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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『冒険』(後編) ~section 5:聖剣の輝きと、騎士の浄化~

 如月瑠璃のその静かで、しかし絶対的な確信に満ちた宣告は、触れるものすべてを腐食させる不死の暗黒騎士が支配する絶望の回廊において、ひどく場違いなほどに澄み切った響きを持っていた。


「対人護身剣……? 護身って、あの化け物がですか!?」


 僕は、尻餅をついたまま重たい勇者の鎧をガシャリと鳴らし、信じられないというように叫んだ。


 黒田さんの漆黒の大剣は、暗黒騎士の禍々しい魔剣と数度交錯しただけで、すでに刀身の八割がドロドロの赤錆となって腐り落ちている。翡翠さんの極大魔法すらも、触れた瞬間に黒い煙となって分解されてしまった。無機物である黒曜石の大理石の床すらも、あの魔剣の切先が触れるだけで、生命力のない灰色の砂へと変えられていくのだ。

 どこからどう見ても、一切の慈悲を持たない絶対的な破壊と死の化身である。それが『護身』のための剣術を使っているなど、到底信じられる話ではなかった。


「信じられぬなら、自らの目で観測して証明してみせるがよい」


 如月さんは、ミッドナイトブルーのコルセットドレスの裾をわずかに揺らし、僕の横を通り過ぎて、前線で構える黒田さんの背後へと優雅な足取りで進み出た。


「黒田。攻撃の手を完全に止めよ。そして、対象から三歩だけ距離を取って剣を下ろすのじゃ」


「……了解した。マスターの指示に従い、攻撃プロトコルを一時凍結する」


 黒田さんは、その命令がいかに戦場において自殺行為に等しいものであろうとも、一切の躊躇なく実行した。彼はボロボロに腐食した大剣をだらりと下げ、暗黒騎士の制空圏からわずかに後退し、完全に隙だらけの無防備な姿勢を晒した。


「ちょっ、何してるんですか黒田さん! 殺されますよ!」


 僕が悲鳴を上げた、次の瞬間だった。


 ズズッ。

 暗黒騎士は、黒田さんが後退したのに合わせて、重々しい足取りで一歩だけ前へ出た。

 しかし、それだけだった。

 完全に防御を解き、首を差し出しているも同然の黒田さんに対し、暗黒騎士は魔剣を振り下ろそうとはしなかった。兜のバイザーの奥で燃える赤い怨念の光は確かに僕たちを捉えているというのに、彼はまるで目に見えない境界線を守るかのように、ピタリとその場に立ち止まり、魔剣を腰の高さで静かに構え直したのである。


「な、なんで……? 今、完全に無防備だったのに……斬ってこない……?」


 僕は、予想外の展開に目を丸くした。


「それが、この騎士の身体に染み付いた『ルーツ』の証明じゃ」


 如月さんは、純白のオーダーメイド手袋に包まれた右手で、アンティークの銀のルーペを弄びながら冷徹に解説を続ける。


「よいか、サクタロウ。先ほども言ったが、殺戮を目的とする魔物であれば、相手が隙を見せた瞬間に本能に従って飛びかかり、最短距離で命を奪いにくるのが物理的必然じゃ。しかし、この騎士はそれをしない。なぜなら、彼の剣は『敵を殺すための剣』ではなく、自らの背後にあるものを『護るための剣』だからじゃ」


 彼女は、ルーペの先端で、暗黒騎士の背後……すなわち、赤黒い光が漏れ出している玉座の間へと続く巨大な扉を指し示した。


「彼の目的は、我々侵入者を皆殺しにすることではない。あの扉の向こう側へ、一歩たりとも敵を通さないこと。……ただその一点のみを絶対のプロトコルとして、自らの足場を固定する『待ちの剣術』を徹底しておるのじゃ。だからこそ、こちらが攻撃の意思を見せて間合いに入らない限り、彼から能動的に斬りかかってくることはない」


