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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『冒険』(前編) ~section 5:刃こぼれと、名もなき冒険者の情動~

 埃と、鉄がひどく酸化した赤錆の匂いが充満する、武器屋の最も奥深くのデッドスペース。

 華やかな魔法の光も、炉の熱気すらも届かないその薄暗い片隅で、如月瑠璃は純白のオーダーメイド手袋に包まれた両手で、一本のボロボロに朽ち果てた短剣を大切そうに掬い上げていた。


 刀身は全体が赤黒い分厚い酸化鉄の層に完全に覆い尽くされ、元の金属の輝きなど微塵も残っていない。刃の部分は不規則に大きく欠け、ノコギリのようにボロボロになっている。持ち手である柄の部分に巻かれていたはずの革紐は、摩擦と経年劣化によって擦り切れ、もはや握ることすら躊躇われるほどの状態だった。


「如月さん……」


 僕は、ガシャガシャと重たい勇者の鎧を鳴らして彼女の背後に立ち、その凄惨な鉄屑を見下ろした。

 彼女の純白の手袋が、短剣の赤錆と木箱の底に溜まっていた黒い煤によって、すでに無惨なほどに汚れてしまっている。総理秘書官の世界でもそうだったが、彼女は『鑑定士』としての絶対的なプライドゆえに、対象物に自身の皮脂や指紋というノイズを残さないため、いかなる時もこの手袋を外さない。そして、真理を追求するためであれば、自らの手袋や衣服がどれほど汚れようとも、文字通り一ミリたりとも意に介さないのだ。

 大きく開かれたコルセットドレスの胸元が薄暗い空間で白く浮かび上がっているが、今の僕には、その露出の多さに対する思春期の動揺よりも、彼女の放つ圧倒的な『知の求道者』としてのオーラに対する畏敬の念の方がはるかに勝っていた。


「おいおい、嬢ちゃん。そんなゴミ箱の中身を漁ってどうする気だ?」


 不意に、背後からドスを効かせた太い声が響いた。

 振り返ると、顔中を煤だらけにした筋骨隆々のドワーフの店主が、呆れたような、あるいは自分の店を馬鹿にされたと勘違いして少し苛立ったような表情でこちらを睨みつけていた。


「うちの店には、あんたの連れが持ってるような最高の魔法剣や、ミスリル製の業物が腐るほど置いてあるんだ。そんな廃品回収業者(スカベンジャー)が小銭稼ぎに持ち込んできたような、スライム一匹斬れねえ赤錆の鉄屑なんて、さっさと元の箱に捨てちまいな。手が汚れるだけだぜ」


 ドワーフの店主の極めて常識的で、武器商人としてのプライドに満ちた言葉。

 しかし、如月さんは手にした短剣から視線を外すことなく、冷たく、そして最高に美しいアメジストの瞳を細めて、鼻で短く笑った。


「スライム一匹斬れぬ、か。お主、この店に並べてある派手な玩具の製作者じゃと聞いたが、どうやら見掛け倒しの装飾技術にばかり特化して、『モノのルーツ』を視るための観察眼は完全に退化してしまっているようじゃな」


