第4話『冒険』(後編) ~section 8:魔王の激昂と、魔法陣の解体~
「愚鈍じゃな」
如月瑠璃の、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどに澄み切った一喝。
世界を崩壊させる極大魔法『終焉の魔法陣』が空気を引き裂くすさまじい轟音すらも、その凛とした声音をかき消すことはできなかった。
「大層な御託を並べておるが。……自らの魔法のルーツすら忘れ、己の感情の破綻にも気づかずに暴走するなど、愚鈍の極みじゃな」
それは、玉座の上から絶対悪として君臨し、人間の歴史の醜さを嘆いてすべてを無に帰そうとしていた魔王の存在意義を、真っ向から、そして根底から全否定する言葉だった。
人間の歴史が愚かであることをわざわざ数千年も玉座に座って観察するなど知性の欠如であり、その大仰な絶望も魔法陣も、すべてが自己矛盾に満ちた滑稽な茶番に過ぎない。
一切の同情も畏怖も含まない、純粋な『論理による断罪』。
『……我が真理を、愚鈍と呼んだか』
ピタリ、と。
上空で荒れ狂っていた魔法陣の回転が不自然に淀んだ直後。
魔王の口から漏れたのは、先ほどまでの超越者としての余裕に満ちた絶望の独白とは全く違う、明確な『激昂』と『憎悪』が入り混じった、地鳴りのような低い声だった。
『脆弱なる人間の小娘が……。数千年の絶望を観測し続けたこの我の、一体何を知るというのだァァァァァァッ!!』
魔王が、初めてその漆黒のローブに包まれた巨体を玉座から大きく身の乗り出した。
深く被ったフードの奥で燃える赤い瞳が、怒りによって限界まで見開かれる。
それと同時に、魔王の全身から、先ほどまでの静かな魔力放出とは次元の違う、純粋な殺意と怒りに満ちた『物理的な暴力』が爆発した。
ゴォォォォォォォォォォォンッ!!!!
空間そのものが、ひしゃげた。
魔王の咆哮に呼応するように、玉座の周囲を取り巻いていた赤黒い瘴気が、無数の鋭利な物理的質量を持った『刃』となって全方位へと放たれる。さらに、上空から局地的に発生した規格外の『重力魔法』が、見えない巨大な鉄槌となって僕たちの頭上へと容赦なく振り下ろされたのだ。
「対象の敵対的魔力出力、限界値を突破! 全装甲の強度を物理防壁に極振りする……ッ!!」
僕たちを護るために前に出ていた黒田さんが、その漆黒の巨体をさらに低く沈め、両腕をクロスさせて如月さんの前へと立ち塞がった。
しかし、いかなる物理的障害も粉砕してきた黒田さんの強靭なサイボーグ装甲ですら、魔王の怒り狂った重力波と瘴気の刃の前には無力だった。
ガギギギギギギッ!!という、鼓膜を物理的に破るような金属の悲鳴が上がり、彼の肩や背中を覆う分厚いアーマーが次々とひび割れ、砕け散っていく。関節部の駆動系から、限界を超えた負荷による火花と白い蒸気が激しく噴き出していた。
「くぅっ……! さすがに、これだけの質量を真正面から抑え込むのは、お姉さんでも骨が折れるわね……ッ!」
翡翠さんも、エメラルドグリーンのローブを暴風によってズタズタに引き裂かれながら、先端に緑の宝玉が輝く賢者の杖を両手で必死に握りしめ、最後の一滴までの魔力を振り絞って障壁を維持している。
彼女の美しいポニーテールの黒髪が荒れ狂う風に乱れ、その白い額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。展開された光の六角形の盾は、瘴気の刃が衝突するたびに黒く腐食し、パリン、パリンと音を立てて削り取られていく。
二人の頼もしい仲間が、命がけで僕たちを……いや、如月瑠璃という一人の鑑定士を護るために、自らの身を削って耐え凌いでいる。
それなのに。
伝説の勇者という、この世界における最強のジョブを与えられているはずの僕は、黒曜石の床に這いつくばったまま、ガタガタと情けなく震えることしかできなかった。
僕の全魔力と運動エネルギーを込めた聖剣の一撃は、魔王の防壁に全く通じなかった。
頼みの綱である伝説の聖剣は、遥か後方の砕け散った石畳の上に転がったままだ。僕にはもう、魔王を倒す力なんて一ミリも残されていない。魔法も使えない。立ち上がることすら、この数十キログラムのプラチナの鎧の重さと、魔王の重力波のせいで不可能に思えた。
