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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『冒険』(後編) ~section 7:魔王の絶望と、幾何学への視線~

 勇者としての自尊心も、仲間を護らなければという使命感も、圧倒的な質量の暴力の前に完全に粉砕されていた。

 魔王は、ただ玉座に座っているだけだ。立ち上がりすらしていない。天に掲げた漆黒の右腕から放たれる莫大なエネルギーだけで、魔王城の上空を覆う暗雲を吹き飛ばし、空一面をキャンバスにして世界を終わらせる極大魔法『終焉の魔法陣』を展開し続けている。

 赤黒く染まった空の下、幾何学的なルーン文字が高速で回転し、空間そのものが崩壊の悲鳴を上げている。


 その、圧倒的で絶対的な絶望の空間に。


『……愚かなことだ』


 突如として。

 魔王の口から、いや、魔王の存在そのものから、直接僕たちの脳髄を揺さぶるような、極めて重く、そして底知れぬ暗黒を湛えた声が響き渡った。

 それは、空気を振動させて鼓膜に届く音声というよりも、空間の魔力そのものを媒体にして精神に直接叩き込まれる、呪詛のような響きを持っていた。


『脆弱なる肉体と、限りなく浅ましい精神しか持ち合わせぬ人間どもよ。……貴様らのその無意味な足掻きを見るにつけ、我が心にはただ深い憐憫と、吐き気をもよおすほどの嫌悪だけが去来する』


 魔王が、初めて明確な意思を持って言葉を発した。

 深く被ったフードの奥で、星が死ぬ間際のような赤い二つの光が、玉座の下で這いつくばる僕を見下ろしている。


『我は数千年という悠久の時をこの場所で過ごし、貴様ら人間の歴史というものをただ静かに観測し続けてきた。……そして、一つの絶対的な真理へと到達したのだ』


 魔王の言葉一つ一つが、途方もない物理的なプレッシャーとなって僕たちの肩にのしかかる。

 黒曜石の床が、その声の低周波に共鳴してビリビリと震え、微細な亀裂を走らせているのが分かった。


「対象の音声発信による精神干渉波を検知。心理的バイタルに著しい低下の兆候。マスター、光太郎、聴覚神経へのプロテクトを推奨する」


 黒田さんが、自身の巨体で僕たちへの魔力圧を相殺しながら、機械的な警告を発する。しかし、その黒田さんの漆黒の装甲すらも、魔王の言葉の圧力によってミシミシと軋み音を立てていた。


「う、うぅ……っ。なんて重たくて、暗い声なの……。聞いてるだけで、生きているのが面倒くさくなってきちゃうわ……」


 翡翠さんも、賢者の杖を杖代わりにして辛うじて立っている状態だった。彼女のエメラルドグリーンのローブの胸元が、激しい息継ぎに合わせて苦しげに上下している。ポニーテールに結ばれた艶やかな黒髪が、魔力圧の突風に煽られて乱れていた。


 魔王の言葉は、ただの音声ではない。

 その声には、生物の生存本能を根底から否定し、心を強制的にへし折る『絶望の呪い』が込められていたのだ。


『人間とは、何と醜く、不完全な生き物であることか』


 魔王の独白は、ファンタジー世界における絶対悪としてのテンプレートを完璧になぞるように、深く、重々しく紡がれていく。


『自らの欲望を満たすためだけに他者を蹴落とし、些細な利権のために同族同士で血で血を洗う争いを繰り返す。愛だの、絆だの、希望だのといった耳障りの良い空想の言葉で己の醜悪さを飾り立てながら、その実、本性にあるのは際限のない強欲と、他者への裏切りだけではないか』


 魔王の赤い瞳が、虚空を睨みつける。

 その眼差しには、純粋な悪意というよりも、途方もない年月をかけて蓄積された、世界そのものに対する『強烈な失望』が渦巻いていた。


『我は見た。……親が子を売り飛ばし、友が友の背中を刺し、民が王の首をはねる愚行の歴史を。我は聞いた。……欲望に狂った人間どもが、神聖なる森を焼き払い、精霊の声を金貨に変え、この星の命を食い潰していく悍ましい咀嚼音を』


