第3話『冒険』(前編) ~section 6:迷宮への道と、魔法の蹂躙~
王都を囲む巨大な城壁の門を抜けると、そこには視界の果てまで続く広大なフィールドが広がっていた。
見渡す限りの大平原。風が吹き抜けるたびに、背の高い草花が緑の波打つ海のようにザワザワと音を立てる。その遥か彼方、地平線の向こう側には、目的の地である『魔王の迷宮』がそびえ立つ、赤黒く澱んだ禍々しい空の領域が、まるで世界の皮膚にできた巨大な痣のように広がっているのが見えた。
「はぁ……はぁ……っ、お、重い……! 暑い……!」
僕は、プラチナの輝きを放つ伝説の勇者のフルプレートアーマーを引きずるようにして歩きながら、滝のような汗を流し、荒い息を吐き出していた。
ファンタジーRPGのフィールド移動といえば、軽快なBGMに乗ってサクサクと進んでいくのがお約束だが、僕の脳が構築したこの『もしもの世界』は、どこまでも現実の物理法則に厳格で、そして極めて残酷だった。
道なき道、不整地を歩くという行為が、数十キロの金属の塊を身に纏った人間にどれほどの負荷をかけるか。
一歩足を踏み出すたびに、分厚い鉄のブーツが泥に沈み込み、それを引き抜くために太ももの筋肉が悲鳴を上げる。関節部分の金属が擦れ合い、ガシャン、ガシャンという耳障りな摩擦音が脳に直接響く。兜は被っていないものの、首の周りを覆う喉当てが頸動脈を圧迫し、呼吸を著しく阻害してくる。さらに、雲一つない空から照りつける太陽の熱を金属の装甲がたっぷりと吸収し、アーマーの内側は完全にサウナ状態と化していた。
(僕の脳みそは、なんでこんなマゾヒスト仕様の設定にしたんだ……! 勇者の筋力補正なんて、絶対バグって機能してないだろ!)
僕は、額から流れ落ちて目に入る汗を、鉄のガントレットで乱暴に拭いながら心の中で呪詛を吐いた。
そんな死に体で歩く僕のすぐ数メートル前を、如月瑠璃と如月翡翠の姉妹、そして漆黒の戦士である黒田さんの三人が、まるで近所の公園でも散歩しているかのような極めて軽快な足取りで進んでいく。
「サクタロウ。先ほどから歩幅が十センチ以上縮んでおるぞ。大腿四頭筋に蓄積した乳酸が許容量を超えつつあるようじゃな。お主がその無駄に重いだけの鉄屑に身を包んで体力を浪費している間に、我々の目的地である迷宮の座標は一ミリも近づいておらん。もっと効率的に重心を移動させよ」
如月さんが、振り向きもせずに冷酷な物理的ダメ出しを飛ばしてくる。
彼女は、肩から胸元にかけてが大きく開かれた、ファンタジー世界特有の大胆なミッドナイトブルーのコルセットドレスを身に纏いながら、石や木の根が転がる荒野を、一切の無駄がない完璧な姿勢で歩いている。華奢な編み上げブーツが地面を捉えるたびに、アシンメトリーなスカートの裾から、白く滑らかな太ももがチラチラと見え隠れしていた。
しかし、その露出の多さにもかかわらず、彼女の全身から発せられる『対象物を観測する絶対的な知性』のオーラが、この大自然のフィールドにおいてすら、彼女を周囲の環境から完全に隔離された異質な存在に仕立て上げていた。
「如月さんは……いいですよね……っ。そんな、防御力より通気性を重視したような……涼しげな格好で……!」
僕がゼイゼイと喘ぎながら恨み言をこぼすと、前方を歩いていた翡翠さんが、ふわりと振り返った。
「あら、光太郎くん。そんなに辛いなら、少し休憩にしましょうか? ほら、私のローブでよければ、汗を拭いてあげるわよ?」
翡翠さんは、深いエメラルドグリーンのローブの裾をわずかに持ち上げ、蠱惑的な笑みを浮かべた。
彼女が振り返るという動作をしただけで、深くV字に切り込まれた胸元の渓谷が、これでもかとばかりに大きく、そして暴力的に揺れ動く。太陽の光が、彼女の豊満な胸元から覗く純白の肌と、そこに浮かぶ微かな汗の粒を照らし出し、狂おしいほどの色気を放っていた。
「い、いやっ! 結構です! 大丈夫ですから! 全然疲れてませんから!」
僕は、顔面を爆発しそうなほど赤く染め、両手を激しく振って拒絶した。
もしあんな恐ろしい防御力のローブで汗など拭かれようものなら、僕は過呼吸と羞恥心で完全にショック死してしまう。この『もしもの世界』の配役と衣装改変は、完全に僕という一人の男子高校生の理性を殺しにかかっていた。
「無理しなくていいのに。光太郎くんは可愛いわねえ」
翡翠さんはクスクスと笑いながら、手にした緑の宝玉が輝く賢者の杖をクルリと回し、再び前を向いた。
僕は痛む胃を抱えながら、なんとか歩みを再開した。
(頼むから、何事もなく目的地まで着いてくれ……。こんな重装備で戦闘になんてなったら、剣を振るう前に熱中症と疲労で倒れるぞ……)
僕がそんな切実な祈りを天に向かって捧げた、まさにその時だった。
――ガサガサッ!!
