第3話『冒険』(前編) ~Section 7:ゴブリンの牙と、生態系の解剖~
黒田さんの振るった戦斧による、大地そのものを粉砕する絶対的な物理的質量の蹂躙。
そして、翡翠さんが涼しい顔で上空から叩き落とした、極大魔法という名の戦術兵器レベルの質量弾。
その二つの規格外すぎる破壊の嵐が過ぎ去った後の大平原は、もはや元の美しい緑の海としての面影を完全に失っていた。
「……ひどい有様だな、これ」
僕は、プラチナの輝きを放つ伝説の勇者のフルプレートアーマーをガシャガシャと鳴らしながら、その凄惨な跡地を見渡して深い溜息をついた。
数十メートルにわたって完全にえぐり取られた地面。隕石の直撃を受けた爆心地は、強烈な熱エネルギーによって土壌のケイ素がガラス状に結晶化し、いまだにジュウジュウと赤熱して白煙を上げている。周囲の空気は、焦げた土とオゾン、そして微かな血の匂いが混ざり合った、ひどく息苦しいものに変質していた。
先ほどまで僕たちを取り囲み、奇声を上げて飛びかかってきた数十匹のゴブリンと巨大なスライムの群れは、文字通り『原子レベル』で消滅しており、肉片はおろか、彼らが持っていた粗末な武器の残骸すらほとんど残っていない。
圧倒的なまでの、暴力。
剣と魔法のファンタジー世界というロマンに満ちた設定が、チート級のステータスを持った同行者たちによって、開始早々にただの『焦土作戦』へと塗り替えられてしまったのだ。
「ふう、少し熱を出しすぎちゃったかしら。でも、これで道は開けたわね。さあ、光太郎くん、先を急ぎましょう」
翡翠さんは、自身の放った破壊の爪痕など全く気にする様子もなく、緑の宝玉が輝く賢者の杖を軽く振りながら微笑んでいる。黒田さんもまた、大剣を背中に収め、周囲の警戒モードへと移行し、彫像のように静止していた。
僕は、自分がいかにこのパーティで無力な存在であるかを痛感し、重い足取りで彼らの後を追おうとした。
しかし、ただ一人。
この焼け焦げた大地の真ん中で、歩みを進めようとしない人物がいた。
「如月さん……? どうしたんですか、こんな焦土の真ん中で立ち止まって」
如月瑠璃は、ミッドナイトブルーのファンタジードレスの裾が灰で汚れることも意に介さず、えぐれたクレーターの縁に立ち、足元の『何か』をじっと見下ろしていた。
先ほどの店先での一件から、僕は彼女の肌の露出に対して無駄に意識を向けることを強制的にやめ、彼女の顔……そのアメジストの瞳が捉えている対象にのみ焦点を合わせるよう努めていた。
「サクタロウ。先ほどの魔法による超高温のプラズマ化と、物理的衝撃波による粉砕。その二重のエントロピー増大の網の目をすり抜け、燃え尽きずに残存した『特異点』が存在する」
彼女の澄み切った声が、くすぶる煙の中で静かに響いた。
「燃え尽きずに残ったもの……?」
僕が近づいていくと、如月さんは純白のオーダーメイド手袋に包まれた手を、まだ熱を帯びている灰の中へと躊躇いなく差し込んだ。
そして、煤にまみれた『小さな物体』を、指先で器用につまみ上げた。
それは、五センチほどの長さの、湾曲した鋭い骨……おそらく、先ほど消滅したゴブリンの群れのうちの一匹が身につけていた『牙の首飾り』だった。
牙の根元には小さな穴が空けられ、泥にまみれた粗末な紐が通されている。翡翠さんの魔法による圧倒的な熱量に晒されたはずなのに、なぜかその牙と紐だけが、奇跡的に燃え尽きずに形を保っていたのだ。
「おっ! それって、もしかして『ドロップアイテム』ってやつですか!?」
僕は、一人のゲーマーとしての悲しい習性で、途端にテンションを上げてしまった。
ファンタジーRPGにおいて、魔物を倒した後に残るアイテムは、プレイヤーを強化するための重要なリソースだ。