 玉座の周囲を取り巻く赤黒い瘴気が、魔王の感情の昂りに呼応するように激しく渦を巻く。

 上空で展開され続ける『終焉の魔法陣』の回転速度がさらに上がり、空全体が血の池のような毒々しい赤色に染まりきっていく。


『貴様ら人間という種は、この美しき世界に寄生する病魔に等しい。放置すればいずれ世界そのものを腐らせ、死に至らしめる。……ならば、すべてを一度白紙に戻さねばなるまい。この世界に満ちた醜悪なる情動を、裏切りを、欲望を、すべて等しく無へと帰す。それが、この星に対する唯一の救済であり、絶対者の慈悲である』


「ふざ……けるな……」


 僕は、床に手をついたまま、ギリッと奥歯を噛み締めて呟いた。

 人間の醜さ。争いの歴史。裏切り。

 確かに、魔王の言うことはある意味で事実かもしれない。人間の歴史は決して綺麗なものだけではない。だが、だからといって、世界をすべて滅ぼしていい理由になどなるはずがない。


 しかし、僕のそのささやかな反抗の言葉は、魔王の放つ絶望のプレッシャーの前に、誰の耳にも届くことなくかき消されてしまった。


『勇者とやらよ。貴様のその安っぽい正義感と、オモチャのような剣で、我が絶望の歴史を断ち切れるとでも思ったか?』


 魔王の赤い視線が、床に這いつくばる僕を正確に射抜いた。


『貴様のその震える手は、何を護るためにある? 貴様の背後で震える人間どもは、本当に貴様が命を懸けて護るに足る価値があるのか? ……否だ。いざとなれば、彼らもまた貴様を裏切り、貴様をスケープゴートにして逃げ延びる。それが人間の本性というものだ』


「ち、違う……っ! 僕の仲間は……そんなことしない……!」


『虚しい強がりだ。……もうよい。貴様らの醜い足掻きを見るのは終わりにしよう。この『終焉の魔法陣』が完成するまで、あと数分。その間、己の無力さと、これまでの罪深き歴史を噛み締めながら、等しく訪れる『絶対的な無』を待つがよい』


 魔王はそう言い捨てると、再び沈黙し、天に掲げた右腕から莫大な魔力を上空へと注ぎ込み始めた。

 もはや、僕たちに反撃の余地は残されていない。

 魔王の展開する絶対防御の障壁を破る手段はなく、上空の極大魔法を止める手立てもない。

 僕たちは、ただ世界が終わるその瞬間を、指をくわえて待つことしかできないのだ。


 圧倒的な無力感と、魔王の言葉によって植え付けられた絶望感が、僕の心を真っ黒に染め上げていく。


(本当に……これで終わりなのか? 僕たちの冒険は、こんな絶望の底で、何もできないまま……)


 僕が完全に心をへし折られ、俯きかけた、その時だった。


「ふむ……」


 僕のすぐ真横。

 この玉座の間に満ちる、一切の生命を否定するような圧倒的な絶望のプレッシャーと、世界を終わらせんとする極大魔法の轟音。その混沌のド真ん中で。

 どこまでも静かで、どこまでも平坦な。そして、この狂気の空間にはあまりにも不釣り合いなほどに『知的好奇心』に満ちた、極めて冷徹な声が響いた。


「サクタロウ。先ほどから何をごちゃごちゃと床に突っ伏して独り言を呟いておる。お主のその無駄な感傷と絶望のフェロモンは、観測の著しい妨げになる。少し静かにしておれ」


