第4話『冒険』(後編) ~section 1:黒曜石の城と、建築様式の矛盾~
伝説の聖剣の切先が、古代魔獣ゴーレムの胸に輝く魔力核のバグを正確に撃ち抜き、その黒曜石の巨体が完全に沈黙してから数分後。
広間を支配していた灼熱の爆炎と、呼吸を阻害するほどの暴力的な熱波は嘘のように引き潮となり、後にはただ、永遠の孤独という呪縛から解放された物言わぬ彫像と、絶対零度の静寂だけが残されていた。
「……終わった、のか」
僕は、数十キログラムにも及ぶプラチナのフルプレートアーマーの重みに耐えかね、荒い息を吐きながらその場に片膝をついた。
滝のように流れ出た汗が、鎧の内側の衣服を重く冷たく濡らしている。関節部分を覆う金属のパーツが擦れ合い、ガシャリ、というひどく疲労に満ちた音を広間に響かせた。
ファンタジーRPGの冒険者というものは、常にこんな常軌を逸した物理的負荷と精神的プレッシャーに耐えながらダンジョンを探索しているのだろうか。だとしたら、現代日本の平和な高校生である僕の精神と肉体は、すでに限界の底を完全にぶち抜いている。
しかし、僕の脳髄が強制的に構築したこの狂気の『もしもの世界』は、僕に安息の時間を与えてはくれなかった。
ズズズズズズズズ……ッ!!
機能停止したゴーレムの巨体のすぐ背後。広間の最奥にそびえ立っていた、天井まで届くほどの巨大な岩の隔壁が、地鳴りのような重低音を響かせながら、ゆっくりと左右に開いていく。
数百年、あるいは数千年もの間、何者も通すことのなかったであろう分厚い石の扉。その隙間から真っ先に這い出してきたのは、先ほどの広間を満たしていた熱気とは対極にある、骨の髄まで凍りつくような冷気と、そして粘り気のある極めて禍々しい『瘴気』だった。
「サクタロウ。いつまで石畳の上で呆けておる。ゴーレムという物理的障害は完全に排除され、次なる空間の座標へのアクセスが可能になった。行くぞ」
僕の背後から、一切の感傷も疲労も感じさせない、凛とした冷ややかな声が響いた。
振り返ると、如月瑠璃が、純白のオーダーメイド手袋に包まれた手で、先ほどまで使用していたアンティークの銀のルーペを懐へとしまい込んでいるところだった。
彼女は、あのような灼熱の炎と爆風のド真ん中にいたというのに、彼女の美しい白磁のような肌には、微かな火傷の痕はおろか、一滴の汗すら浮かんでいない。
その無防備なまでの露出とは裏腹に、彼女の全身から発せられる『対象物を観測する絶対的な知性』のオーラが、いかなる物理的・魔力的脅威をも寄せ付けない強固な論理の鎧となって彼女を守護しているように見えた。
彼女のアメジストの瞳は、もはや哀れな魔法使いの未練から解放されたゴーレムの残骸には向けられていない。ただ一直線に、開かれた奈落の奥深く……未知の事象が待ち受ける暗闇へと向けられていた。
「は、はい……っ!」
僕は、痛む太ももの筋肉に鞭を打ち、ガシャリと重たい勇者の鎧を鳴らして立ち上がった。
僕の脳内が作り出した剣と魔法のファンタジーという設定は、どうやら魔王を討伐するまで絶対に僕を解放してくれないらしい。
「対象の気配、前方および左右の通路には確認できず。しかし、空間全体に高密度の魔力障壁が張り巡らされている。マスター、いかなる物理的脅威からもお守りする」
黒田さんが、感情の一切こもっていない機械的な音声と共に、巨大な鉄骨のような戦斧を両手で構え直した。彼にとっては、ここが月見坂市の旧校舎であろうが、総理官邸であろうが、魔王の迷宮の最深部であろうが、遂行すべき『警護と粉砕』のプロトコルに一切の変化はないらしい。漆黒のフルプレートアーマーが、開かれた扉の奥の暗闇に溶け込むように同化していく。
「あらあら、なんだか埃っぽくてお肌に悪そうな空気が漂っているわね。早くあの魔王とかいう引きこもりを見つけて、サクッと極大魔法で除菌して帰りましょうよ。光太郎くんも、そんな重たいお洋服で可哀想に」
その後ろを歩く翡翠さんもまた、先端に緑の宝玉が輝く賢者の杖を優雅に揺らしながら、まるで休日のショッピングモールを歩くようなのんびりとした声で微笑んでいる。彼女が歩みを進めるたびに、深くV字に切り込まれたエメラルドグリーンのローブの胸元から、豊満な渓谷が惜しげもなく揺れ動いている。
しかし、今の僕にはその暴力的なまでの色気に反応して赤面し、思春期の煩悩を爆発させるだけの精神的余裕すら残されていなかった。