 その事実を突きつけられ、僕は言葉を失った。

 圧倒的な死のプレッシャーを放ちながらも、この暗黒騎士は、決して無差別に暴れ回る化け物などではなかったのだ。数百年もの間、ただ独りこの暗い回廊に立ち尽くし、誰かに命じられるまま、あるいは自らの強烈な意志によって、背後の扉を護り続けている。

 その忠誠心と技術の結晶が、この恐るべき対人護身剣の型なのだ。


「しかし、いかに技術が洗練されていようと、あの禍々しい魔剣から放たれる超腐食反応の触媒ガスは極めて厄介じゃ。物理的に接触すれば、黒田の装甲すらも数秒で砂へと変えられるじゃろう」


 如月さんは、ここで初めて自らの歩みを止め、大きく開かれた胸元を静かに上下させて深い深呼吸をした。

 そして、ドレスの隠しポケットへと右手を滑り込ませ、鈍い銀色の輝きを放つ、美しく精緻な装飾が施された【古い懐中時計】を取り出した。


 これから彼女が為すべきことは、単なる魔物の討伐ではない。

 この空間に満ちる絶望と、不死の暗黒騎士という存在そのものを構成している『情動のルーツ』を完全に解体し、真理を暴き出すための、神聖なる調律の儀式だった。


 カチャリ。

 純白の手袋の親指がリューズのボタンを押し込むと、澄んだ金属音と共に銀の蓋が弾かれるように開いた。彼女は、その懐中時計をそっと右耳のそばへと近づけ、深いアメジストの瞳を静かに閉じる。


 チク、タク、チク、タク、チク、タク……。


 腐食した石畳が崩れる音も、魔剣から滴る瘴気が空気を焼く音も、僕の荒い呼吸音も。

 如月瑠璃の鼓膜には、もはや一切の環境ノイズとして届いていない。

 彼女の脳内を満たしているのは、純粋な機械式のゼンマイと歯車が刻む、完璧で、精密で、一切の狂いのない『物理的な時間』の律動だけだった。

 恐怖、絶望、そして『呪い』という名の不確定要素。それらをすべて削ぎ落とし、ただ純粋な『論理と物理法則』のみを基準として思考のピントを極限まで合わせていく。


 十数秒の、永遠にも似た絶対的な静寂。


――カチリ。


 彼女の懐中時計から、思考の歯車が完全に噛み合ったことを知らせる、鋭い破裂音が漏れた。

 それと同時に、如月さんはパチリと両目を開いた。

 その瞳の奥には、不死の暗黒騎士が纏う絶望の瘴気すらも、単なる化学式の羅列として見透かすような、絶対的な『知の光』が宿っていた。


「サクタロウ。空間に蔓延していた不要なノイズは排除した。これより、あの騎士が数百年間背負い続けてきた『呪い』という名の未練を、物理的に完全に解体する」


 如月さんは懐中時計の蓋を閉じ、再びドレスのポケットへと収めると、一切の躊躇なく、暗黒騎士の制空圏内へと優雅な足取りで足を踏み入れた。


「き、如月さん!? 駄目です、近づいたら!」


 僕の制止の声も届かない。


 ズンッ……!

 領域に侵入されたと判断した暗黒騎士が、兜の奥の赤い光を激しく明滅させ、その祸々しい魔剣を静かに、しかし恐るべき速度で上段へと振り上げた。

 剣から立ち上る黒い瘴気が、如月さんの美しい白磁の肌を容赦なく蝕もうと襲いかかる。


 しかし、如月さんは全く動じることなく、右手に持ったアンティークの銀のルーペを、振り下ろされようとしている魔剣の『刃の根本』へと真っ直ぐに向けた。


「愚鈍な。自分の手元すら見えておらんのか」


 彼女の澄み切った声が、死の回廊に凛と響き渡る。

 暗黒騎士の動きが、ほんのわずかに、ミクロン単位で硬直した。


「よく見るのじゃ、サクタロウ。あの禍々しい剣の刀身……刃の根本の、あのドス黒い瘴気がわずかに薄れ、腐食が及んでいない数センチの領域を」


 言われて、僕は目を凝らした。

 確かに、ノコギリのように刃こぼれし、泥とヘドロのような瘴気にまみれた刀身の中で。柄と刃が接合する鍔元の部分にだけ、ほんのわずかながら、汚れを弾き返すような『白銀の輝き』が残されているのが見えた。


