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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『冒険』(後編) ~section 3:暗黒騎士と、触れるものを腐らせる剣~

 かつて神聖なる純白の大理石で築かれた祈りの場であったという、その冒涜されたルーツ。

 如月瑠璃の情動の視座と物理的観察眼によって暴き出された、魔王城という狂気の空間に隠された悲しき歴史の真実を胸に秘めながら、僕たちは巨大なホールの奥、果てしなく続くように思える赤絨毯の道を真っ直ぐに進んでいった。


 魔王の玉座へと続く、文字通りの『最後の回廊』。

 一歩足を踏み出すごとに、空間を満たしている濃密な瘴気が、まるで水飴のような、あるいは目に見えない巨大な沼のような、極めて強烈な物理的粘度を持って僕の全身にまとわりついてくるのを感じた。

 プラチナの輝きを放つ『伝説の勇者のフルプレートアーマー』が、空気中の高濃度の瘴気成分と何らかの化学反応を起こしているのか、金属の表面から微かに、ジュウ……という嫌な音を立てて、白い酸化の煙を上げ始めている。


「……はぁっ……はぁっ……」


 僕は、重たい鉄のガントレットで自身の胸元を強く押さえながら、極端に浅く、そして荒くなる呼吸を必死に整えようとしていた。

 空気が、痛い。ただ肺に空気を吸い込んで吐き出すという、人間にとって最も無意識で自然な生命活動すらもが、ここでは恐ろしい苦痛を伴う。一呼吸するたびに、細かいガラス片とヤスリを混ぜ合わせたような冷たい泥が、気管支から肺の奥底へと無理やり流し込まれているような感覚に陥る。


 左右に立ち並ぶ巨大な黒曜石の柱は、如月さんの解説を聞くまでは美しい幾何学的な神殿の跡に見えていたはずなのに。今となっては、魔王の強大な力によって無理やり性質を変異させられ、漆黒のガラスに閉じ込められた大理石たちの、声なき悲鳴の墓標のように感じられた。

 壁面に等間隔に掲げられた鉄の燭台で燃える、紫色の不気味な魔力炎。それは僕たちが前進するたびに、まるで僕たちの生者の気配に怯えるかのように、あるいはより強大な『死』の気配に押し潰されるかのように、チロチロとその火足を弱め、やがてフッと音もなく完全に消え去っていく。


 光が、失われていく。

 僕たちが歩んできた背後の巨大なホールはすでに底なしの深い闇に飲まれ、振り返っても何も見えない。

 頼りになる光源は、前方を歩く翡翠さんの賢者の杖の先端で輝く、エメラルドの宝玉の冷たい光と。そして、この漆黒の回廊の最奥……すべてを支配する魔王が待ち受けるであろう『玉座の間』の巨大な扉の隙間から、まるで生き物の血のようにドクドクと漏れ出してくる、赤黒く不吉な光だけになっていた。


「対象の玉座の間まで、直線距離でおよそ百メートル。しかし……前方の空間座標に、極めて異質な質量の収束、および致死的な魔力密度の異常な高まりを検知。……マスター、これより先は真の『死地』です。私の背後から決して、一歩も離れないでください」


 これまで、いかなる魔物の群れや罠を前にしても、決して歩みを止めることのなかった漆黒のサイボーグ戦士。

 あの黒田さんが、ここで初めてピタリと足を止め、背中に背負っていた巨大な鉄骨のような戦斧を両手で構え直して、岩のように強固で、そして一切の隙を持たない完璧な防御姿勢をとった。

 彼の漆黒のヘルメットの奥で、敵を捕捉する赤いバイザーの光が、これまでにないほど鋭く、そして警告を促すように激しく点滅している。


「あらあら……」


 黒田さんのすぐ斜め後ろを歩いていた翡翠さんもまた、いつもの蠱惑的で余裕に満ちた微笑みをわずかに引き締め、緑の宝玉が輝く賢者の杖を体の正面にピタリと構え直した。


「なんだか、とっても冷たくて、底意地の悪い……生き物の存在そのものを否定するような、極めて不快な魔力を感じるわね。お姉さん、こういうネチネチした、陰湿なお葬式みたいな空気はあまり好きじゃないのだけれど」


 二人の規格外の仲間が、同時に警戒レベルを最大に引き上げた。

 その事実が、僕の脳の警告アラームを限界突破で鳴らし始める。彼らがここまで明確に『脅威』を口にするということは、この先に待ち受けているものは、先ほどの巨大な古代魔獣ゴーレムすらも赤子のように思えるほどの、圧倒的な絶望に違いない。