「なんだと……?」


 店主の太い眉がピクリと跳ね上がり、空気が一気に剣呑になる。


「き、如月さん! 相手はドワーフの鍛冶職人ですよ! 武器の専門家を怒らせたら……!」


 僕が慌てて仲裁に入ろうとしたが、如月さんは僕の制止を完全に無視し、右手に持った純銀のアンティークルーペを、錆びついた短剣の刀身へとギリギリまで近づけた。


「サクタロウ。そして、そこの盲目の鍛冶屋よ。よく見てみるがよい。この刀身に刻まれた、無数の『刃こぼれ』の痕跡を」


 彼女の冷徹な声が、武器屋の喧騒を切り裂いて響く。

 僕も、店主も、彼女の異常なまでの迫力に呑まれ、思わずそのボロボロの刃へと視線を落とした。


「刃こぼれがどうしたってんだ。安物の鉄剣で、無理してオークの硬い骨でも斬ろうとしたから、そんなノコギリみたいにボロボロに欠けちまったんだろ」


 店主が吐き捨てるように言う。


「違うな。モノの破壊痕というものは、それが『何と衝突したか』によって、明確に異なる物理的欠損のパターンを示すものじゃ」


 如月さんは、ルーペのレンズ越しに、赤錆の奥にある刃の断面を精緻に読み解いていく。


「もしお主の言う通り、これが魔物の骨や肉、あるいは敵の金属鎧と斬り結んだことによる刃こぼれであれば、刃の欠け方はもっと鋭角で、かつ刀身全体に『横方向の摩擦痕(スクラッチ)』が残るはずじゃ。しかし、この短剣の刃こぼれは違う。欠けているのは刃の先端から中腹にかけての片側のみ。しかも、その欠け方は鋭利なものではなく、極めて強い力で『鈍角に押し潰された』ような、激しい粉砕痕になっとる」


「鈍角に、押し潰された……?」


 僕がオウム返しに呟くと、如月さんは満足げに頷いた。


「いかにも。これは、戦闘において対象を『斬る』ために使われた痕跡ではない。……この短剣の持ち主は、この刃を、極めて硬度の高い無機物……すなわち『岩壁』の隙間に向けて、何度も、何度も、力任せに叩き込み続けたのじゃよ」


「岩壁に……? 武器を、岩に叩きつけるだって?」


 店主が、信じられないというように目を丸くする。


「そうじゃ。刃こぼれの断面に残る微細な鉱物の粉末成分。これは、この王都の周辺には存在しない、極めて標高の高い火山帯特有の『玄武岩』と『石英』の粒子じゃ。……つまり、この短剣は武器としてではなく、険しい岩山を登り切るための『登攀具(ピッケル)の代用品』として、持ち主の全体重を支えるために過酷な使われ方をしたのじゃ」


 如月さんの放った論理の楔が、ドワーフの店主の常識を心地よい音を立てて破壊し始める。

 短剣をピッケル代わりに岩に突き立てる。それは、本来の用途を完全に逸脱した、武器を確実に破壊する行為だ。なぜ、そんな無茶な使い方をしなければならなかったのか。


「さらに、この柄の部分じゃ」


 如月さんは、ルーペの焦点を、ボロボロに擦り切れ、黒ずんだ革紐が巻かれた持ち手の部分へと移した。


「サクタロウ。この革紐の摩耗の仕方に、何か違和感を覚えんか?」


「違和感……?」


 僕は目を凝らした。

 革紐は全体的に擦り切れているが、よく見ると、特定の場所……親指と人差し指が当たる部分と、小指が引っかかる柄の末端部分だけが、極端にえぐれるように摩耗し、黒く変色している。


「あ……普通に握るよりも、なんだか極端に偏った削れ方をしていますね。それに、革の表面になんか、白い粉みたいなものがこびりついてる……」


「その通りじゃ。その白い粉の正体は、塩分の結晶……すなわち、持ち主の手から大量に流れ出た『汗』と『血』の成分が、革の繊維の奥深くまで染み込み、乾燥して結晶化したものじゃよ」


 如月さんは、手袋の指先でその革紐をそっと撫でた。


「武器を振るうための自然な握り方ではない。これは、刃を岩の隙間に突き立て、自らの全体重が奈落の底へ落下するのを防ぐため……極限の恐怖と疲労の中で、文字通り『死に物狂いで』柄にしがみつき続けた指の痕跡じゃ。……そして、この極端な摩耗と、革紐の凹みに完全に固定された塩分の結晶化パターンは、一つの残酷な医学的事実を証明しておる」


「医学的、事実……?」


 如月さんのアメジストの瞳が、ふっと伏せられ、彼女の周囲の空間だけが、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれた。

 彼女の『物理的観察眼』が、対象物のルーツを完全に特定し、いよいよその奥底に眠る『情動の視座』へとアクセスを開始したのだ。


「……『屍体痙攣』じゃよ」


 氷のように冷たい、しかし、どこか静かな弔いの鐘のような声が響いた。


「この短剣の持ち主は、岩壁に刃を突き立て、柄を強く握りしめたまま……力尽き、絶命したのじゃ。極度の緊張と疲労の中で命が尽きた時、筋肉は弛緩することなく、最後に取っていた姿勢のまま強固に硬直する。この柄の異様な摩耗と変色は、息絶えた後もなお、決してこの剣を手放すまいと硬直した『人間の手の形』そのものなのじゃ」