僕たちは、ゴーレムの広間を抜け、開かれた石扉の向こう側……魔王の迷宮の最深部へと足を踏み入れた。
扉を抜けた先は、長く、そしてどこまでも暗く冷たい地下回廊だった。
松明の明かりすらなく、ただ壁に生えた不気味な発光苔だけが、頼りない青白い光を放っている。
一歩進むごとに、空間の空気密度が異常に高まっていくのを感じた。鼻腔を突き刺すのは、古いカビと湿った土、そして強烈な硫黄の匂いが混ざり合ったような、生物の生存本能に直接警鐘を鳴らす悪臭だ。
壁には、過去にこの迷宮に挑んで力尽きたであろう冒険者たちのものと思われる、白骨化した遺体が所々に転がっており、その骨の隙間から、赤い目をしたネズミのような小動物が逃げ出していくのが見えた。
(……空気が、重い。息をするだけで、肺の中に冷たい泥を流し込まれているみたいだ)
僕は、自分の心臓の鼓動が、鎧の金属音よりも大きく耳の奥で鳴り響いているのを感じていた。
RPGのラストダンジョンへと続く最終通路。エンカウントする敵の凶悪さもさることながら、その場にいるだけでプレイヤーの精神を削り取ってくるような、重苦しい環境デザイン。それを現実の五感でフルに体験させられる恐怖は、僕の冷静な判断力を容赦なく奪っていく。
どこから罠が作動するかわからない。壁の影から、ゴーレムよりもさらに強大な悪魔が飛び出してくるかもしれない。
「サクタロウ。先ほどから歩幅が極端に狭まり、呼吸が浅くなっておるぞ。心拍数が異常な数値を叩き出し、自律神経が完全に『恐怖』というノイズに支配されておるな。大脳皮質の論理的思考能力が著しく低下している証拠じゃ。愚鈍なことじゃ」
僕の数歩前を歩く如月さんが、暗闇の中で振り返りもしないまま、的確すぎる物理的ダメ出しを飛ばしてくる。
「む、無理言わないでくださいよ……! こんな、いかにも『ここから先は死の領域です』って空気がビンビンに出てる場所で、平常心でいられる方がおかしいんです! 黒田さんや翡翠さんが規格外すぎるだけで、僕の反応が一般的なんですから!」
僕は、ガチガチと震える歯の根を噛み締めながら、小声で必死に抗議した。
「死の領域の空気、などという非科学的なオカルト表現を使うな」
如月さんは、足元の白骨死体など完全に無視して歩みを進めながら、氷のように冷たく言い放った。
「この空間の空気密度が異常に高いのは、単に地下深くへと向かう地形的なすり鉢構造によって、比重の重い火山性の亜硫酸ガスや二酸化炭素が底部に滞留しているだけの、極めて自然な流体力学の結果じゃ。そして、お主が感じているプレッシャーとやらは、視界の悪さと嗅覚への強い刺激から、脳の扁桃体が勝手に『未知の生存の危機』を錯覚し、過剰なアドレナリンを分泌しているに過ぎん」
彼女は、魔王の迷宮が放つ絶望のオーラというファンタジーの恐怖演出を、『ただの有毒ガスの滞留と、脳の化学物質の錯覚』という身も蓋もない物理現象として一刀両断に切り捨てた。
「現象の表面的な禍々しさに怯え、見えない暗闇に勝手に『呪い』だの『悪霊』だのという空想のタグを貼り付けるから、お主はいつまで経っても本質を見誤るのじゃ。……よいか、サクタロウ。いかに世界観がファンタジーに書き換わろうとも、お主の目の前にあるのは、ただの炭素と水素と酸素と、その他の元素の無機質な集合体に過ぎん。恐れるに足らんわ」
そう言い放つ彼女の深いアメジストの瞳には、魔王に対する恐怖など微塵も存在せず、ただこの未知の建造物の構造を解き明かそうとする、果てしない知的好奇心だけが静かに燃え盛っていた。
本当に、この人はどこにいようが、どんな大胆な衣装を着せられようが、絶対にブレることのない『如月瑠璃』なのだ。僕は、痛む胃を押さえながら、その強靭な論理の背中に必死についていくしかなかった。
そのまま、僕たちは警戒を怠らずに漆黒の回廊をさらに数十分ほど進んでいった。
奇妙なことに、あれほど外の大平原で群れを成していたゴブリンやスライムといった低級な魔物の姿は、ここには一匹たりとも見当たらなかった。
ただ、どこからか絶え間なく吹き付けてくる冷たい風の音と、僕たちの足音だけが、不気味に反響している。
やがて。
長く苦しい回廊の先、前方の視界が急激に開け、強烈な瘴気の風が僕たちの顔を殴りつけてきた。
「……うわぁ……」
