第4話『冒険』(後編) ~section 4:太刀筋の観察と、瘴気の成分~
魔王の玉座へと続く、果てしなく暗く、そして極めて息苦しい黒曜石の回廊。
その空間を埋め尽くしていた極めて濃厚な瘴気すらも、恐れをなして道を譲るような、圧倒的かつ絶対的な『死』の化身。
不死の暗黒騎士が、一切の感情を持たない亡霊のように無造作に引きずり歩く、その禍々しい魔剣の切先は、触れたものを有機物・無機物問わず一瞬にして腐食させ、絶対的な硬度を誇るはずの大理石の床を、ただの生命力のない灰色の砂丘へと変えていく。
「あ、あぁ……ッ」
僕は、数十キログラムものプラチナの勇者の鎧を着込んだまま床に尻餅をつき、ガタガタと情けなく震える両手で、ズルズルと後ずさりすることしかできなかった。
腰に帯びた『伝説の聖剣』の柄を強く握りしめてはいるものの、それを鞘から引き抜く勇気は完全に枯渇していた。
物理攻撃も、魔法によるエネルギーも、すべて等しく『死滅』させる魔剣。あんなものと正面から打ち合えば、伝説の剣であろうが何だろうが、刀身ごと一瞬で腐り落ちて砂になってしまう。防御することも、攻撃に転じることも許されない。ただの一度でもあの剣に触れれば、僕のこの重たい鎧ごと、肉体も骨も内臓も、すべてが一瞬で腐乱し、砂に還るのだという生々しい恐怖が、僕の思考を真っ黒に塗り潰していた。
ズズッ……ズズズズッ……。
暗黒騎士は、兜のバイザーの奥でチロチロと燃える赤い怨念の光を僕たちに向け、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
彼が一歩踏み出すごとに、空間の温度が急激に低下し、僕の吐く息が真っ白に凍りついていく。
「光太郎くん、ここは私たちが!」
恐怖で完全に硬直した僕の視界を遮るように、深いエメラルドグリーンのローブが力強く翻った。
翡翠さんが、普段ののんびりとした雰囲気を完全に消し去り、研ぎ澄まされた戦士の顔つきで僕の前に飛び出したのだ。彼女は、先端に緑の宝玉が輝く賢者の杖を、迫り来る暗黒騎士に向かって水平に、そして力強く突き出した。
「聖なる拒絶!」
彼女の凛とした、しかし確かな魔力を帯びた詠唱と共に。
僕たちの目の前の空間に、幾重にも重なる幾何学的な光の六角形……極めて高密度の魔力によって構成された、半透明の緑色に輝く絶対防御の魔法障壁が瞬時に展開された。
それは、いかなる強大な物理的衝撃も、数千度の高熱の炎も弾き返す、翡翠さんの魔力の粋を集めた最強の盾だった。分厚い光の壁が、暗黒騎士から放たれる死の冷気を遮断し、僕の肌にわずかな温もりを取り戻させる。
しかし。
ギィィィィィィンッ……!!
暗黒騎士が、無造作に禍々しい魔剣を振り上げ、その光の障壁に向かって、まるで木の枝でも払うかのようにゆっくりと振り下ろした瞬間。
「う、嘘でしょ……!?」
翡翠さんの顔から血の気が引き、悲痛な声が漏れた。
魔剣の濁った刀身が、緑色に輝く魔法障壁に接触した、その一点。
光の盾が力負けして砕け散ったのではない。まるで純白のキャンバスに真っ黒なインクをこぼしたように、接触した部分からドス黒い『腐敗のシミ』が急速に広がっていったのだ。
光の六角形を構成していた強固な魔力の結合が、ジュワァァァァッ!という悍ましい音を立てて強制的に分解され、枯れ葉が燃え尽きるように茶褐色に変色し、黒い煙となって空中にボロボロと崩れ落ちていく。
魔法という概念的なエネルギー体すらも、この魔剣にとっては『腐らせるべき物質』に過ぎないのだ。
「……対象の異常な破壊特性を確認。魔法障壁の崩壊率、八十パーセント。戦術を『防御偏重の遅滞行動』へとシフトする」
光の盾が完全に腐り落ちるその直前、翡翠さんの背後から漆黒のサイボーグ戦士が飛び出した。
黒田さんは、先ほどのゴーレム戦で巨大な戦斧を失ったのか、背中に帯びていた予備の武器……身の丈ほどもある無骨な『漆黒の大剣』を引き抜いていた。
パリンッ、という乾いた音と共に、翡翠さんの魔法障壁が完全に腐食し、砂のように崩れ去る。
その突破の瞬間を狙い澄ましたかのように、暗黒騎士は恐るべき速度で間合いを詰め、黒田さんの首元を狙って禍々しい魔剣を真横になぎ払った。
まともに受ければ、黒田さんの大剣ごと、彼の強靭な装甲と首が一瞬で腐り落ちてしまう必殺の軌道。
しかし、黒田さんはその巨体に似合わぬ驚異的な動体視力と反射神経で、自らの大剣の刃を直接交えて『受け止める』という致命的な選択を回避した。
彼は瞬時に大剣の『腹の部分』を絶妙な角度で傾け、暗黒騎士の魔剣の軌道にそっと沿わせるようにして接触させ、自身の体の回転を利用して後方へと力を逃がしたのだ。
ガキィィッ……シュルルルルッ!!
