第4話『冒険』(後編) ~section 6:終焉の魔法陣と、無力な勇者~
不死の暗黒騎士が光の粒子となって浄化され、かつての大理石の神殿であった頃の静寂を取り戻した黒曜石の回廊。
その最奥にそびえ立つのは、天井まで届こうかという極めて巨大な、そして悍ましい彫刻が施された両開きの扉だった。扉の隙間からは、まるで生き物の脈動のように、赤黒く不吉な光がドクドクと漏れ出している。
いよいよだ。
この扉の向こうに、世界を滅ぼさんとする絶対悪、魔王が待ち受けている。
僕は、一度大きく深呼吸をし、重たいプラチナのガントレットで自身の頬を強く叩いた。ガシャン、という硬質な金属音が回廊に響き、強烈な痛みが僕の脳内にこびりついていた恐怖のノイズをわずかに散らしてくれた。
「対象の居室への最終隔壁を確認。これより突入し、目標を完全に物理的排除する」
黒田さんが、一切の感情を交えない機械的な音声と共に、残された予備の武器である短めの戦鎚を構え、その強靭な両腕を巨大な扉にかけた。
ギゴゴゴゴゴゴッ!!
黒田さんの漆黒のフルプレートアーマーの駆動系が限界まで唸りを上げ、数百年、あるいは数千年の間閉ざされていたであろう重厚な扉が、鼓膜を破らんばかりの摩擦音を立てて左右にこじ開けられていく。
開け放たれた扉の向こう側から、暴力的なまでの突風が吹き付けてきた。
それはもはや瘴気というレベルではない。空気そのものが『絶望』という物理的な質量を持って、僕たちの全身を押し潰そうと殺到してきたのだ。
「うわぁっ!」
僕はあまりの風圧とプレッシャーに耐えきれず、顔を腕で庇いながら後ずさった。
突風が収まり、恐る恐る視界を開いた僕の目に飛び込んできたのは、言葉を失うほどに圧倒的な、そして狂気に満ちた空間だった。
そこは、魔王城の最上階に位置する、広大な円形の玉座の間だった。
しかし、部屋を覆うはずの天井は存在しない。巨大なすり鉢状になった黒曜石の壁面は遥か上空で途切れており、そこからは、分厚い暗雲が渦巻く地下空間の『空』が丸見えになっていた。
床には、如月さんが先ほど指摘したフィボナッチ数列を描く螺旋状のタイルが敷き詰められているが、その中心……螺旋が最も収束する最奥の一段高くなった祭壇の上に、それは鎮座していた。
「あれが……魔王……!」
僕は、ガチガチと震える歯の根を必死に噛み締めながら、その存在を網膜に焼き付けた。
祭壇の上に置かれた、無数の鋭いガラスの棘を組み合わせたような、悪趣味で巨大な黒曜石の玉座。
そこに腰を下ろしているのは、人間の形を模してはいるものの、ゆうに三メートルは超えるであろう、圧倒的な巨体を持つ異形の存在だった。
漆黒のローブを身に纏い、その背中からは光すらも吸い込むような漆黒の翼が何枚も生え揃っている。顔は深く被ったフードに隠れて見えないが、その奥からは、暗黒騎士すらも凌駕する、星が死ぬ間際のような強烈で冷たい赤い光が二つ、僕たちを虫ケラのように見下ろしていた。
魔王は、ただそこに座っているだけであった。
立ち上がることもなく、僕たち侵入者に向けて威嚇の言葉を発することもない。
ただ、その存在そのものが、この世界の物理法則を歪め、空間をミシミシと軋ませている。玉座の周囲の空気が、あまりの高密度の魔力によって陽炎のようにグニャグニャと歪み、光の屈折率を狂わせているのだ。
「サクタロウ。何を呆けておる」
僕の背後から、如月さんの氷のように冷たい、しかし一切のブレがない声が響いた。
彼女は、大きく開かれたミッドナイトブルーのコルセットドレスの裾を優雅に翻し、この致死的な絶望の空間の中にあっても、まるで自室の図書室を歩くような洗練された足取りで僕の横へと並び立った。
純白の手袋に包まれた右手には、すでにアンティークの銀のルーペが握られている。
「現象のスケールに圧倒され、大脳皮質の処理能力を停止させるのは凡人の悪癖じゃ。対象がどれほど巨大であろうと、放つエネルギーがどれほど莫大であろうと、それがこの空間の三次元座標に存在する以上、必ず物理法則と力学の支配を受ける。……恐れる要素など、この宇宙のどこにも存在せん」
彼女のその言葉は、いかなる強力なバフ魔法よりも僕の心に勇気を与えてくれた。
そうだ。僕には、無敵の黒田さんがいる。規格外の魔法使いである翡翠さんがいる。そして何より、どんなファンタジーの理不尽も論理でへし折ってくれる、絶対的な鑑定士がついているのだ。
伝説の勇者として、僕がここで尻込みするわけにはいかない。
「行きますよ、二人とも! あの魔王を倒して、この狂った迷宮を終わらせるんだ!」
僕が腰の『伝説の聖剣』を引き抜き、高らかに宣言した、その時だった。
ゴォォォォォォォォォォォォォッ…………!!!!