突然、僕たちの進行方向にある、背の高い草むらが不自然に大きく揺れた。
それも一箇所ではない。前方、左右、そして後方。草の揺れは瞬く間に広がり、僕たちを完全に包囲するように円を描き始めたのだ。
「……む」
如月さんがピタリと足を止め、純白の手袋に包まれた手をスッと前に出した。
「サクタロウ。お主の無駄な足音と過剰な発汗によるフェロモンが、周囲の生態系に生息する不要なノイズを引き寄せてしまったようじゃな」
「え……ノイズって……!?」
次の瞬間。
草むらの陰や、点在する巨大な岩の裏側から、おぞましい唸り声と共に『それら』が一斉に姿を現した。
「ギギ……ゲギャァァッ!」
「グルルルル……!」
それは、RPGの序盤でプレイヤーの経験値稼ぎの的となる、見慣れたシルエットだった。しかし、目の前に現れたそれらは、ゲーム画面のドット絵やポリゴンモデルとは全く次元の違う、強烈な『生命体』としての悪臭と実在感を放っていた。
緑褐色の皮膚を持ち、子鬼のように小柄でありながら、全身が異常に発達した筋肉で覆われた『ゴブリン』の群れ。その数は優に数十匹を超えている。彼らの皮膚には膿のようなものが浮き、黄ばんだ牙の間からはドロドロとした涎が垂れ下がっていた。手には、粗末だが確実に人間の肉を引き裂くための、赤錆まみれのナタや棍棒が握られている。
そして、彼らの足元を這うようにして近づいてくる、半透明の緑色をした巨大な粘液の塊『スライム』。ゲームでは可愛いマスコットのように描かれることも多いが、現実の物理法則下で見るそれは、ただの『意志を持った巨大な強酸性の消化液』の塊に過ぎない。スライムが通った跡の地面の草は、ジュウジュウと音を立てて溶け、白煙を上げている。
(本物の、魔物……ッ!)
強烈な獣の臭いと、血の匂い。そして、明確な『殺意』と『食欲』。
それらが物理的なプレッシャーとなって僕の全身を打ち据えた。
ここは僕の夢の中だ。頭の片隅ではそう分かっているのに、本能が警鐘を鳴らし、全身の毛穴が一気に開き、冷や汗が噴き出す。
「ひぃっ……!」
僕は、腰に帯びた『伝説の聖剣』の柄に手をかけようとした。
だが、恐怖で指先が震え、重たい金属のガントレットが邪魔をして、剣を鞘から引き抜くことができない。
「く、抜けない……っ! こいつら、多すぎる……!」
僕が、勇者らしからぬ無様な姿でガシャガシャと手間取っている間に。
ゴブリンの群れが、奇声を発しながら一斉に僕たちに向かって飛びかかってきた。最前列の数匹が、錆びたナタを振りかざし、僕の首元を狙って宙を舞う。
(殺される……!)
僕が絶望して目を閉じた、その刹那だった。
――ゴオォォォォォォンッ!!!
