第4話『冒険』(後編) ~section 9:劣化版の保存魔法と、玉座の砂時計~
如月瑠璃の放った、いかなる物理的打撃よりも重く、いかなる極大魔法よりも鋭い、完全なる論理による『真理の宣告』。
その言葉が玉座の間に響き渡った瞬間。
ピタリ、と。
魔王の漆黒のローブに包まれた巨大な身体が、まるで不可視の巨大な楔を打ち込まれたかのように、完全にその動きを停止した。
上空で荒れ狂い、赤黒い雷を撒き散らしていた『終焉の魔法陣』の回転が、不気味なほどの急ブレーキをかけて静止する。
空間をミシミシと軋ませていた致死的な重力波も、全方位へと放たれていた瘴気の刃も、嘘のようにピタリと鳴りを潜めた。魔王城の最上階を支配していた「世界を滅ぼす絶対悪のプレッシャー」が、まるで電源を落とされた巨大な機械のように、急速にその熱量と指向性を失っていくのが、僕の肌にもはっきりと感じ取れた。
『……っ、あ……』
魔王の兜の奥で、星が死ぬ間際のように恐ろしい輝きを放っていた赤い二つの瞳。
それが今、明確な『動揺』と、触れられたくない古傷を無理やり抉り開けられたような『激しい痛切』に揺らぎ、明滅を繰り返している。
「あの魔法陣は、破壊の術式ではない。……保存の魔法……?」
僕たちを護るために前に出ていた黒田さんが、砕け散った装甲から白い蒸気を吹き出しながら、信じられないというように上空の魔法陣を見上げた。
杖を握りしめて荒い息を吐いていた翡翠さんも、エメラルドグリーンの瞳を丸くして、魔王と如月さんを交互に見つめている。
僕もまた、如月さんに覆い被さっていた身体をゆっくりと起こし、呆然と彼女の横顔を見つめた。
世界を滅ぼすための極大魔法が、大切なものを守るための保存魔法だなんて。そんなファンタジーの根幹をひっくり返すような事実が、果たしてあり得るのだろうか。
しかし、如月瑠璃のアメジストの瞳には、一切の迷いも、自らの推理に対する疑念も存在していなかった。
彼女は、純白のオーダーメイド手袋で自らのコルセットドレスの裾を優雅に整えながら、ゆっくりと立ち上がり、玉座で硬直する魔王に向けてさらなる追撃の言葉を紡ぎ出した。
「いかにも。対象を破壊するのではなく、極限まで内側に収束する魔力のベクトル。それは、外部からのあらゆる干渉……すなわち『時間の経過』や『外敵からの攻撃』を完全に遮断し、中心に置かれたものを永遠に不変のまま隔離しようとする、極めて閉鎖的な防壁の術式じゃ」
彼女は、銀の匙を懐にしまい、代わりにアンティークの銀のルーペを取り出して、再び右目の前に構えた。
「しかし、お主はその防壁の術式に、あまりにも過剰で莫大な魔力を注ぎ込みすぎた。護りたいという情動が強すぎるあまり、空間そのものを歪めるほどの重力崩壊を引き起こし、結果として『周囲の環境すべてを押し潰してブラックホール化させる』という、極めて不格好で迷惑な劣化版のバグを生み出してしまったのじゃよ。……すべてを無に帰すなどと嘯いておったが、それは単なるお主の魔力制御の失敗による『副産物』に過ぎん」
『ち……違うッ……! 我は……我は絶対の破壊者……! この醜い世界を終わらせる……終焉の……!』
魔王が、頭を抱えるようにして漆黒の腕を振り乱し、呻き声を上げた。
それはもはや、超越者としての威厳に満ちた声ではなかった。自らが信じ込んでいた、あるいは自らに無理やり言い聞かせていた「悪としてのアイデンティティ」を剥がされまいと必死に抵抗する、ひどく人間臭く、そして哀れな声だった。
「まだ見え透いた嘘をつくか。ならば、もう一つの決定的な『物理的証拠』を解体してやろう」