(駄目だ……僕じゃ、何もできない。最初から、勇者になんてなれっこなかったんだ……)
圧倒的な無力感に押し潰されそうになりながら、僕がギュッと目を閉じ、己の運命を呪おうとした、まさにその時。
カチャン……。
暴風雨のような破壊音と、魔法がぶつかり合う轟音の中で。
僕のすぐ真横から、極めて硬質で、そして冷静な金属の音が微かに響いた。
ハッとして顔を上げると。
そこには、ミッドナイトブルーのコルセットドレスの裾を激しい魔力風に煽られながらも、一切の表情を変えることなくしゃがみ込んでいる、如月瑠璃の姿があった。
彼女の純白のオーダーメイド手袋に包まれた右手には、いつの間にか、彼女が常に持ち歩いているアイテムの一つである【アンティークの銀の匙】が握られている。
彼女は、自分を護るために黒田さんや翡翠さんが血を流していることにも、上空から迫り来る死の重力にも、一切の関心を示していなかった。
そのアメジストの瞳は、足元の砕け散った黒曜石の床……その奥底から露出した、神殿のルーツである純白の『大理石の層』の一点のみを、狂気的なまでの集中力で凝視していたのだ。
「空間座標における魔力線の流れを、三次元ベクトルとして定義する」
彼女の薄い唇が微かに動き。
手にした銀の匙の柄の先端が、硬い大理石の床に力強く押し当てられた。
ガリッ、ガリガリッ。
極限の集中状態に入った彼女は、降り注ぐ瓦礫や瘴気の刃を完全に環境音としてシャットアウトし、黒曜石の下に眠る純白のキャンバスに、恐るべき速度で『数式や図形』を刻み始めたのである。
その、異常なまでの知への執着。
世界が滅びようとしている最中にあっても、対象のルーツを解き明かすことだけを至上目的として動く、一切のブレがない完璧なフォーマット。
その姿を見た瞬間。
僕の脳内を支配していた『勇者としての絶望』が、まるで朝霧のようにスッと霧散していくのを感じた。
(……そうだ。何が勇者だ。何が伝説の聖剣だ)
こんなものは、僕の脳髄が勝手に作り出した、ただの空想の産物に過ぎない。
僕の本当の役割は、魔王を剣で討ち倒すおとぎ話のヒーローなんかじゃない。
いつだって、どこにいたって。ありえない場所にある、ありえないモノのルーツを解き明かそうとする、あの孤高の天才鑑定士の『助手』だ。
彼女が、今まさにこの絶望の空間で真理を導き出そうとしている。
魔王の空想のメッキを剥がし、世界の法則を解明しようとしている。
ならば、僕のやるべきことは一つしかない。
魔王を倒すことではない。彼女がその真理を証明し終えるまでの間、この厄介な天才の身の安全を、物理的に確保することだ。
「う、おおおおおおおおっ!!」
僕は、全身の骨が軋む激痛を気力だけでねじ伏せ、重たいプラチナの鎧をガシャリと鳴らして立ち上がった。
そして、後方に転がっている伝説の聖剣などには一切目もくれず、一心不乱に床に図形を刻み続ける如月瑠璃の真横へと走り込み。
上空から降り注ぐ瓦礫や、黒田さんたちの防壁をすり抜けてきた魔力の余波から彼女を完全に庇うように、その身を挺して覆い被さった。
「対象の接近を検知。光太郎、危険です、下がって……」
「いいんです、黒田さん! 黒田さんと翡翠さんは、魔王の直接攻撃を抑え込んでください! 如月さんの周囲の物理的な安全は、僕が、この鎧で護ります!」
背後から迫る重力波と、鋭い石の破片が、僕のフルプレートアーマーに次々と突き刺さり、鈍い音を立てて弾け飛ぶ。
痛い。ひどく痛い。衝撃が鎧越しに内臓を揺らし、息が詰まる。
けれど、もう恐怖はなかった。
僕の腕のすぐ内側で、如月さんが一切の淀みなく銀の匙を走らせるカリカリという音が、何よりも僕のアイデンティティを繋ぎ止め、勇気づけてくれていたからだ。
「……計算、完了じゃ」
数十秒後。
彼女が銀の匙をピタリと止め、ゆっくりと立ち上がった。
僕もそれに合わせて身体を起こし、彼女の描いた床の痕跡を見下ろした。
そこに刻まれていたのは、僕の高校の数学や物理の授業では見たこともない、極めて複雑で高度な空間図形と、力の向きを示す無数の矢印……すなわち魔力線を解析するための論理的な証明図だった。