正面衝突を避けた、極めて高度な『受け流し』。
黒田さんの超人的な剣術のテクニックにより、暗黒騎士の魔剣は滑るように軌道を逸らされ、回廊の壁を深く、そしてドロドロに腐食させながら空を切った。
「く……っ!」
だが、完全に無傷というわけにはいかない。
魔剣とほんのコンマ数秒接触しただけの、黒田さんの大剣の腹の部分。そこには、瞬時に赤黒い極度な酸化のシミが広がり、まるで強力な王水を浴びたように表面の鋼鉄がボロボロに崩れ落ち始めていた。
黒田さんはすぐさま大きく跳躍して距離を取り、次の斬撃に備えて大剣を構え直すが、その武器の刀身が完全に腐り落ちるのも、もはや時間の問題だった。
「だ、駄目だ……防戦一方じゃないか! 魔法の盾も通じない、武器で防げば腐る! どうすればいいんだよ……!」
僕は、尻餅をついたまま、震える手で聖剣の柄を握りしめ、ただ焦燥感に駆られて叫ぶことしかできなかった。
勇者として、僕が前に出なければならない。この聖剣の力なら、あるいはあの魔剣の呪いを打ち破れるかもしれない。しかし、頭では分かっていても、体が恐怖で一ミリも動かない。もし弾き返されたら? もし聖剣ごと僕の身体が砂になってしまったら?
圧倒的な理不尽を前にして、僕の思考は完全にショートし、ただ無力な自分を呪いながら、二人の頼もしい仲間が徐々に死地に追い詰められていくのを黙って見ていることしかできなかった。
そんな、絶望的で極限の死闘が繰り広げられている、まさにその数メートル後方で。
「ふむ……」
一切のノイズを遮断し、この凄惨な光景をまるで安全なガラス張りの観察室から眺めているかのような、極めて冷徹で、知的好奇心に満ちた声が響いた。
「サクタロウ、いつまで床に這いつくばって情けない音を立てておる。お主のその無駄な金属音と恐怖のフェロモンは、観測の著しい妨げになる。少し静かにしておれ」
僕がハッとして振り返ると。
そこには、ミッドナイトブルーのコルセットドレスを身に纏い、一切の乱れがない完璧な姿勢の如月瑠璃が、迫り来る不死の暗黒騎士を前にして一歩も引くことなく立ち尽くしていた。
彼女のアメジストの瞳には、死に対する恐怖も、仲間が追い詰められていることへの焦燥も、微塵も存在していない。
彼女は、純白のオーダーメイド手袋に包まれた右手で、アンティークの銀のルーペを右目の前にピタリと構え。
物理攻撃も魔法も無効化し、すべてを腐食させるその『絶対的な呪いの現象』を、極めて精緻に、そして舐め回すように観察し続けていたのである。
「き、如月さん!? 何悠長なこと言ってるんですか! 黒田さんの武器も翡翠さんの魔法も通用しないんですよ! このままじゃ、全員あの剣のせいで砂にされて……!」
「黙れと言っておるじゃろうが。現象の表層に踊らされてパニックを起こす暇があるなら、自分の目でしっかりと対象の物理的挙動を観測するのじゃ」
如月さんは、僕の悲鳴を冷酷に切り捨て、ルーペのレンズ越しに、暗黒騎士の持つ禍々しい『魔剣』へと焦点を合わせた。
「よいか、サクタロウ。あの魔剣が引き起こしている『触れたものを砂に変える』という現象は、決してオカルトめいた呪いなどではない。ルーペで拡大し、あの刀身から絶え間なく滴り落ちているドス黒い瘴気の『揮発速度』と、大理石の床に対する『浸透圧』の数値を計算してみよ」
「揮発速度……? 浸透圧……?」
僕は、戦場のド真ん中で飛び出した化学用語に、震える声でオウム返しにした。
「いかにも。あの剣の刀身は、常に極めて特異な化学構造を持った『超強酸性の触媒ガス』を分泌し続けておるのじゃ。その触媒が対象物に接触した瞬間、物質を構成する分子結合の間に極めて高い浸透圧で入り込み、原子レベルでの結合を強制的に引き剥がし、急速な酸化と風化現象を局所的に引き起こしている」