突如として、玉座の間全体を激しい地震のような揺れが襲った。
立っていられないほどの振動に、僕は慌てて身を屈めて床に手をつく。
「な、なんだ!? 何が起きてるんだ!」
「光太郎くん、上を見て!」
翡翠さんが、余裕を完全に消し去った切羽詰まった声で、開かれた天井……天空を指差した。
僕が見上げた先の光景に、僕は自らの呼吸を完全に忘れた。
玉座に座る魔王が、ゆっくりと、その漆黒の右腕を天に向けて掲げていた。
それと同時に、魔王城の上空を覆っていた分厚い暗雲が、まるで巨大なミキサーにかけられたかのように猛烈な速度で渦を巻き始めたのだ。
暗雲の中心から、血のように赤黒い光が放射状に爆発し、空全体を毒々しい色に染め上げていく。
そして、その赤黒い空をキャンバスにするかのように、途方もないスケールの『魔法陣』が、凄まじい速度で展開され始めた。
複雑怪奇な幾何学模様と、見たこともない悍ましいルーン文字が、空一面にびっしりと描かれていく。その魔法陣の大きさは、魔王城を覆うどころか、この地下空間全体、いや、ひょっとすると世界そのものをすっぽりと包み込むほどの、常軌を逸した広がりを見せていた。
「対象の魔力出力、計測不能レベルまで急上昇! 空間の魔力濃度が限界値を突破。……マスター、これは局地的な攻撃魔法ではありません。世界そのものの環境座標を強制的に崩壊させる、概念破壊の術式です!」
黒田さんの機械音声に、初めて明確な『焦燥』のノイズが混じった。
「嘘でしょ……問答無用で、いきなり世界を滅ぼす気なの!?」
翡翠さんが賢者の杖を両手で構え、自身と僕たちを覆うように何重もの極厚の魔法障壁を展開する。しかし、上空の魔法陣から降り注ぐ圧倒的なプレッシャーの前に、その障壁すらもピキピキとガラスのような亀裂を走らせていた。
魔王の極大魔法。
空想の世界における絶対悪の、最終にして最大の攻撃。
『終焉の魔法陣』。
空に展開された魔法陣が、ゆっくりと、時計の針のように回転を始める。
ジリジリ、ジリジリと。
魔法陣が回転するたびに、僕の周囲の空間そのものが悲鳴を上げ始めた。黒曜石の床材が勝手にひび割れ、砕け散り、重力を失ったかのように空へと浮かび上がっていく。空気中の水分が一瞬で蒸発し、呼吸をするたびに喉が焼け焦げるような熱と痛みが走る。
このまま魔法陣が完全に起動すれば、この魔王城はおろか、外の世界のすべてが文字通り『崩壊』し、無へと還ってしまう。
魔王は、一切の言葉を発しない。
勇者との問答も、自らの野望を語ることもしない。ただ機械的に、極めて冷酷に、この世界を終わらせるための作業を無言で進めているだけだった。
「だ、駄目だ……このままじゃ、世界が……!」
圧倒的な質量の暴力。次元の違う絶望。
黒田さんは、上空から降り注ぐ致死的な魔力圧から如月さんを護るために、自らの巨体を盾にして完全に動けなくなっている。翡翠さんも、魔法障壁を維持するだけで精一杯で、攻撃に転じる魔力のリソースは完全に底を突いていた。
動けるのは、僕だけだ。
伝説の勇者のジョブを与えられ、魔力阻害の特性を持つとされるこの聖剣を握っている、僕だけが、あの魔王の術式を物理的に叩き斬り、止めることができる。
「僕が……僕がやるしかないんだ!」
僕は、自身の内側に湧き上がる極限の恐怖と生存本能を、勇者という架空の責任感で無理やりねじ伏せた。
重たいプラチナのフルプレートアーマーが、悲鳴を上げる筋肉にさらなる負荷をかける。しかし僕は、両足に全身の力を込め、砕け散る床を力強く蹴り上げた。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
僕は、玉座へ続く螺旋のタイルを駆け上がり、魔王へと向かって一直線に突進した。