「っ……!!」


 僕も、ドワーフの店主も、言葉を失い、完全に息を呑んだ。

 ただの赤錆の鉄屑だと思っていたものが、突然、一人の人間の壮絶な死の瞬間の記録として、極めて生々しい質量を持って迫ってきたのだ。


「しかし……どうしてじゃ。どうしてこの名もなき冒険者は、命を落とすと分かっているような過酷な岩山に、ピッケルなどの正規の登攀装備も持たず、こんな短剣一本で挑まなければならなかったのじゃ」


 如月さんは、問いかけるように呟きながら、短剣の柄の最も端……ストラップを通すための小さな穴(ランヤードホール)へと視線を向けた。

 そこには、赤錆と埃にまみれて黒く変色した、一本の細い『紐』のようなものが結びつけられていた。


「サクタロウ。お主には、これがただの革紐の切れ端に見えるか?」


「え……違うんですか?」


「違うな。ルーペの倍率を上げ、組織の繊維構造を解析すれば一目瞭然じゃ。これは動物の皮革ではない。安価な木綿の糸を、三つ編みにして作られた『手編みの組紐』じゃよ。しかも、均等なテンションで編まれておらず、途中で何度も糸が解け、不格好に結び直された痕跡がある。……大人の手によるものではない。おそらく、十歳にも満たない、不器用な『幼い子供の手』によって編まれたものじゃ」


 如月さんは、その組紐の端にこびりついている、微細な土の粒子を指差した。


「さらに、この短剣の赤錆の奥に付着している、標高数千メートルの玄武岩地帯にのみ見られる特異なアルカリ性の土壌成分。その環境下でしか自生しない植物が、この世界に一つだけ存在するはずじゃ」


「あっ……!」


 店主のドワーフが、ハッとしたように声を上げた。


「ま、まさか……『竜の牙』と呼ばれる険しい霊峰の山頂付近にしか咲かないという……不治の奇病、『灰肺病』を治すための唯一の特効薬……『月雫草(つきしずくそう)』のことか……!?」


「ご名答じゃ、鍛冶屋」


 如月さんは、静かに目を閉じ、事象のすべてのピースを完璧な論理のパズルとして組み上げた。


「もう、完璧に視えたぞ。この赤錆の奥底に封じ込められた、愚かで、悲しく、そしていかなる伝説の魔法剣よりも熱い『情動のルーツ』が」


 彼女は再び目を開き、薄暗い武器屋の片隅で、まるで数百年前の歴史を語る吟遊詩人のように、しかし一切の感情の揺らぎを見せない冷徹な事実として、その物語を解き明かし始めた。


「この短剣の持ち主は、名のある騎士でも、伝説の勇者でもない。ただの貧しい、名もなき冒険者じゃ。彼には、おそらく幼い『妹』がいた。そしてその妹は、不治の奇病に冒され、命の灯火が消えかけておったのじゃろう」


 如月さんの言葉が、店内の熱気を押し除け、冷たく澄み切った空気として広がっていく。


「妹を救うための特効薬である月雫草は、到底素人が登れるはずもない、過酷な霊峰の頂にしかない。高価な登攀装備を買う金など、貧しい彼にはあるはずもなかった。彼はただ一つ、使い古したこの安い短剣だけを腰に差し、妹が不器用な手で編んでくれた『お守りの組紐』を柄に結びつけて、無謀な岩山へと挑んだ」


 僕の脳裏に、吹雪が吹き荒れる断崖絶壁を、たった一人で登り続ける一人の男の姿が、鮮烈なビジョンとして浮かび上がった。


「凍てつく岩肌。吹き荒れる強風。正規の装備を持たない彼の体は限界を迎え、ついには岩壁から足を滑らせた。……奈落の底へ落ちるその一瞬。彼は最後の力を振り絞り、この短剣の刃を、硬い玄武岩の隙間へと渾身の力で叩き込んだのじゃ。刃が砕け、刃こぼれを起こしながらも、剣は岩に深く突き刺さった」