空気を、いや、空間そのものを巨大な質量が叩き潰すような、凄まじい轟音が大平原に響き渡った。
「え……?」
僕が恐る恐る目を開けると。
僕の目の前に飛びかかってきていたはずの数匹のゴブリンたちの姿は、完全に消滅していた。
代わりに、僕の目の前には、漆黒のフルプレートアーマーを着込んだ巨漢――黒田さんが立っていた。
彼は、背中に背負っていた巨大な鉄骨の塊のようなバトルアックスを、片手で無造作に振り抜いた姿勢のまま、完全に静止している。
そして、彼の足元から前方の地面に向かって、長さ数十メートル、幅数メートルにわたって、大地そのものがまるで巨大なスプーンでえぐり取られたように、完全に粉砕され、深い亀裂が走っていたのである。
「……対象の完全なる物理的破壊を確認。引き続き、周囲の掃討任務を継続する」
黒田さんは、感情の一切こもっていないサイボーグのような声でそう宣言すると、巨大な戦斧を再び持ち上げた。
「な……なにが、起きた……?」
僕が理解の追いつかない頭で呆然としていると、黒田さんが再び動いた。
彼は、魔法の詠唱も、派手な闘気のオーラも一切出さない。ただ純粋に、己の常軌を逸した筋力と、武器の圧倒的な質量による『運動エネルギー』のみを推進力として、残りのゴブリンの群れへと突っ込んでいった。
ズガァァァァァァァンッ!!!!
バキバキバキッ! グチャァッ!!
それは、戦闘などという生易しいものではなかった。ただの『物理法則による蹂躙』だった。
黒田さんが戦斧を横になぎ払うたびに、強烈な空気の圧縮による衝撃波が発生し、それに巻き込まれたゴブリンたちは、武器を打ち合わせる隙すら与えられず、トマトが壁に叩きつけられたように、文字通り『原形をとどめない肉片』と化して吹き飛んでいく。
斧の刃が直接当たる必要すらない。彼が武器を振るった風圧だけで、周囲の岩が粉々に砕け散り、スライムの強酸性の身体は衝撃波によって空中で霧のように四散し、蒸発していく。
「す……すげえ……」
僕は、腰を抜かしたまま、その圧倒的な破壊の光景を見つめることしかできなかった。
魔法だの、属性だの、伝説の剣だの。そんなファンタジーのロマンなど、彼が放つ『圧倒的な質量と速度』という最も原始的で最強の物理エネルギーの前には、何の役にも立たないのだということを、まざまざと見せつけられていた。
「あらあら。黒田ったら、相変わらず力加減というものを知らないのねえ。これじゃあ、周囲の自然まで壊れちゃうじゃない」
と。
後方から、ひどくのんびりとした、この血生臭い空間には全くそぐわない、甘く蠱惑的な声が聞こえた。
振り返ると、賢者のローブを纏った翡翠さんが、優雅な足取りで前に出てきていた。
彼女は、黒田さんの圧倒的な物理的破壊を免れ、後方から回り込もうとしていた二十匹近いゴブリンと、巨大に合体したスライムの群れに向かって、ふわりと微笑みかけた。
「さて、汚い虫さんたち。お姉さんが、少しだけ熱いお灸を据えてあげるわね?」
彼女は、深くV字に開いたローブの胸元を、歩くたびに大きく、そして暴力的に揺らしながら、先端に緑の宝玉が輝く賢者の杖を空高く掲げた。
その瞬間。
周囲の空気が、急激に密度を増し、ビリビリとした静電気が僕の全身の肌を刺した。
「大気よ、我が魔力に惹かれ、焦熱の断罪となれ」
翡翠さんの唇から紡がれたのは、ゲームの呪文のような安っぽいものではない。周囲の空間の物理法則を強制的に書き換える、本物の『極大魔法』の詠唱だった。
彼女の杖の先端に、周囲の光がブラックホールのように吸い込まれていき、そこから信じられないほどの高密度の魔力エネルギーが、赤黒い光の球となって膨れ上がっていく。
「え……ちょ、翡翠さん!? そんな至近距離で、そんなヤバそうな魔法を……!?」
僕が制止の声を上げる暇もなかった。
「星墜の爆炎!」
翡翠さんが、甘い微笑みを浮かべたまま、杖を振り下ろした。
――パァァァァァァァンッ!!!!