如月さんは、ルーペの焦点を上空の魔法陣から、魔王が座っている『玉座』そのものへと移動させた。
「サクタロウ。お主の目には、あの魔王が腰掛けている巨大な玉座が、一体何に見える?」
唐突に話を振られ、僕は戸惑いながらも、祭壇の上に鎮座する玉座を凝視した。
それは、黒曜石の城に相応しい、異様で悪趣味な代物だった。
全体が真っ黒で、無数の鋭く尖ったガラスの棘のようなものが、あらゆる方向に向かって不規則に突き出している。まるで巨大な獣の牙を無理やり組み合わせたかのような、あるいは座る者自身をも傷つける拷問器具のような、いかにも『絶対悪の象徴』といった禍々しいデザインだ。
「えっと……すごく痛そうな、ガラスの棘でできた椅子、ですよね。いかにも悪の親玉が座ってそうな、威圧感を出すためのデザインというか……」
「凡人め。表面的なトゲトゲしさに騙されて、モノのルーツを全く見ようとしておらん」
如月さんは、僕の月並みな感想を冷酷に切り捨て、純白の指先で玉座を真っ直ぐに指し示した。
「よく視よ。あの玉座を構成している無数の棘の破片は、この魔王城を構成している黒曜石とは、材質の透明度も屈折率も全く異なっておる。あれは極めて純度の高い『石英ガラス』じゃ。魔王の放つ瘴気によって黒く薄汚れてはおるが、本来は美しい無色透明のガラス片じゃよ」
「石英ガラス……?」
「そして、その破片の『形状』じゃ。無作為に砕かれたように見えるが、どの破片もガラスとしての『厚み』が完全に均一であり、さらにすべての破片が、ごくわずかに『一定の曲率』を描いておる」
言われて目を凝らしてみると、確かに、玉座から突き出している無数の棘は、ただ真っ直ぐに尖っているわけではなく、それぞれが緩やかなアーチ状の曲面を持っていた。
「一定の曲率を持った、均一な厚みのガラス片。……それらの破片のカーブの角度をすべて計算し、三次元空間上で元の形状へと逆算して組み上げてみよ。答えは極めて単純な幾何学立体になる。中央が極端にくびれた、上下対称の二つの巨大な『球根状のガラス容器』じゃ」
如月さんの言葉に従い、僕は脳内で、あの無数のガラスの棘をパズルのように繋ぎ合わせ、一つの立体を想像してみた。
中央がくびれた、二つの巨大な透明のガラス容器。
「……まさか」
僕の背筋に、ゾクリと冷たいものが走った。
「さらに、決定的な証拠が足元にある。あの玉座の破片と破片の隙間、そして魔王の足元の祭壇に、何やら細かい粒子のようなものがこびりつき、散乱しているのが視えるじゃろう」
如月さんの指摘通り、玉座の接着面や、床のタイルの隙間には、黒曜石の欠片やただの埃とは違う、極めて粒子の細かい『サラサラとした何か』が大量にこびりついていた。
「あれは灰でも泥でもない。粒の大きさが完全に均一に揃えられた、高純度の『珪砂』じゃよ。……ガラス容器と、均等な粒子の砂。これで、あの玉座のルーツが何であったか、完全に証明されたな」
如月瑠璃の澄み切った声が、魔王の最後の逃げ道を完全に塞ぐように、宣告を下す。
「あの禍々しい玉座は、悪の威厳を示すために作られたものではない。お主が過去に自らの手で破壊してしまった『巨大な砂時計』の破片を、ただの未練と後悔によって無理やりかき集め、自身の呪いの魔力で接着して組み上げただけの、悲しき『ガラクタの寄せ集め』じゃよ」
『……ッ!!! あ、あぁ……ッ!!』
魔王が、まるで胸の奥を直接槍で貫かれたかのように、ビクンと身体を跳ねさせ、自らの玉座……巨大な砂時計の残骸を手で覆い隠すようにして身を屈めた。
