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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『冒険』(後編) ~section 2:神殿の痕跡と、変質した歴史~

 外壁の石の積み方から、この巨大な黒曜石の建造物が『防衛目的の要塞』ではなく、『祈りに向けた建築様式』であるという如月瑠璃の指摘。

 そのあまりにもファンタジーのロマンを破壊する言葉を背に受けながら、僕たちは黒田さんの圧倒的な腕力によって強引に押し開けられた漆黒の城門をくぐり、ついに魔王城の内部へと足を踏み入れた。


 ギギギギギギ……ッ!!

 鼓膜を破らんばかりの重低音を響かせ、数十メートルはある黒曜石の扉が、僕たちの背後でゆっくりと完全に閉ざされる。

 外界からのわずかな光すらも遮断され、退路が物理的に絶たれた。そして、密閉された巨大な空間に満ちていた空気が、行き場を失って僕たちの全身に重くのしかかってきた。


「ゲホッ、ゴホッ……! なんだこれ、外よりずっと空気が……ッ!」


 僕は、プラチナの輝きを放つ伝説の勇者のフルプレートアーマーの中で、思わず激しくむせ返った。

 鼻腔を容赦なく突き刺すのは、古い血と硫黄、そして何百年も密閉されていた地下墓地特有のカビの匂い。一呼吸するたびに、肺の奥底に冷たい泥水を流し込まれているかのような、強烈な圧迫感と生理的な嫌悪感が全身の神経を支配する。外の空気が『淀んでいる』レベルだとしたら、ここは純度百パーセントの『毒気』そのものだ。


 僕たちの目の前に広がっていたのは、外観の威容に全く引けを取らない、途方もなく巨大な地下ホールだった。

 天井の高さは優に五十メートルを超え、見上げれば首が痛くなるほどの空間が広がっている。ホールの左右には、屋根を支えるための巨大な黒曜石の円柱が何十本も等間隔に立ち並び、奥の玉座へと続く果てしない赤絨毯の道を荘厳に、そして威圧的に縁取っていた。


 壁面には等間隔に鉄の燭台が掲げられているが、そこで燃えているのは酸素を消費する通常の炎ではない。周囲の瘴気を燃料にしてチロチロと揺らめく、不気味な紫色の『魔力炎』だった。

 その頼りない、血の気の引くような光源が、壁にびっしりと彫り込まれた無数の悪魔や魔獣の悍ましいレリーフを奇怪な影絵として浮かび上がらせ、今にも壁から抜け出して僕の首を刈り取ろうと襲いかかってきそうな錯覚を抱かせる。


(……如月さんは、外の壁を見て『要塞じゃなく祈り向けの建築だ』って言ってたけど。どう見ても、内装は完全に魔王が住む地獄の城郭じゃないか……!)


 頭では彼女の論理的な指摘を理解していても、空間全体が放つ異常なまでの『死のプレッシャー』が、僕のゲーマーとしての本能と、生物としての恐怖中枢を容赦なく刺激してくる。

 いつ、この巨大な黒曜石の柱の影から、ゴーレムを凌駕するような悪魔の大軍が飛び出してくるか分からない。僕は、極度の緊張でカラカラに乾いた喉を鳴らし、無意識のうちに腰の『伝説の聖剣』の柄を、汗ばんだガントレット越しに力の限り握り直していた。


 そんな僕の情けない心中を見透かしたように、すぐ横を歩いていた小柄な影が、呆れ果てたような冷ややかなため息を落とした。


「先ほど外壁の前で指摘してやったというのに、お主はまた現象の表面的な禍々しさというノイズに思考を支配されておるのか。歩幅が極端に狭まり、武器を持つ手に無駄な力学テンションがかかっておるぞ。愚鈍なことじゃ」


 如月瑠璃は、この過酷なラストダンジョンには致命的に不釣り合いな衣装を身に纏いながら、一切の迷いがない洗練された足取りで歩を進めていた。

 この凍てつくような瘴気の中にあっても、彼女の美しい白磁のような肌には微かな冷や汗すら浮かんでいない。純白のオーダーメイド手袋は、これから対象を解剖せんとする外科医のように、一ミリの汚れもなく指先までピンと伸びている。