上空から降り注ぐ魔力圧が、まるで見えない巨大な手のように僕の身体を押し潰そうとする。鎧の関節がギシギシと悲鳴を上げ、全身の血管が破裂しそうなほどの重力加速度を感じる。
それでも僕は、止まらなかった。
腰を低く落とし、空気抵抗を極限まで減らしながら、距離を詰める。
対象との距離、十メートル。五メートル。三メートル。
魔王は、突進してくる僕のことなど、まるで羽虫でも見るかのように完全に無視していた。
玉座に深く腰掛けたまま、天に掲げた右腕を一ミリも動かそうとしない。その圧倒的な強者の傲慢さが、逆に僕の心に一筋の怒りと勇気の炎を点火した。
「舐めるなあああああっ!!」
僕は、玉座の直前で思い切り床を踏み切り、巨大な魔王の胸元めがけて高く跳躍した。
そして、空中で身体を捻りながら、伝説の聖剣の柄を両手で握り締め、僕自身の持てる『全魔力』と、勇者としての運動エネルギーのすべてを刀身へと叩き込んだ。
聖剣の刀身が、かつてないほどの激しい青白い光を放ち、脈動する。
これならいける。どんな強固な防御だろうと、この一撃なら絶対に魔王の肉体に届く。
僕は、勝利を確信し、渾身の力で魔剣を魔王の身体へと振り下ろした。
ガキィィィィィィィィィィンッ!!!!!!
僕の両腕の骨が、手首から肩にかけて完全に粉砕されたかのような、絶望的な激痛と反動が走った。
「……え?」
空中で静止した僕の視界に映ったのは。
魔王の漆黒のローブに傷をつけるどころか。魔王の身体から数メートルも離れた空中で、僕の振り下ろした聖剣が、まるで目に見えない『極厚の鋼鉄の壁』に叩きつけられたかのように、完全に動きを止められている光景だった。
火花一つ散らない。
魔力阻害の特性すらも、まるで意味を成さない。
魔王の周囲に展開されていたのは、ゴーレムや暗黒騎士の比ではない、次元を隔絶した『絶対的な魔力障壁』。
それは、僕の全力を込めた一撃を受けて、波紋の一つすらも浮かべることのない、あまりにも理不尽で完璧な防御層だった。勇者の剣の切先は、魔王の薄皮一枚、ローブの糸一本にすら届いていなかったのだ。
「あ、ぁ……っ」
僕が絶望の声を漏らした、その直後。
魔力障壁から、僕の運動エネルギーの数十倍に増幅された強烈な『反発力』が、無慈悲に跳ね返ってきた。
ドゴォォォォォォンッ!!
「ぐわぁぁぁぁっ!?」
僕は、まるで巨大なトラックに正面衝突したかのような衝撃を受け、空中で無様に吹き飛ばされた。
重たいフルプレートアーマーごと、玉座の祭壇から下のホールへと叩き落とされ、黒曜石の床をボロ雑巾のように何度もバウンドしながら転がっていく。
ガシャアァァァンッ!と、けたたましい金属音を立てて、僕はようやく床に仰向けに倒れ伏した。
全身の骨が軋み、口の中に鉄の味が広がる。
肺の空気が完全に絞り出され、呼吸すらまともにできない。
霞む視界の中で、僕の手から離れた伝説の聖剣が、乾いた音を立てて遠くの床へと滑り落ちていくのが見えた。
「ゲホッ……ハァッ……あ、ああ……」
僕は、痛みに悶えながら、上半身だけをなんとか起こし、尻餅をついた姿勢で玉座を見上げた。
魔王は、依然として僕の方を見ようともしない。
僕の決死の特攻など、彼にとってはそよ風ほどの意味もなかったのだ。
魔王が天に掲げた右腕の先で、赤黒く染まった空を覆い尽くす『終焉の魔法陣』が、さらにその回転速度を上げている。空間の崩壊が加速し、黒曜石の柱が次々とひび割れ、崩れ落ちていく。
絶対的な力。絶対的な悪。
いかなる勇者の勇気も、伝説の武器も、努力も、奇跡も。すべてを無に帰す、純粋なまでの『絶望』。
「……無理だ」
僕の口から、掠れた声が漏れた。
勝てるわけがない。あんなもの、人間の力でどうにかなる次元の存在じゃない。
僕の心は完全にへし折られ、目の前で世界が滅びていく光景を、ただ無力に、床に座り込んだまま見上げることしかできなかった。