「すげえ、本物のドロップアイテムだ! ゴブリンの牙の首飾り……ってことは、装備すると『俊敏性アップ』とか『攻撃力微増』とか、そういう魔法の効果があるアクセサリーなんじゃないですか!? なんだかんだ言って、如月さんもそういうレアアイテムには興味あるんですね!」
僕が一人で目を輝かせていると。
如月さんは、手にした牙の首飾りから視線を外し、極限まで冷え切った、絶対零度のアメジストの瞳で僕を真っ向から見据えた。
「サクタロウ。お主のその、何でもかんでもゲームのシステムや魔法という『空想のタグ』を貼り付けて満足しようとする貧困な思考回路は、一度頭蓋骨を開いて直接洗浄してやらねば治らんようじゃな」
「ひっ……!」
あまりにも冷酷な、そして本気で解剖されかねないトーンに、僕は首をすくめて後ずさった。
「俊敏性アップじゃと? 攻撃力微増じゃと? 愚鈍の極みじゃ。そんな都合のいいステータス補正など、この宇宙のどこを探しても存在せん。現象には必ず物理的な因果関係がある」
如月さんは、呆れ果てたようにため息をつくと、右手で純銀のアンティークルーペを懐から取り出した。
「わしがこれに興味を持ったのは、これが『魔法のアイテム』だからではない。先ほどの凄まじい熱量と衝撃波に耐えうるほどの『異常な硬度』と『耐熱性』を持つ物質が、なぜあのような低級な生物の首にぶら下がっていたのか。その物理的矛盾のルーツを探るためじゃ」
シャキッ、と。
彼女の手の中で、ルーペが展開される。
そして、煤で汚れたゴブリンの牙を顔の高さまで持ち上げ、そのレンズの向こう側に、すべてを論理的に解体する鋭い視線を滑り込ませた。
「さて、この牙じゃが……一見すると、猛獣を狩った証として身につける、原始的な戦士の『装飾品』のように見える。お主のような凡人は、すぐにそういった野蛮な文化の象徴だと早合点するじゃろうな」
「え……違うんですか? ゴブリンって、そういう好戦的な魔物の一種じゃないんですか?」
「外れじゃ」
如月さんは、即座に僕の推測を切り捨てた。
「トロフィーとして牙を身につけるのであれば、その生物の強さや恐ろしさを誇示するために、本来の鋭さや形をそのまま残そうとするのが自然な情動じゃ。しかし、この牙をルーペで拡大してみよ。表面の形状が、明らかに不自然じゃ」
如月さんに促され、僕は顔を近づけて、ルーペのレンズ越しにその牙を覗き込んだ。
確かに、よく見てみると、五センチほどの牙の『先端部分』が、本来の鋭い円錐形ではなく、斜めにスパッと切り落とされたように平らに削り取られている。さらに、その平らになった断面の中央には、意図的に削られたような半円形の『くぼみ』が作られていた。
「あ……本当だ。ただの牙じゃない。なんか、形がいびつというか、不格好に加工されてますね。でも、これじゃあ装飾品としては格好悪いし、武器として刺すこともできないじゃないですか」
「その通りじゃ。装飾目的でもなく、武器でもない。……ならば、答えは一つしかない」
如月さんは、ルーペを牙の『くぼみ』の部分にさらにピントを合わせた。
「この半円形のくぼみの内側に、ミクロン単位で無数の微細な摩擦痕が、特定の一方向にのみ集中して刻み込まれておる。そして、その傷の奥深くに、極微量の『植物性の油脂』と『硬い繊維質のカス』がこびりついているのが視えるか?」
「植物性の油脂……?」
「いかにも。この削り痕とくぼみは、決して呪術的な意味合いや装飾のためのものではない。極めて合理的で、生存に直結した『実用的な加工』じゃ。……これは、特定の硬い殻を持つ『木の実』を固定し、テコの原理を利用して殻を割るためだけに特化して削り出された、ゴブリンたちの『専用のくるみ割り器』なんじゃよ」
「くるみ、割り器……!?」