回廊を抜けた僕の口から、感嘆とも絶望ともつかない、ひどく掠れた声が漏れた。
そこは、巨大な地底湖のような、途方もなく広大な地下空間だった。
しかし、水は一滴もなく、空間全体を赤黒く澱んだ霧……先ほどまでの回廊とは比べ物にならないほど濃密で致死的な瘴気が、まるで荒れ狂う海のように渦巻いている。上空には、地下空間であるにもかかわらず、禍々しい暗雲が重く立ち込め、時折、血のように赤い稲妻が音もなく走っていた。
そして、その巨大な地下空洞の中心。
赤黒い瘴気の海を割るようにして、地獄の底から直接生え出てきたかのような、天を突くほどの威容を誇る『巨大な城郭』が、圧倒的な絶望の存在感を持ってそびえ立っていたのである。
「これが……魔王城……!」
僕は、そのスケールの異常さに完全に圧倒され、その場に立ち尽くした。
ファンタジーRPGにおける、正真正銘のラストダンジョン。すべての元凶が待ち受ける、悪の総本山。
その広大な城壁は、人間が扱うような一般的な石材やレンガなどではなく、周囲のわずかな光すらもすべて呑み込んでしまうような、深い漆黒の『黒曜石』によって組み上げられていた。
無数の鋭い尖塔が、天を貫く毒々しい棘のように天高く伸びている。城全体から、生き物の生気を直接吸い取るようなドス黒い魔力のオーラが絶え間なく立ち上り、周囲の空間を陽炎のように歪ませていた。
城門の前には、底の見えない漆黒のクレバスが大きく口を開けており、その奈落の上を渡すようにして、まるで『こちらへ来い、そして死ね』と侵入者を嘲笑うかのような、真紅の木材で作られた巨大な跳ね橋が下ろされていた。
「……いよいよ、ラスボスの城だ」
僕は、極度の緊張で再びカラカラに乾いた喉を鳴らし、無意識のうちに腰の『伝説の聖剣』の柄を、汗ばんだガントレット越しに力の限り握り直した。
手のひらに、金属の冷たい感触が伝わってくる。
先ほどのゴーレムのような、物理攻撃を弾き返す強固な障壁を持った化け物たちが、この黒曜石の城の中には無数にひしめいているはずだ。そしてその最奥には、世界を絶望の淵に叩き落とそうとする、圧倒的な魔力を持った魔王が玉座に座って僕たちを待ち構えている。
勇者としてこの世界に放り込まれた以上、僕はこの剣で、その絶対悪と対峙しなければならないのだ。
(落ち着け……僕には、黒田さんと翡翠さんがいる。そして何より、どんな空想の産物も論破してくれる如月さんがいるんだ。……大丈夫、やれる!)
僕は、自分自身にそう強く言い聞かせ、大きく深呼吸をした。
致死性の瘴気が肺を焼くような感覚に襲われたが、それを気力でねじ伏せ、勇者としての覚悟を決めて、赤黒い瘴気の海に架かる真紅の跳ね橋へと一歩を踏み出した。
ギィィ、という古い木材が軋む音が、地下空間に不気味に響き渡る。
僕たちは、跳ね橋を渡りきり、ついに巨大な黒曜石の城壁の直下……天を突くほどに巨大な、漆黒の城門の前へと辿り着いた。
近づいてみると、その城壁の巨大さがさらに実感できる。黒曜石のブロック一つ一つが、大人が両手を広げても届かないほどの大きさであり、それが遥か上空まで、狂気的なスケールで積み上げられているのだ。
「よし……突入しますよ! いつ敵が襲ってきてもおかしくない! 黒田さん、翡翠さん、警戒を……!」
僕が聖剣を引き抜き、周囲に鋭い視線を巡らせて突入の合図を出そうとした、まさにその時だった。
「ふむ……」
僕の緊張感など完全にどこ吹く風といった様子で。
先頭を歩いていた如月瑠璃が、不意にピタリと足を止め、あろうことか、その禍々しい瘴気を放つ黒曜石の巨大な壁面へと、スッと顔を近づけていったのだ。
「き、如月さん!? いきなり壁に近づいちゃ駄目ですよ!」
僕は慌てて声を上げ、彼女の華奢な腕を引こうと手を伸ばした。
「そんなラスボスの城の壁なんか、絶対に呪いがかかってるとか、触れた瞬間に猛毒に侵されるトラップとか、そういう初見殺しのギミックがあるに決まってるじゃないですか! まずは翡翠さんに解呪の魔法をかけてもらってから、慎重に……!」
僕の必死の制止を、しかし如月さんは文字通り一瞥もせずに完全に無視した。
彼女は、身体を冷たい漆黒の壁へと近づけ、純白の手袋に包まれた右手で、懐から精緻な銀細工が施された【アンティークのルーペ】を取り出した。