「む、無理言わないでくださいよ……! 外の石の積み方がどうであれ、この内装は完全に悪の要塞じゃないですか! こんな、紫色の火が燃えてて悪魔の彫刻がビッシリ彫られてる場所で、平常心でいられる方がおかしいんです!」


 僕は、ガチガチと震える歯の根を噛み締めながら小声で抗議した。

 しかし、彼女はそのアメジストの瞳に恐怖の欠片も浮かべることなく、僕の言葉を鼻で笑い飛ばした。


「視覚情報の表層しか捉えられぬ凡人め。壁のレリーフなど、後から不格好に彫り込まれた極めて粗悪なデコレーションに過ぎん。彫りの深さが不均一であり、石の劈開面(へきかいめん)を完全に無視して強引に削り取った物理的痕跡(スクラッチ)が散見される。……元の美しい壁面を、知性の低いチンピラがスプレーで落書きして汚したのと同レベルの、稚拙な改悪じゃよ」


 そう言い捨てると、如月さんは不意に足を止め、ホールの側面に並ぶ巨大な黒曜石の円柱の一つへと、スッと近づいていった。


「き、如月さん!? いきなり柱に近づいちゃ駄目ですよ! 絶対に何か凶悪なトラップが仕掛けられてるに決まってます!」


 僕は慌てて声を上げ、聖剣を構えながら彼女をかばおうとした。

 しかし、彼女はその制止を完全に無視し、純白の手袋に包まれた右手で、懐から精緻な銀細工が施された【アンティークのルーペ】を取り出した。

 そして、そのレンズを漆黒の円柱の表面……床から一・五メートルほどの高さにある、大きくえぐり取られたような『古い損傷痕』のギリギリまで寄せ、極限まで目を細めて観察し始めたのである。


「如月さん……一体何を視てるんですか? 柱の傷跡ですか? きっと昔、ここで初代勇者と魔王軍の激しい戦闘があって、その時に強力な魔法や武器がぶつかった跡なんじゃ……」


 僕が安直なファンタジー的推測を口にすると、如月さんはルーペから目を離すことなく、冷たく言い放った。


「戦闘の痕跡ではない。この大きくえぐれたような破壊痕は、刃物や打撃武器の物理的運動エネルギーによるものではなく、極めて高温の熱エネルギーと膨張圧によって、石の表面が内側から爆発的に弾け飛んだ『熱応力割れ』の痕跡じゃ。……しかし、わしが観測しているのはこの傷の原因そのものではない。この傷の奥深くに隠された、極めて矛盾に満ちた『異物』についてじゃ」


「異物……?」


 如月さんは、純白の手袋の指先を、黒曜石の柱に刻まれた深い傷の、さらに奥の微細な亀裂の中へと躊躇いなく差し込んだ。

 そして、何かを削り取るように指を数回動かした後、その指先を僕の目の前へと突き出した。


「サクタロウ。お主のその節穴の目で、これを見てみよ。この黒曜石の亀裂の奥底から削り出した粉末の成分が、一体何に見えるか」


 薄暗い紫色の魔力炎の光に照らされた、彼女の純白の指先。

 そこに付着していたのは、黒曜石の欠片である漆黒のガラス質の粉末ではなかった。

 それは、まるで真冬の新雪のように真っ白で、微細な結晶の輝きを持つ『白い粉末』だったのだ。


「……え? 白い粉? なんで真っ黒な石の柱の奥から、そんな白い粉が出てくるんですか? カビの一種ですか?」


「カビなどという有機物ではない。これは純度九十九パーセント以上の炭酸カルシウム……すなわち、極めて上質な『大理石(マーブル)』の粉末じゃよ」


「だ、大理石!? でも、この城は全部黒曜石でできてるんですよね!?」


 僕が驚きの声を上げると、如月さんは満足げに一つ頷き、指先についた白い粉末を親指と人差し指で擦り合わせた。


「その通りじゃ。黒曜石は二酸化ケイ素を主成分とし、マグマが急激に冷却されることで形成される火山岩ガラスじゃ。対して、大理石は石灰岩が地下深くで熱と圧力の変成作用を受けて形成される、炭酸カルシウムの結晶体じゃ。形成される地質学的プロセスも、化学組成も全く異なる。この二つの鉱物が、自然界においてこのように完全に融合し、層を成した状態で産出されることは、地球科学および物理法則上、絶対にあり得んのじゃ」