僕は、予想の斜め上をいく鑑定結果に、思わず頓狂な声を上げてしまった。
魔王の配下であり、人間を襲う残虐な魔物であるはずのゴブリン。彼らが首から下げていたおどろおどろしい牙の正体が、よもや『どんぐりやクルミを割るための便利な日用品』だったとは、どんなファンタジー小説の作者も思いつかないだろう。
「驚くことではない。霊長類などの知能の高い動物が、硬い木の実を割るために石や木の枝を道具として加工するのは、生態系においてごく一般的な行動じゃ」
如月さんは、さも当然のように淡々と語る。
「彼らは、我々人間と同じように道具を使う知恵を持っておる。この牙の持ち主は、群れの中でも特に道具の加工に長けた個体だったのじゃろう。彼らにとって、この牙は『敵を殺すための力』の象徴ではなく、過酷な自然環境の中で『今日の糧を得るための、かけがえのない生活必需品』だったわけじゃな」
如月さんの言葉によって、先ほどまで僕の中で『ただの恐ろしいバケモノ』でしかなかったゴブリンの像が、急激に輪郭を変え始めていた。
彼らもまた、食事をし、道具を作り、今日を生き延びるために必死に工夫を凝らす、一つの『生き物』に過ぎないのだという事実が、強烈なリアリティを持って迫ってくる。
「しかし、これだけでは終わらんぞ、サクタロウ。モノのルーツを辿る旅は、ここからが本番じゃ」
如月さんのアメジストの瞳が、さらに深く、知の深淵へと潜行していく。
彼女は、牙そのものから、今度はその牙を首に下げるために通されていた『泥にまみれた粗末な紐』へと、ルーペの焦点を移動させた。
「この紐。一見すると、獣の皮をなめした革紐か、あるいは動物の腱を乾燥させたもののように見える。しかし、先ほどの翡翠の極大魔法による超高温の爆心地付近にあって、この紐は燃え尽きず、わずかに炭化するにとどまっておる。動物性のタンパク質であれば、瞬時に灰になっているはずじゃ」
「じゃあ……なんで燃えなかったんですか?」
「それは、この紐の材質が『極めて高い保水性を持つ、特殊な植物の繊維』を編み込んで作られているからじゃ」
如月さんは、純白の手袋の指先で、その泥まみれの紐の端を少しだけ解れさせた。
「ルーペで繊維の細胞壁を拡大して解析するぞ。……ふむ。細胞の構造が、水の束縛力を高めるための多孔質なスポンジ状になっておる。そして、この繊維の表面に付着している泥の成分。ただの土ではないな。嫌気性細菌の死骸と、硫化水素の痕跡が含まれる、ヘドロ状の泥じゃ」
彼女の脳内で、この世界の植物分布図と気候条件、そして地質データが、恐ろしい速度で照合され、一つの解へと収束していく。
「完璧に特定したぞ。この紐に使われている繊維は、『泥岩地帯の酸性の沼沢地』……すなわち、この乾燥した平原とは全く環境の異なる、一年中水に浸かっているような『湿地帯』にしか自生しない、特殊な水草の茎じゃ」
「湿地帯の、水草……?」
「いかにも。その水草の繊維は、水分を極限まで保持する性質があるため、急激な熱エネルギーを加えられても、内部の水分が蒸発する際の気化熱によって、紐そのものが燃焼するのを防いだのじゃ。だからこそ、この首飾りは先ほどの魔法の業火の中でも焼け残った」
如月さんは、ルーペを静かに折りたたみ、懐へと収めた。
そして、焼け焦げた大平原の風に吹かれながら、その小さな牙の首飾りを高く掲げた。
「これですべての事象が、一つの生態系として物理的に繋がった」
彼女の言葉には、もはやファンタジーのロマンなど微塵も含まれていない。
あるのはただ、冷徹なまでの『生物学』と『環境学』による、完璧な解剖結果だった。
「この牙が特定の『硬い木の実』を割るための道具であり、この紐が『湿地帯』にしか生えない水草で編まれているという二つの物理的証拠。これが示す、ゴブリンという生物の真の生態系と行動範囲。……彼らは、魔王城から湧いて出た闇の眷属などではない」