「そして、その(つば)の装飾部分に、極めて精緻な彫金が施されておるのが視えるか? ……二つの交差する聖樹の枝と、中央に配置された盾。これは、かつてこの場所が純白の大理石の神殿であった時代に、その聖地を護る者だけに与えられた『守護紋章』じゃ」


 如月さんは、恐るべき腐食の剣を眼前に突きつけられながらも、一歩も引くことなく、その歴史の矛盾を真っ向から突きつけた。


「その剣は元々、触れるものを腐らせる呪いの武具などではない。弱き民を守り、神聖なる場所を不浄から遠ざけるために、最高の職人によって鍛え上げられた『純銀の聖剣』じゃ」


「純銀の……聖剣……!?」


 僕が驚愕の声を上げると、如月さんはルーペを構えたまま、冷徹な物理的解説を紡ぎ出した。


「銀という金属は、極めて高い抗菌作用と、邪気を払う浄化の力を持つと古来より信じられてきた。しかし、同時に銀は、大気中の硫黄分や硫化水素と極めて容易に化合し、黒ずんでいくという化学的性質を持っている」


 彼女は、暗黒騎士の兜の奥で燃える赤い瞳を、真っ向から見据えた。


「この迷宮は、火山性の硫黄ガスが充満する劣悪な環境じゃ。そして何より……この剣を握りしめ続けたお主自身の掌から滲み出た、絶望という名の冷や汗と、流した血と、そして決して拭うことのできなかった極限の涙。それら生物学的な水分と塩分が強力な電解質となり、数百年間という途方もない時間と圧力の中で、純銀の刀身に致命的な電気化学反応を引き起こし続けたのじゃ」


 如月瑠璃の『情動の視座』が、化学反応のルーツの奥底にある、騎士の魂の慟哭を完全に紐解いていく。


「お主は、この大理石の神殿を護る高潔な騎士であった。しかし、魔王という圧倒的な暴力の前に、神殿は蹂躙され、お主が護るべきであった民や巫女たちは無惨に殺されたのじゃろう。お主は最後の一人になるまでこの回廊に立ち塞がり、戦い続けた。……だが、結局何も護ることはできなかった」


 彼女の声には、同情はない。しかし、一切の誤魔化しのない、絶対的な真理だけが込められていた。


「持ち主が守るべきものを守れず、自らの不甲斐なさを呪い、度重なる絶望と後悔をその純銀の剣に吸わせ続けた結果。硫化現象は限界を突破し、剣そのものが極めて強酸性の腐食ガスを放つ触媒へと化学的に反転してしまった。……お主の剣が触れるものを腐らせるのは、魔王にかけられた呪いではない。お主自身の『なぜ護れなかったのか』という極限の悲しみと自責の念が、物理的な呪いとなって外界を破壊しているに過ぎんのじゃよ」


「……ァ……」


 暗黒騎士の兜の奥から、初めて、くぐもったような、かすれた音声が漏れた。

 振り上げられていた禍々しい魔剣が、まるで自らの重さに耐えきれなくなったかのように、ピタリと空中で静止している。


「お主は、死してなお、護れなかったこの場所を護り続けようとしている。この美しい神殿が、魔王の趣味の悪い黒曜石の城に改悪されてしまったことにも気づかずにな」


 如月さんは、純白の手袋で、暗黒騎士の分厚い胸当てを真っ直ぐに指差した。


「己のルーツを思い出すのじゃ。お主の剣は、弱き者を恐怖に陥れるためのものではなかったはずじゃ。自らの絶望に溺れ、周囲を腐らせるだけの迷惑なアンデッドに成り下がるなど、かつての高潔な騎士の誇りが許すのか」