 如月さんは、ルーペを再び柱の深い傷跡へと向けた。


「この傷の断面をミクロン単位で拡大して視れば一目瞭然じゃ。表面を厚く覆っている漆黒の黒曜石の層の奥深くに、本来の柱の『芯材』である純白の大理石の層が、完全に手付かずの状態で保存されておる。……つまり、この柱は最初から黒曜石で作られたものではない。元々は純白の大理石で美しく彫り上げられた柱が、後から何らかの強大な外的要因によって、表面の性質だけを黒曜石へと『変質させられた』のじゃ」


「変質させられた……!? 石の性質を丸ごと変えるなんて、そんなこと可能なんでしょうか?」


「お主らが魔法と呼んでいる、空間の物理法則を強制的に書き換える力を用いればな」


 如月さんは、冷酷な真理を告げるように言った。


「おそらく、想像を絶するほどの超高温の熱量と、莫大な魔力による圧力の放射。それらがこの純白の大理石の建造物を丸ごと包み込み、石の表面の分子構造を一瞬にして融解・再結晶化させ、黒曜石というガラス質の装甲へと強制的に変異させたのじゃ。……これで、外観の入り口にあった城壁の設計が、要塞建築として『狂っていた』理由も完全に合致した」


「外の壁……あ、脆い石をわざわざ衝撃に弱い積み方をしてるって言ってましたね」


「いかにも。あれは最初から防御のための強固な城壁として積まれたものではない。元々は美観と採光を極限まで重視して組み上げられた大理石の壁であったものが、後から乱暴な魔力によって黒曜石へと変質させられ、さらに魔王としての威圧感を出すために、後付けで禍々しい尖塔や血を流すレリーフを無理やり増築(デコレーション)したに過ぎんのじゃよ」


 如月さんは、ルーペを懐にしまい、大きく開かれたドレスの胸元を張り、ホールの広大な空間全体を改めて見渡した。


「材質の物理的矛盾は完全に証明された。次は、この空間が元々『何のための施設』であったかという、空間幾何学の証明じゃ。……サクタロウ、あの左右に立ち並ぶ柱の列をよく見てみよ」


 僕は言われた通り、ホールの奥の玉座へと続く、巨大な柱の列に視線を向けた。


「この柱の配置間隔と、ホールの横幅、そして天井のアーチの高さの比率。お主には、ただ無駄に広い悪趣味な空間にしか見えんじゃろうが、わしの目には完璧な数学的調和を伴った『数式』として視えておる」


 如月さんは、純白の手袋の指先で空中に見えない直線を引くようにしながら、流れるように、そして圧倒的な自信を持って解説を始めた。


「柱の中心から次の柱の中心までの距離を『1』とした場合、ホールの横幅は『1.618』。そして、床から天井のアーチの頂点までの高さの比率は、柱の直径に対して『1対1.414』。……前者はギリシャのパルテノン神殿などにも用いられる、人間が最も美しいと感じる『黄金比』。後者は荘厳さと安定感をもたらす『白銀比』に極めて近似した数値じゃ」


「黄金比……それに白銀比……?」


「そうじゃ。さらに、このホールの床に敷き詰められたタイル。今は瘴気の汚れと古い血で黒ずんでおるが、本来の目地のラインを辿れば、中心の祭壇……すなわち今の魔王の玉座に向かって、フィボナッチ数列を描く螺旋状に配置されていることが分かる。……これらの極めて高度な幾何学的設計は、人間、あるいはこの世界に生きる知的生命体の脳に、無意識レベルで『圧倒的な美しさ』と『深い安らぎ』、そして『大いなる存在への畏敬の念』を抱かせるために、計算に計算を重ねて構築されたものじゃ」