「な、何か……来るんですか……!?」


 僕が、震える手で腰の伝説の聖剣を鞘から半分ほど引き抜き、裏返った情けない声で尋ねた、まさにその時だった。


 ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥ…………。


 回廊の奥、赤黒い光が漏れ出す玉座の間の巨大な扉のさらに手前から。

 凍てつくような、そしてすべての生者の鼓膜を物理的に凍りつかせるような、ひどく不気味で、甲高い風切り音が吹き付けてきた。


「……ッ!!」


 僕は、思わず息を呑み、足の裏が黒曜石の床に完全に縫い付けられたかのように動けなくなった。


 赤黒い光を背にして。

 回廊の最奥に広がる、一切の光が届かない絶対的な暗闇の中から。

 まるで空間の影そのものが意志を持って立ち上がったかのように、『一つの影』が、音もなくゆっくりと分離するようにして姿を現したのだ。


 それは、人間の形をしていた。

 頭部があり、胴体があり、二本の腕と二本の足がある。しかし、それを人間と呼ぶにはあまりにも巨大で、あまりにも異質で、そしてあまりにも強烈な『死』の気配に満ち溢れていた。


 身長は、屈強な黒田さんすらも見上げるほどの、二メートルを優に超えているだろうか。

 その全身を覆い尽くしているのは、黒田さんのような機能的で洗練された鎧でもなければ、高位の騎士が身につけるような神聖な甲冑でもない。

 まるで、数百年もの間、数万の死体が転がる血の海と泥土の底に沈められていたかのように、全体が赤黒い猛烈な錆に覆われ、ドロドロに腐敗した汚泥と死臭にまみれた、悍ましくも禍々しい『漆黒の全身甲冑』だった。


 兜のバイザーの奥には、人間が持つべき眼球は存在しない。ただ、底なしの絶対的な虚無と、世界に対する底知れぬ憎悪だけを煮詰めたような、二つの赤い『怨念の光』だけが、チロチロと地獄の業火のように燃えている。

 そして何より僕の正気を削り取ったのは、その巨大な騎士の全身……錆びついた装甲の関節の隙間という隙間から、まるで止めどなく溢れ出る真っ黒なヘドロのように、どす黒い『瘴気』が、明確な物理的質量を持って絶え間なく噴き出し続けていることだった。


「アンデッド……いや、ただの死霊なんかじゃない……」


 僕のゲーマーとしての知識と、何よりも一人の生物としての生存本能が、目の前に現れた存在の絶望的なランクを正確に弾き出した。

 魔王城の最深部、玉座の間へ続く最後の回廊を守護する、最強にして最悪の番人。


「『不死の暗黒騎士』……魔王の側近……!」


 ゲームの知識など、もはやどうでもよかった。理屈ではない。本能が、全身の細胞が、あれに近づいてはならないと悲鳴を上げている。

 あれは、今までのように黒田さんの常識外れの物理的質量で粉砕できるような、あるいは翡翠さんの戦術兵器レベルの極大魔法で焼き尽くせるような、生半可な次元の存在ではない。

 存在そのものが『死と腐敗の概念』の塊であり、この空間に存在しているというただそれだけで、周囲の生命力を根こそぎ奪い取っていく、絶対的な絶望の化身なのだ。


「……」


 不死の暗黒騎士は、威嚇の咆哮を上げることも、僕たちに向けて言葉を発することもしなかった。

 ただ、怨念の炎が灯る兜の奥の虚無で、虫ケラを見るように僕たちを静かに見据え。


 ズズッ……。


 重たい、あまりにも重たい鉄屑を床に引きずるような、耳障りな足取りで、一歩、また一歩と前進してくる。

 彼が赤絨毯の上に足を踏み出すたびに、その足元から吹き出す濃密な瘴気によって、分厚い絨毯の布地が瞬時にドス黒く変色し、ジュウゥゥ……という肉が焼けるような音を立てて、瞬く間に溶け落ちていく。


 その圧倒的で静かなプレッシャーの前に、僕は伝説の聖剣を半分引き抜いた姿勢のまま、完全に金縛りにあったように動けなくなってしまった。

 腕の筋肉が痙攣し、心臓が早鐘のように鳴り響く。


「サクタロウ。先ほどからあれほど呼吸を整えろと言っているのに、お主は全く学習能力がないようじゃな。完全に情動のパニックに陥り、瞳孔が開いたまま固定されておるぞ」


 僕のすぐ横から、どこまでも静かで、どこまでも平坦な。

 この絶望の空間にはあまりにも不釣り合いな、極めて冷徹な声が響いた。

 ミッドナイトブルーのコルセットドレスを身に纏った如月瑠璃が、迫り来る暗黒騎士を前にして一歩も引くことなく、背筋をピンと伸ばして立ち尽くしている。彼女のアメジストの瞳には、死に対する恐怖も、暗黒騎士に対する絶望も、微塵も存在していない。