その姿には、もはや世界を滅ぼす魔王の面影は微塵もなく。ただ過去の過ちを悔やみ、己の持ち物を抱え込んで泣きじゃくる、無力な子供のようだった。
「砂時計とは、不可逆である『時間の経過』を視覚化し、計るための物理的な計器じゃ」
如月さんは、ルーペを懐にしまい、ゆっくりと、しかし確実に、魔王の心の最奥へと踏み込んでいく。
「お主は、遥か昔の過去において、どうしても失いたくない大切な何か……あるいは誰かを、理不尽な暴力や寿命によって喪うという『悲劇』に直面したのじゃろう。その時、お主は絶望の中で、己の無力さを呪い、落ちていく砂時計の砂を止めようとした。……時間を止めてくれと、魂の底から願ったはずじゃ」
彼女の情動の視座が、魔王のルーツにある、極限の悲しみの記憶を完璧にトレースし、言語化していく。
「しかし、物理法則としての時間は残酷に流れ続け、お主の願いは叶わなかった。大切なものは失われた。……その絶望と怒りのあまり、お主は自らの手で、その巨大な砂時計を粉々に叩き割ったのじゃな」
魔王は、もはや反論する言葉すら持たず、ただ肩を震わせて低く呻くことしかできなかった。
「だが、時は戻らない。残されたのは、粉々に砕け散った砂時計のガラス片と、虚しい砂だけじゃった。……お主は、そのガラス片を捨てることすらできなかった。己の愚かさと後悔を忘れないために、あるいは、いつか時間を止められる魔法を完成させるその日を夢見て。砕けた砂時計の破片を自らの魔力で繋ぎ合わせ、この玉座を造り上げた」
僕は、目の前で身を縮める魔王の姿から、目を離すことができなかった。
世界を憎み、人間の醜さを語っていたあの言葉は。すべて、自分自身が大切なものを守れなかったという『強烈な自己嫌悪』と『後悔』の裏返しだったのだ。
だからこそ、暗黒騎士の持つ純銀の聖剣は、極限の悲しみを吸い込んで呪いの剣へと変質した。
だからこそ、この大理石の神殿は、外敵を拒絶する真っ黒な要塞へと変質した。
すべては、二度と何も失いたくないという、極端に歪んでしまった『防衛本能』の現れに過ぎなかったのだ。
「お主が本当に求めていたのは、世界への憎しみや破壊ではない」
如月瑠璃は玉座の下から、かつて砂時計であった未練の塊と、そこに座る哀れな存在を真っ直ぐに見据えた。
「失った者を、時間を止めてでも、世界ごと保存して守りたかったという、極限の悲しみと後悔。……それが、魔王という空想の産物を構成している、お主の本当の『情動のルーツ』じゃ」
その、一切の容赦もない、しかし絶対的な真理を突きつける言葉が響き渡った、次の瞬間。
パキッ……。
魔王の顔を深く覆い隠していた漆黒のフードの奥で、何かが割れるような音がした。
世界を滅ぼす絶対悪として、自らを数百年間も縛り付け、守り続けてきた強固な『悪の仮面』。その概念の殻に、致命的な亀裂が入った音だった。
『……あぁ……』
魔王の巨体から吹き出していた赤黒い瘴気が、まるで朝日に照らされた霧のように、急速に色を失い、白く透き通っていく。
兜の奥で恐ろしく燃えていた赤い瞳の光が消え去り。
その異形の巨大なシルエットが、まるでノイズの走る古い映像のように激しく明滅し、輪郭を崩し始めた。
そして、その禍々しい魔王の外殻の奥から、フラッシュバックのように浮かび上がってきたのは。
漆黒の翼を持つ化け物などではない。
かつて、何かを深く、狂おしいほどに愛し。そして、その腕の中から零れ落ちていく命を前にして、砕け散る砂時計の横でただただ涙を流し、絶望に顔を歪めて泣き叫ぶ。
そんな、一人のひどく平凡で、ひどく無力な『人間』の、悲痛な幻影だった。