 如月瑠璃の澄み切った声が、禍々しい魔王城のホールに、全く異質な、しかし絶対的な『知の響き』をもたらしていく。


「魔王という、恐怖と暴力によって世界を絶望で支配しようとする存在が、自らの居城にわざわざ人間の脳に安らぎをもたらす黄金比を用いたり、フィボナッチ数列の床を敷き詰めたりするはずがない。侵入者に恐怖を演出するのであれば、意図的に不協和音を生み出すような歪んだ空間設計や、圧迫感を与えるブルータリズム建築を最初から用いるのが、論理的な大正解じゃ」


 彼女は、純白の手袋で、奥の玉座へと続く赤絨毯の道を真っ直ぐに指差した。


「内部に隠された純白の大理石の材質。黄金比と白銀比による完璧な空間設計。……これらすべての物理的・建築学的な証拠が導き出す結論は、ただ一つじゃ」


 如月さんのアメジストの瞳が、漆黒に塗り潰された歴史の皮膜を完全に剥ぎ取り、その奥底に眠る真実のルーツを白日の下に晒し出した。


「ここは元々、魔王の城などではない。精霊を祀り、民が祈りを捧げるための『神聖な神殿』じゃ。それが後から増築を重ねられ、強大な魔力によって石の性質が黒曜石へと変質したに過ぎんのじゃよ」


「……っ!!」


 僕は、雷に打たれたような衝撃を受け、完全に言葉を失った。

 目の前にそびえ立つ、絶対的な悪の象徴である魔王城。世界を滅ぼす魔物の巣窟。

 しかし、その漆黒のガラスの奥底には、かつて人々が平和を祈り、希望を託した、純白の美しい神殿の姿が確かに眠っていたのだ。


「なんと……皮肉な歴史なんだ」


 僕は、先ほどまでの恐怖とは全く違う、胸を締め付けられるような悲しさと、激しい憤りを感じていた。

 人々にとって最も神聖で、大切な祈りの場所が。あろうことか、彼らを絶望に陥れる魔王の根城として姿を変えられ、利用されている。これほどの冒涜があるだろうか。


「あの古代魔獣ゴーレムが、なぜ本来の生態系に属さない場所で門番をさせられていたのかも、これで完全に繋がったな」


 如月さんは、冷ややかな視線をホールの奥へと向けた。


「この美しい神殿を奪い、自らの城に改築した魔王は。ゴーレムを創り出したあの孤独な魔法使いすらも圧倒的な武力で屈服させ、その悲しき番犬を、自らの城の防衛システムとして強引に組み込んだのじゃろう。……他者の築き上げた美しいルーツをことごとく蹂躙し、表面的な恐怖のタグで上塗りしていく。全くもって、知性と美意識の欠片もない低俗な振る舞いじゃな」


 彼女の言葉には、勇者としての正義感からの怒りは一切ない。

 ただ、モノのルーツと情動の歴史に対する、知の探求者としての絶対的な『美意識の欠如』への軽蔑だけが、氷のように冷たく込められていた。


「さあ、サクタロウ。先へ進むぞ。この美しい神殿を悪趣味なガラスの城に改悪した、引きこもりの不法占拠者が、奥の玉座でどのような情動の破綻をきたしているのか。……直々に、その空想のメッキを物理で剥がし、解剖してやろう」


 如月瑠璃は、大きく開かれたミッドナイトブルーのドレスの裾を優雅に翻し、かつて神聖なる祈りの場であった漆黒のホールを、一切の迷いなく歩き出した。

 その背中は、どんな伝説の勇者よりも力強く、そしてどんな極大魔法よりも圧倒的な『真理』の光を纏っている。


 僕は、もはや魔王に対する恐怖を完全に忘れ去っていた。

 あるのはただ、この冒涜された神殿のルーツを、そしてそこに込められていた人々の情動の痕跡を、彼女がいかにして完全に解き明かしていくのかを見届けるという、助手としての強い使命感だけだった。

 僕は、伝説の聖剣の柄を握り直すことなく、大きく息を吸い込み、彼女のブレない足跡を追って、魔王城の最深部へと向かう赤絨毯の上を一歩、力強く踏み出した。



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