 僕が弾かれたように横を見上げると。

 そこには、ミッドナイトブルーのコルセットドレスを身に纏い、一切の乱れがない完璧な姿勢の如月瑠璃が、世界を滅ぼす魔王を前にして一歩も引くことなく立ち尽くしていた。


 彼女の美しい白磁のような肌には、魔王の絶望の魔力圧による冷や汗一つ浮かんでいない。

 そして何より異常なのは、彼女のアメジストの瞳が、玉座で大演説をぶっていた『魔王そのもの』には、一瞥すらもくれていなかったことだ。


 彼女は、純白のオーダーメイド手袋に包まれた右手で、アンティークの銀のルーペを右目の前にピタリと構え。

 その首を痛くなるほど真っ直ぐに上へと向け、空一面を覆い尽くすように展開されている『終焉の魔法陣』を、極めて精緻に、そして舐め回すように観察し続けていたのである。


「き、如月さん……!?」


 僕は、信じられないものを見る目で彼女を見上げた。


「静かにしろと言っておるじゃろうが。今、非常に興味深い力学的な矛盾点を発見したところなのじゃ」


 如月さんは、僕の制止を完全に環境音として処理し、ルーペの角度を微調整しながら上空の魔法陣を凝視し続けている。


「……なるほど。あの魔法陣の外郭を形成している円環の構造。一見すると無作為に配置されたルーン文字の羅列に見えるが、各文字の頂点を結ぶ魔力線のベクトルを数式に変換すると、見事なまでの『フラクタル構造』を描いておるな」


 彼女の口から飛び出したのは、魔王に対する恐怖でも、世界が終わる絶望でもなく。

 ただの極めて高度な幾何学と、物理数学の分析だった。


「フラクタル……? な、何言ってるんですか! 今、魔王が世界を滅ぼすって……人間の醜さがどうとかって、あんなに長々と……!」


 僕が必死に状況を説明しようとするが、如月さんは鼻で短く笑ってそれを切り捨てた。


「あのような、三流の劇作家が書いたような薄っぺらい『ラスボスの絶望の独白テンプレート』など、一文字たりとも鼓膜を震わせる価値はない。人間の歴史が愚かであることなど、わざわざ数千年も玉座に座って観察せずとも、図書館で小一時間も歴史書をひも解けば分かることじゃ。そんな自明の理を、さも自分だけが世界の真理に到達したかのように大声で語るなど、知性の欠如を自ら吹聴しているようなものじゃよ」


 如月瑠璃は、先ほどから魔王が滔々と語っていた世界に対する絶望と怒りの演説を、完全に『中二病の痛い長話』として認識し、最初から最後まで一切話を聞かずにシャットアウトしていたのだ。


「そんな中身のない環境音よりも、遥かに観測の価値があるのが、あの空の魔法陣じゃ」


 彼女は、ルーペ越しに上空の赤黒い幾何学模様を見つめながら、その知的な探求心を満たしていく。


「よいか、サクタロウ。あの魔法陣の中心から放射状に伸びる五十二本の魔力線。あれは単なるデザインではない。空間の魔力濃度を特定の座標に収束させ、臨界点に達した瞬間にエネルギーを解放するための、極めて緻密な『エネルギー充填の回路図』じゃ。……しかし、その回路の描き方に、極めて人間臭い、そして致命的な『矛盾』が存在しておるのじゃよ」


「む、矛盾……? この期に及んで、また設計ミスですか!?」


「いかにも」


 如月さんは深呼吸をし、ルーペを降ろして僕を見下ろした。

 そのアメジストの瞳の奥には、世界を滅ぼすという魔王の行為のルーツに隠された、あまりにも人間的で、そして哀しいほどの『情動の破綻』を完全に見透かした、絶対的な鑑定士の光が宿っていた。


「あの引きこもりの魔王は、『すべてを無に帰す』などと大層なことを抜かしておったが。……あの魔法陣の幾何学的な構造式は、その言葉とは完全に相反する『情動』によって描かれておる。サクタロウ、お主もすぐに分かるはずじゃ。あの極大魔法に隠された、魔王の真の未練のルーツがな」


 絶望のどん底に叩き落とされた勇者と。

 世界を滅ぼす魔法陣を、ルーペ片手に楽しげに観察する令嬢。


 魔王城の最上階、玉座の間において。

 あまりにもシュールで、そして絶対的にブレることのない如月瑠璃のフォーマットが、魔王の作り出した完全なる絶望の空気を、根底から粉砕し始めていた。



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