如月さんは、地平線の彼方を指差した。
「彼らの本来の生息域は、この乾燥した平原ではなく、遥か遠くにある水源の豊かな『湿地帯』じゃ。そこで水草を編んで紐を作り、湿地帯の周辺に生える特有の硬い木の実を、この牙の道具で割って主食として生きていた。……極めて限定された環境に適応した、脆弱で臆病な生態系じゃよ」
「……え? じゃあ、なんでそんな本来の生息域から離れて、わざわざこんな大平原に大群で現れたんですか?」
僕が疑問を口にすると、如月さんは冷ややかなため息をついた。
「環境の変化じゃよ。おそらく、彼らの住処であった湿地帯に、何らかの急激な気候変動が起きたか、あるいはより強大な捕食者……それこそ、お主らが『魔王軍』と呼んでいる巨大な軍勢の進行によって、彼らの生活圏が物理的に破壊されたのじゃろう」
如月さんのその言葉に、僕はハッとした。
「住処を追われ、主食である木の実も採れなくなった彼らは、飢えと恐怖から逃れるために、本来の生態系を捨てて、この不慣れな大平原へと『大移動』せざるを得なかった。……そして、極限の飢餓状態の中で、偶然通りかかった我々という『見慣れぬタンパク質』に遭遇し、生きるための本能に従って群れで襲いかかってきた。……ただ、それだけのことじゃ」
彼女の宣告は、僕の背筋に冷たいものを走らせた。
魔王の命令で人間を襲う、邪悪な魔物。
僕たちは、RPGの常識に囚われ、彼らを何の疑いもなくそう決めつけていた。
しかし、如月瑠璃の情動の視座と物理的観察眼が暴き出した彼らのルーツは、あまりにも生々しく、そしてあまりにも『普通の野生動物』のそれと同じだった。
彼らは魔王の手先でもなければ、殺戮を楽しむ邪悪な存在でもない。
ただ、住処を奪われ、お腹を空かせ、生き延びるために必死に移動し、そして……圧倒的な暴力の前に、一瞬で消し飛ばされてしまった、哀れな難民のような存在だったのだ。
「魔物もまた、魔法という名の都合のいい空想の産物ではない」
如月さんは、手にした牙の首飾りを、灰と化したクレーターの中へと静かに落とした。
「彼らもまた、炭素とタンパク質で構成され、この世界の環境に依存し、過酷な生存競争という『物理法則』の中で必死に生きる、一つの生物に過ぎん。……善も悪もない。ただ、環境に適応できなければ淘汰されるという、冷徹な大自然のルールがそこにあるだけじゃ」
僕は、何も言えなかった。
圧倒的な破壊魔法で彼らを一網打尽にした翡翠さんも、粉砕した黒田さんも、決して悪くはない。自分たちの身を守るためには、当然の行動だった。
しかし、ただの『経験値の的』であったはずのゴブリンたちの背後に、そんな生々しい生態系と、生きるための必死の情動が隠されていたという事実。それを物理的な証拠から突きつけられ、僕の中の『ファンタジー世界』という薄っぺらい空想の皮膜が、また一枚、ベリベリと音を立てて剥がれ落ちていくのを感じていた。
「ふむ。低級生物の生態を一つ解明したところで、何一つ状況は好転せんがな。……サクタロウ、いつまで立ち止まっておる。行くぞ」
如月さんは、純白の手袋についた煤を軽く払い落とすと、感傷の欠片もない足取りで、再び迷宮の方角へと歩き出した。
どんな世界に放り込まれようとも。相手が魔物であろうとも。
彼女は決して空想の産物を認めず、すべての現象を物理と情動の法則の内に還元し、冷徹に解剖し尽くしてしまう。
僕は、灰と化した大地にポツンと残された、あの『くるみ割りの牙』を最後に一度だけ振り返り。
重たい勇者の鎧をガシャリと鳴らして、彼女のブレない背中を追うために、大平原への一歩を踏み出したのだった。