 如月さんは、ボロボロの刃こぼれを指でなぞる。


「宙吊りになりながら、彼は決してこの柄を離さなかった。妹の命を救うという、たった一つの強烈な『情動』だけが、彼の肉体の限界を超えさせた。汗と血を流し、指の骨が軋み、筋肉が断裂しようとも、彼は妹の編んだ組紐が結ばれたこの柄を、死の瞬間まで握りしめ続けたのじゃ」


 彼女の静かな宣告が、武器屋の中に響き渡る。


「やがて、寒さと疲労によって彼の命が尽きた後も。彼の手は死後硬直によってこの柄と完全に一体化し、白骨化して風に朽ち果てるその日まで、決してこの短剣を手放すことはなかった。……のちに、霊峰の麓を通りかかったスカベンジャーが、岩肌から滑り落ちてきたこの錆びた短剣と、指の骨の一部を拾い集め、二束三文の鉄屑としてこの店に売り払った。……これが、この短剣がここにある『物理的必然』であり、真実のルーツじゃ」


 完全なる静寂が、武器屋を支配した。

 炉の炎の音すらも遠く聞こえる。

 ドワーフの店主は、持っていたハンマーを床に落とし、煤だらけの顔を歪め、呆然と如月さんを見つめていた。


「この赤錆は、単なる酸化鉄ではない。名もなき冒険者が流した血と汗、そして妹への断ち切れぬ想いが、数百年という時間をかけて鋼と結合した『情動の結晶』じゃ。そしてこの刃こぼれは、世界を救うためなどではなく、ただ一人の愛する家族を救うためだけに、絶望的な運命に抗い続けた『人間の意志の傷跡』じゃ」


 如月さんは、大きく開かれたドレスの胸元を張り、誇り高く、絶対的な王者のような威厳を持って、その錆びた短剣を高く掲げた。


「教えてみるがよい、鍛冶屋。……お主の店に並んでいる、魔石の力でピカピカと光るだけの薄っぺらい量産型の魔法剣の中に。この名もなき鉄屑が内包している『歴史の重み』と『情動の質量』を凌駕するような代物が、果たして一本でも存在するのか?」


「……っ!」


 ドワーフの店主は、言葉を失い、太い腕で自身の顔を覆った。

 彼は鍛冶職人として、武器の表面的な切れ味や魔法の属性ばかりを追求し、その武器が使われる『人間の命と歴史』の重さを完全に忘却していた己の浅はかさを、一人の小柄な少女によって完膚なきまでに叩き潰されたのだ。


「……降参だ、嬢ちゃん」


 やがて、店主は深く頭を下げた。


「あんたの言う通りだ。うちの店にあるどの伝説の武器も、その錆びた短剣の重さには、到底敵わねえ。……それは、ただの鉄屑なんかじゃない。紛れもない、一人の人間の『至高の魂』そのものだ」


 僕は、秘書官の時と同じように、いや、それ以上の強烈な感嘆と畏敬の念で、如月瑠璃の横顔を見つめていた。

 剣と魔法のファンタジーという、魔法がすべてを解決する空想の世界。

 そんな世界にあって、彼女は魔法の力を一切使うことなく、純粋な物理的観察と論理的推論だけで、ただのゴミと捨てられていた鉄屑から、いかなる伝説の武器よりも尊く、重い『真実の物語』を掘り起こしてしまったのだ。


(やっぱり、この人は規格外だ……)


 彼女は他人の情動に共感して涙を流すようなことは決してしない。

 名もなき冒険者の悲劇も、彼女にとっては『物理現象の副産物』として冷徹に解き明かしたに過ぎない。しかし、彼女が真理を暴き出すことによって、忘れ去られていた冒険者の想いは、数百年越しに確かに報われ、僕たちの心に強烈な質量を持って刻み込まれたのだ。


 ファンタジー特有の大胆なコルセットドレスを纏い、純白の手袋を煤で汚しながら、錆びた短剣を美しく掲げる孤高の鑑定士。

 そのブレない絶対的な『フォーマット』を前にして、僕は、伝説の勇者の鎧などという上辺だけの飾りがひどく安っぽく思えてしまい、ただ無言で、彼女の放つ知の光に圧倒されることしかできなかった。



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