「対象との距離、二十メートル……十五メートル……。マスター、サクタロウ、下がっていろ。これより対象を物理的に完全破壊する!」


 黒田さんが、巨大な戦斧を振りかぶり、爆発的な脚力で床を蹴り砕いて、真っ向から暗黒騎士へと突進しようと重心を落とした、まさにその時だった。


 ピタリ、と。

 暗黒騎士が、前進する足取りを止めた。


 そして、腐敗した汚泥にまみれた右手を、ゆっくりと、恐ろしく滑らかな動作で、自身の腰に帯びていた『巨大な剣』の柄へと這わせたのだ。


「……ッ!!」


 回廊の空気が、完全に凍りついた。

 暗黒騎士が、その剣を鞘から抜き放つ。


 ギィィィィィィィィィィィィッ…………!!!!


 剣が抜かれた瞬間。

 黒曜石の回廊全体が、まるで断末魔の悲鳴を上げたかのような、ガラスを引っ掻くような耳障りな金属の摩擦音が響き渡った。

 それは、およそ人間が扱う武器と呼ぶには、あまりにも悍ましく、冒涜的な形状をしていた。


 大剣と呼ぶには細く、しかし長剣と呼ぶにはあまりにも分厚い、異形の刀身。

 元の金属が何であったのかすら判別できないほど、刀身全体が真っ黒に濁り切り、不規則に捻じ曲がり、まるでノコギリのように無数の不揃いな刃こぼれが連なっている。

 そして何より恐ろしいのは、その剣の表面から、騎士の身体から発せられているのと同じ、いや、それ以上に濃密で強烈な、ドス黒い『腐敗の瘴気』が、タールのように粘り気のある黒い霧となって止めどなく立ち上っていることだった。


「なんだ……あの剣……」


 僕が震える声で呟いた直後。

 暗黒騎士は、その禍々しい魔剣の切先を、まるで重さに耐えかねたかのように、ズルリ、と床の石畳に向けて無造作に下ろした。


 魔剣の切先が、黒曜石の床に、コツン、と触れる。


 その瞬間。

 僕の全身の毛穴が、限界を超えて全開になった。


 ジュワァァァァァァァァッ…………!!!!!


 魔剣の切先が触れた、その一点。

 分厚い赤絨毯が一瞬にして黒い灰となって消し飛んだだけでなく。

 その下に敷き詰められていた、あの絶対的な硬度を誇るはずの黒曜石の床材が。如月さんが先ほど『本来は極めて上質な純白の大理石だ』と物理的に証明してみせた、極めて強固で緻密なはずの石の結晶構造が。


 剣が触れた軌跡を中心に、まるで恐ろしい感染症が爆発的に広がるように、急速に血の気のない灰色へと変色し、ボロボロと音を立てて崩れ始めたのだ。


「嘘……だろ……」


 石が、腐る。

 有機物である人間や布だけでなく。強固な無機物である大理石の床さえも、あの魔剣が放つ呪いの力によって一瞬で分子結合を破壊され、生命力を持たないただの『灰色の砂』へと変えられていく。

 暗黒騎士が、その剣の切先を床に擦り付けたまま、再びゆっくりと一歩を踏み出すたびに。

 堅牢なはずの神殿の回廊が、魔剣の通った跡からサラサラと不気味な音を立てて、ただの砂丘のように崩壊していくのだ。


「触れるものすべてを……腐らせて、砂に変える剣……!」


 圧倒的な、そして完全なる絶望感が、僕の心を真っ黒に塗り潰した。

 勝てない。こんな化け物に、勝てるわけがない。

 伝説の聖剣だろうが何だろうが、あの剣と打ち合った瞬間に、刀身ごと腐り落ちて砂になってしまう。黒田さんの物理攻撃も、触れた瞬間に武器ごと腐食する。防御することも、攻撃に転じることも許されない。

 ただの一度でも、あの魔剣に、いや、あの剣から立ち上る瘴気に触れただけで、僕のこの重たい鎧ごと、肉体も骨も内臓も、すべてが一瞬で腐り落ちて砂に還ってしまうのだ。


 圧倒的な死の象徴を前に、僕は聖剣を引き抜くことも忘れ、ただ床にへたり込んだまま、絶望の淵へと突き落とされていた。



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