そして、そのレンズを黒曜石の壁面ギリギリまで寄せ、極限まで目を細めて、何やら熱心に観察し始めたのである。
「トラップ? 呪い? 愚鈍なことを」
壁に顔を近づけたまま、如月さんの氷のように冷たい声が響く。
「現象の表面的な禍々しさに怯え、ただの無機物の集合体に過剰な意味づけをするのは、お主のような凡人の悪い癖じゃ。……わしが観測しているのは、壁に仕掛けられたオカルトめいた呪いなどではない。この巨大な石と石が組み合わさっている『継ぎ目』と、その『建築様式』についてじゃ」
「建築様式……? 魔王城の、ですか?」
「いかにも」
如月さんは、ルーペを巨大な石ブロックの継ぎ目に沿って、縦に、そして横にと、スーッと滑らせた。
「サクタロウ。お主は先ほどから、この建造物を『魔王の城』だの『ラスボスの城』だのと緊張した面持ちで呼んでおるが。少しでも建築学や構造力学の知識があれば、この建造物が防御目的の城郭として、いかに『狂った設計』をしているかが一目で分かるはずじゃ」
「狂った設計? いや、見るからに壁も分厚そうですし、真っ黒でいかにも悪の要塞って感じの、難攻不落の威圧感があるじゃないですか」
僕の極めて一般的なゲーマー的、かつ視覚的印象に頼った感想に対し。
如月さんは、アンティークのルーペを顔から離し、心底呆れ果てたような、深い深い溜息を大げさについた。
「真っ黒で悪の要塞……。本当に、お主の語彙と観察眼はゴブリン以下じゃな」
彼女は、純白の手袋の指先で、黒曜石の巨大なブロックをコンコンと軽く叩いた。
硬質だが、どこか響きに欠ける音が返ってくる。
「よいか。黒曜石という材質は、モース硬度はおよそ五。ガラスと同じように力学的な『粘り』がないため、外部からの打撃や衝撃には極めて脆いという致命的な弱点がある。しかし、問題は材質の脆さだけではない。わしが指摘したいのは、この『石の積み方』じゃよ」
如月さんは、再びルーペを構え、黒曜石の壁の目地を指し示した。
「通常、強度を必要とする防壁であれば、石材の継ぎ目が一直線に揃わないように互い違いに積む『長手積み』や『フランス積み』といった、荷重を分散させ壁面全体の結合力を高める力学的に安定した工法を用いる。しかし、この壁の石材の配列を見てみよ。継ぎ目が綺麗に十字に交差し、縦横のラインが完全に一致しておるじゃろう」
言われて見上げるほど高い壁をよく観察してみると、確かに黒曜石の巨大なブロックは、まるで方眼紙のマス目のように、縦横の線がピタリと揃って積み上げられていた。
「これは『芋目地』、あるいは『通し目地』と呼ばれる積み方じゃ。見た目の幾何学的な美しさやデザイン性には優れているが、上部からの荷重が分散されず、外部からの強い局所的な衝撃に対しては構造的に極めて脆弱になる。要塞建築や、強固な防壁を築く上においては、絶対にやってはならない初歩的なタブーとされる工法じゃよ」
如月さんのアメジストの瞳が、漆黒の壁の奥にある歴史の矛盾を、容赦なく射抜いていく。
「衝撃に脆い黒曜石という材質に、構造的に欠陥のある通し目地という積み方。……この時点で、この巨大な建造物が『外敵からの攻撃を防ぐための要塞』として設計されたものではないことは、物理学および建築学の観点から完全に証明された」
「え……要塞じゃない? じゃあ、この禍々しい巨大な建物は一体何のために作られたものなんですか?」
僕が間抜けな声を出すと、如月さんは僕に背を向け、純白の手袋をはめた右手の指先で、パチン、と鋭く指を鳴らした。
乾いた指鳴らしの音が、漆黒の壁の表面に反射し、微かなエコーとなって、高くそびえる尖塔の間を縫うようにして上空へと広がっていく。
「サクタロウ、この空間の音波の反響の仕方を計算してみよ」
彼女は、まるでそれが当たり前のことのように言う。
「この壁の絶妙な曲面構造と、通し目地による規則的な凹凸の配置。この石の積み方は、明らかに防御を目的とした要塞のものではない。採光と音の反響を計算した、極めて『祈り』向けの建築様式じゃ」
如月瑠璃は胸を張って、僕たちの前にそびえ立つ絶望の魔王城を振り返って、堂々と、そして心底馬鹿にしたように宣言した。
その一言で、僕が必死に高めていた『魔王城へと乗り込む勇者の緊張感』は、見事なまでに粉々に打ち砕かれ、ただのポンコツ建築を見上げるだけの呆れ果てた空気へと塗り替えられてしまったのだった。