 その言葉は、いかなる極大魔法よりも深く、いかなる物理的打撃よりも重く、暗黒騎士の核を正確に撃ち抜いた。


「……ォ……ォォォォ…………ッ」


 暗黒騎士の全身が、激しく痙攣した。

 彼の手から力が抜け、禍々しい魔剣がカラン、と乾いた音を立てて黒曜石の床に滑り落ちる。

 床に落ちた魔剣は、もはや腐食の瘴気を撒き散らすことはなかった。刀身を覆っていたドス黒いヘドロのような錆が、まるで乾燥した泥が剥がれ落ちるようにパラパラと崩れ去り、その内側から、本来の『純銀の聖剣』としてのまばゆい輝きが、数百年の時を超えて姿を現したのだ。


「呪いの触媒反応が停止したな。……極限の悲しみという感情のエラーコードが、論理的解明によってデバッグされた結果じゃ」


 如月さんは、ルーペを懐にしまい、その光景をただ淡々と観測し続ける。


 暗黒騎士の兜の奥で燃えていた、底なしの憎悪と絶望の赤い光が。

 徐々にその色を薄れさせ、やがて、透き通るような美しい青い光へと変わっていった。


 彼を覆っていた赤黒い錆と汚泥の甲冑が、風に吹かれた灰のようにサラサラと崩れ去っていく。

 その下から現れたのは、腐敗した死体の化け物などではなく。かつてこの大理石の神殿を護っていたであろう、白銀の美しい鎧に身を包んだ、気高く、そしてどこか悲しげな『高潔な人間の騎士』の幻影だった。


 青い光の瞳を取り戻した騎士は、自らの両手を見つめ、そして足元に転がる純銀の聖剣を見下ろした。

 彼にはもう、触れるものを腐らせる呪いの力はない。

 自らが護るべきであった神殿がすでに失われていたこと、そして自らが永い悪夢の中で、ただ無意味に剣を振るい続けていたことを、完全に理解したのだろう。


 騎士は、如月瑠璃に向かって、そしてその後方で呆然と立ち尽くす僕たちに向かって。

 ゆっくりと、深く、その場で片膝をつき、右手を胸に当てるという、最上級の騎士の礼をとった。

 それは、自らの呪縛を解き放ってくれた知の探求者に対する、言葉なき深い感謝の表明だった。


「……もうよい。お主の長きにわたる不毛な護衛任務は、わしが物理的に終了を証明してやった。お主が護るべきものは、もうここにはない。とっととこの空間の塵となって、物理法則の循環へと還るのじゃ」


 如月さんの言葉は、相変わらず冷たく、一切の感傷を含んでいなかった。

 彼女は騎士の感謝に共感し、共に涙を流すようなことは絶対にしない。しかし、彼女が対象のルーツを一切の誤魔化しなく暴き出し、真理を突きつけたことによって生じた『副産物』が、確かにこの悲しき騎士の魂に完全なる救済をもたらしたのだ。


 騎士の幻影は、最後に一度だけ深く首を垂れると。

 足元から純白の光の粒子となって分解され、暗く淀んでいた魔王城の回廊の空気を浄化するように、天高くへと昇って消えていった。

 後に残されたのは、かつての輝きを取り戻した一本の純銀の聖剣と、一切の瘴気が払われた、ただ静寂だけが支配する黒曜石の回廊だけだった。


「ふむ。材質の化学的変異と、情動のバグによる自己破壊衝動。……ファンタジーの呪いとやらも、因果関係を解き明かせば、実に単純で退屈な物理現象の連鎖に過ぎんようじゃな」


 如月瑠璃は、純白の手袋についた目に見えない埃を軽く払うようにし、大きく開かれたドレスの裾を翻した。


 僕は、伝説の勇者の重たい鎧の中で、ただただ彼女のそのブレない横顔を見つめることしかできなかった。

 圧倒的な絶望を、魔法でも力でもなく、完璧なまでの『論理と観察』だけで粉砕し、救いへと変えてみせた彼女の姿は。

 この空想の産物で満ちた異世界において、誰よりも頼もしく、そして誰よりも絶対的な『真理の光』を放っていたのだった。



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