如月さんの脳内で、ファンタジーの呪いが、恐ろしい速度で化学反応の数式へと変換されていく。
「つまり、対象を腐らせているのは魔力や呪いなどではなく、極めて物理的・化学的な『超腐食反応』に過ぎん。翡翠の魔法障壁が破壊されたのも、魔力というエネルギーの結びつきを構成する粒子が、その触媒ガスとの化学反応によって別の無害な物質へと変質させられたからじゃ。……現象のルーツが『化学的な腐食』であると特定できた以上、そこには必ず中和、あるいは反応を遅延させるための物理的条件が存在するはずじゃ」
「か、化学反応……! でも、相手は生きた化け物ですよ! 剣の仕組みが分かったところで、どうやって倒すんですか!?」
黒田さんが再び暗黒騎士の斬撃を受け流すが、彼の漆黒の大剣はすでに半分以上がボロボロに腐り落ち、もはや武器としての体を成していなかった。
「対象の攻撃速度、上昇。我が装甲の腐食開始まで、推定残り三十秒……!」
黒田さんの切羽詰まった報告が、事態の深刻さを物語っている。
「焦るな。対象を解体するためには、武器の性質だけでなく、それを持っておる『個体』のルーツを完全に解明する必要がある」
如月さんは、魔剣から視線を移し、今度はそれを振るう『不死の暗黒騎士』そのものの全身の挙動へと、ルーペの焦点を合わせた。
「サクタロウ。お主は先ほどから、あの騎士を『化け物』や『アンデッド』と呼んでおるが。……わしの目から見れば、あれは魔王の生み出した無知性な怪物などでは断じてない」
「え……?」
僕は、思わず暗黒騎士の姿を凝視した。
赤黒い錆と腐敗した汚泥にまみれた、悍ましい漆黒の甲冑。兜の奥で燃える赤い怨念の光。どう見ても、人間を恨んで殺しにくるアンデッドの化け物にしか見えない。
しかし、如月さんの『物理的観察眼』は、その汚泥にまみれた外装のさらに奥、暗黒騎士の骨格と筋肉の動きが織りなす『力学的な真理』を正確に読み取っていた。
「黒田との攻防をよく観察してみよ。あの騎士は、触れるものすべてを腐らせるという圧倒的な能力を持っていながら、決して大振りな力任せの斬撃を放とうとはしておらん。黒田が大剣で受け流した際にも、剣が弾かれた反動に身体を預けることなく、瞬時に膝のクッションを使って衝撃を吸収し、自らの体幹をミリ単位で維持しておる」
言われてみれば、確かに暗黒騎士の動きには、魔物特有の『怒り狂って暴れ回る』ような荒々しさが全く欠けていた。
「さらに、あの足さばきじゃ。一歩踏み込む際、足の裏全体で床を叩くのではなく、常につま先から滑らすようにして重心を移動させ、いつでも後方へ下退できるだけのタメを前傾姿勢の中に残しておる。攻撃を仕掛ける際も、決して自らの肩のラインを不用意に前へ晒さず、急所である首や心臓を、常に魔剣の柄と左腕で庇うような極めて強固な防御姿勢を崩しておらん」
如月さんの澄み切った声が、戦闘の騒音を切り裂き、僕の鼓膜に絶対的な事実として届けられる。
「圧倒的な力を持つ魔物であれば、己の力に溺れ、防御を捨てて最短距離で対象を殺しにくるのが生物学的な本能じゃ。しかし、あの騎士の動きは違う。……自らの命を何よりも重く見据え、絶対に隙を作らず、相手の攻撃をいなしながら、最小限の動きで的確に対象の急所のみを狙いすましている」
彼女は、ルーペをそっと懐へと収め、薄暗い回廊の中で、その美しいアメジストの瞳を細めた。
「なるほど。あの太刀筋、そして緻密な重心移動の力学。殺意や本能に任せた魔物のそれでは断じてない。あれは、数十年、あるいは数百年という途方もない時間をかけて、人間の肉体と精神を極限まで鍛え上げ、技術を磨き抜いた末に辿り着いた……極めて洗練された『対人護身剣』の型じゃ」
如月さんは迫り来る絶望の化身を見据えながら、絶対的な確信を持ってそう宣告した。