空が、割れた。
雲の切れ間から、大気圏を突破して赤熱化した、直径数十メートルはあろうかという巨大な隕石が、ゴブリンたちの群れのド真ん中へと、絶望的な速度で垂直落下してきたのである。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!
隕石が激突した瞬間、大平原に、まるで小型の核爆弾でも落ちたかのような、巨大な爆発と閃光が巻き起こった。
凄まじい熱波と、鼓膜を突き破るような爆音がフィールドを支配する。爆心地からは、地獄の業火のような火柱が天高く噴き上がり、大地がマグマのようにドロドロに溶融していくのが見えた。
「うわあああああああっ!?」
僕は、吹き荒れる熱風と爆風に吹き飛ばされそうになり、咄嗟に両腕で顔を覆い、地面に伏せた。
伝説の勇者のフルプレートアーマーが、爆風に煽られてガシャガシャと情けない音を立てる。
数秒後。
強烈な閃光と爆煙が晴れた後に残されていたのは、直径数十メートル、深さ数メートルにわたって完全にえぐり取られ、表面がガラス状に結晶化して赤熱している巨大な『クレーター』だった。
もちろん、そこにいたゴブリンもスライムも、骨の一片、粘液の一滴すら残さず、原子レベルで完全に消滅している。
「ふう。やっぱり、クリスタル純度の高い杖は魔力の変換効率が段違いね。これなら、お肌の乾燥も最小限で済みそうだわ」
翡翠さんは、焦土と化したクレーターを見下ろしながら、額に浮かんだ微かな汗を指先で優雅に拭い、満足そうに微笑んでいる。
「……」
僕は、地面に這いつくばったまま、口をパクパクと開閉させることしかできなかった。
一人は、ただの物理法則だけで大地を砕くサイボーグ戦士。
もう一人は、色気と豊満な胸を振り撒きながら、戦術兵器レベルの極大魔法を涼しい顔でぶっ放す巨乳の賢者。
「……姉妹揃って規格外すぎるし、黒田さんはファンタジー世界でもチートかよぉぉぉぉぉぉっ!!!」
僕は、誰に向けてともなく、大平原の空に向かって、痛む胃を押さえながら盛大なツッコミの咆哮を上げた。
僕という一人の非力な男子高校生が、伝説の勇者として重い鎧を着て、剣を抜く手間すら与えられず。このパーティにおける僕の存在意義は、完全にマイナスを振り切ってゼロになっていた。
「やかましいぞ、サクタロウ。お主の無駄な大声は、このフィールドの生態系に対する音響公害以外の何物でもない」
僕の魂の叫びに対し。
この圧倒的な物理的・魔力的蹂躙のド真ん中にあって、ただ一人、いまだに胸元が開いたコルセットドレスに純白の手袋という姿のまま、一歩も動いていなかった如月瑠璃が、冷ややかな視線を向けてきた。
「それにしても、つまらんのう。魔法という空想の現象を介在させても、結局は高熱によるプラズマ化と物理的粉砕という、極めて単純なエントロピーの増大に帰結するだけか。これでは、わざわざファンタジーの事象を観測する意味など皆無じゃ」
彼女は、えぐれた大地と完全に消滅した魔物たちの痕跡を一瞥しただけで、深く、心底退屈そうにため息をついた。
「如月さん……この地獄絵図を見て、感想がそれだけですか……」
「当然じゃ。わしの知的好奇心を刺激するような『ルーツを持つモノ』など、この無秩序な破壊の跡地には一欠片も残っておらん。……行くぞ。こんなところで立ち止まっている時間は、一秒たりともない」
如月さんは、大きく開かれた胸元から覗く純白の肌に微かな土埃を浴びながらも、それを払うことすらせず、再び迷宮の方角へと歩き出した。
そのブレない、そして他者のすべてを切り捨てるような絶対的な後姿を見つめながら。
僕は、この夢の世界がどれだけスケールの大きなファンタジー設定を用意しようとも、如月瑠璃という一人の少女の『フォーマット』の前には、すべての事象が単なる『退屈な物理現象』として処理されてしまうのだという絶望的な真理を、改めて噛み締めるのだった。




