリーケースにボウルを埋め込んで、一体何に使うっていうんですか? 転がしながら料理でもする気ですか?」


「それをこれから証明するのじゃ。対象の物理的証拠と、そこに込められた人間の情動のルーツをな」


 如月瑠璃は、ルーペ越しにそのシュールなガラクタを見つめながら、その知的な探求心を満たしていく。

 僕は、呆然としながらも、彼女のその一切ブレることのない横顔を見つめ、小さく、しかしどこか晴れやかな息を吐いた。


(……ああ、やっぱり、この人は)


 夢の中で体験した、世界を滅ぼす魔王や、触れるものを腐らせる暗黒騎士との死闘。

 それは確かに、命懸けの壮大で、そしてロマンに溢れた剣と魔法のファンタジーだった。

 しかし、目を覚まして現実世界に戻ってきてみればどうだろうか。


 圧倒的な美貌と頭脳を持つ大企業の令嬢が。

 ただの一つの『ボウルが埋め込まれたキャリーケース』というシュールな謎を解くためだけに、純白の手袋と銀のルーペを構え、大真面目にその摩擦痕や接着剤の成分を解剖しようとしている。


どれだけ壮大で非現実的な空想の夢を見ようとも。

 僕の目の前に実在している、この『如月瑠璃』という孤高の天才が引き起こす現実(ミステリー)のほうが。

 よっぽどスケールが狂っていて、意味不明で、非日常的で。

 そして、圧倒的に厄介なのだ。


「ふむ……。このボウルの底面に残留している油分。そして、キャリーケースのキャスター部分にのみ極端に付着している、特定の土砂の成分……。サクタロウ、お主、いつまで突っ立って呆けておる。早くノートとペンを用意せよ。今から、この物体が移動したであろう物理的な軌跡と、持ち主の行動範囲のベクトルを数式に出力する」


「……はいはい。わかりましたよ、如月さん」


 僕は、心の中で深く、しかしどこか誇らしい苦笑を漏らしながら。

 机の上に置かれていた自分のノートと万年筆を手に取り、ポテトチップスとコーラの横……いつものように、そしてこれからもずっと続くであろう、彼女の『助手』としての定位置へと座り直した。


 空想の産物は、彼女の完璧な論理の前では生き残れない。

 魔法も、呪いも、世界を滅ぼす魔王も、彼女のアメジストの瞳の前ではただの錯覚として解体されてしまう。


 しかし、この現実世界に無数に隠された、ありえない場所に存在するありえないモノのルーツを探る、この奇妙で騒がしい日常は。

 どんな剣と魔法の壮大な冒険よりも、僕の心を強く、そして永遠に惹きつけて離さないのだ。


 窓から吹き込んだ風が、古い図書室の埃を舞い上げ、如月瑠璃の艶やかな黒髪を優しく揺らした。

 カチリ、と。

 彼女の懐に潜む銀の懐中時計が、新たな謎への調律の音を、静かに、そして確かに刻み始めた。



~如月令嬢は『空想の産物を認めない』 fin~



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