如月瑠璃は、胸元についた大理石の粉を純白の手袋で優雅に払い落とすと。
激昂し、さらなる魔力を叩きつけようとしている魔王に向かって、手にした銀の匙を、まるでオーケストラの指揮棒のように真っ直ぐに突きつけた。
「静かにしろ、愚か者。……お主のその薄っぺらい破壊衝動が、いかに物理的・数学的に矛盾しているか。今からこのわしが直々に論破してやろう」
彼女の堂々たる、そして圧倒的な自信に満ちた宣言に。
魔王の放つ破壊の魔法が、ほんの一瞬、戸惑うようにその勢いを緩めた。
如月さんは、銀の匙の先端で、上空で回転する『終焉の魔法陣』の中心座標を真っ直ぐに指し示した。
「お主は『すべてを無に帰す』と嘯き、この魔法陣を世界を滅ぼすための極大魔法だと言い張った。しかし、わしが床に刻んだこの力の流れの解析図を見よ」
魔王城に、如月瑠璃の極めて冷徹な、物理学の講義が響き渡る。
「空間における魔力の流れを、特定の向きと大きさを持つ力として捉えるのじゃ。もしこの魔法陣が、お主の言うように世界を外部に向かって吹き飛ばし、すべてを破壊するための爆発的な術式であるならば。その空間から湧き出すエネルギーの総量は、中心から外側へ向かって拡散していくような、明確な『広がり』を持たねばならん。物理学で言うところの、正への発散現象じゃな」
彼女は、銀の匙で空中に見えない直線を引くようにしながら、言葉を紡ぐ。
数式という記号に頼らず、その現象の真理を、純粋な論理の言語へと変換していく。
「しかし、わしがルーペで観測したあの魔法陣の魔力線は、外側へ向かうどころか、ルーン文字のフラクタル構造を経由するごとに、その指向性をすべて『魔法陣の幾何学的な中心点』へと極限まで内側に折り曲げられておる」
「内側に……曲がってる?」
僕が呟くと、如月さんは一つ頷き、魔王の赤い瞳を真っ向から射抜いた。
「いかにも。エネルギーが外に逃げず、内側の一点に向かって無限に吸い込まれているのじゃよ。宇宙空間において、極めて質量の重い天体が、周囲の光すらも逃がさずに自らの内側へと閉じ込めてしまう……いわゆるブラックホールのイベント・ホライゾンと全く同じ構造じゃ」
如月さんの突きつけた完璧な物理的論理の前に。
魔王の全身から立ち上っていた怒りの瘴気が、まるで冷水を浴びせられたかのように、シュウゥゥ……と不気味な音を立てて萎んでいく。
「もしこれを破壊目的で起動させれば、外の世界に被害を及ぼす前に、魔法陣の中心にいるお主自身が、その莫大な収束エネルギーに押し潰されて自滅するだけじゃ。世界を滅ぼす魔法陣? 愚鈍なことを」
彼女は、銀の匙を下ろし、玉座の上の魔王に向かって、憐れむような、しかしどこまでも冷ややかな視線を投げかけた。
「その幾何学的な構造と、魔力の流れるベクトルは、『すべてを破壊する』ための術式などでは断じてない。中心座標に向かって限界まで魔力を収束させ、外部からのあらゆる物理的・魔力的干渉を完全に遮断するための構造……」
如月瑠璃の言葉が。
魔王の心の最奥に隠された、決して触れられたくなかったであろう、最も柔らかく、そして痛ましいルーツの扉を、容赦なく蹴り破った。
「すなわち、あの魔法陣の正体は。お主が『大切なものを永遠に閉じ込めて、外界の脅威から守り抜く』ために無意識に構築してしまった、『保存の魔法』の、極めて不格好な劣化版じゃよ」
『……ッ!!!』
魔王の巨体が、雷に打たれたように激しく痙攣した。
兜の奥の赤い瞳が激しく明滅し、玉座の黒曜石の肘掛けを握りしめていた漆黒の右手が、ボロボロと音を立てて崩れ落ちる。
「お主は、世界を憎んでいるわけでも、人間の歴史に絶望しているわけでもない。ただ、己の愛した大切な何かを失うのが恐ろしくて、時間を止めてでも、世界ごと保存して守りたかっただけじゃ。……その極限の悲しみと未練という情動が、破壊の仮面を被って暴走しているに過ぎんのじゃよ」
絶対悪としての魔王の存在証明が。
いかなる魔法も剣も通じなかった世界崩壊の危機が。
ただ一人の天才鑑定士の、圧倒的な観察眼と物理法則の論破によって、完全に解体された瞬間だった。




