第3話『冒険』(前編) ~section 2:王の悲願と、魔力石のノイズ~
僕たちの足音が、重厚な大理石の回廊にひどく冷たく反響している。
先頭を歩く僕の全身から発せられる、ガチャガチャという重々しい金属音。その後ろから続く黒田さんの地鳴りのような足音。そして、如月瑠璃と翡翠さんという如月姉妹が歩くたびに擦れ合う、極上の布地が奏でる衣擦れの音。
それらの音が、荘厳な空気に満ちた王城の廊下の奥深くへと吸い込まれていく。
(……それにしても、歩きにくい。重い。そして何より、目のやり場に困る……っ!)
伝説の勇者のフル装備という、男子高校生なら誰もが一度は夢見るシチュエーションのど真ん中に放り込まれながら、僕の精神状態は極度の緊張と混乱、そして猛烈な『思春期のバグ』によって、かつてないほどの疲労と胃痛を感じていた。
無理もない。先ほど自分の脳内で勝手に構築されたこの異世界ファンタジーという設定は、パーティメンバーの衣装までもを、極めて非日常的かつ、僕の理性を容赦なく削り取ってくる暴力的な仕様へと強制的に改変してしまっていたのだから。
特に、僕の左側を歩く『鑑定士』の如月さん。
普段の彼女が絶対に晒すことのない肌の露出。そして、歩調を合わせるたびに、あるいは少し前傾姿勢になるたびに、大きく開かれた首元から無防備にこぼれ落ちそうになる、一六歳の少女としての柔らかな起伏。
それが僕の視界の端を掠めるたびに、僕の脳内CPUはけたたましいエラー音を鳴らし、思考回路を完全に焼き切ろうとしていた。
「サクタロウ。歩行のペースが落ちておるぞ。甲冑の重量バランスと関節の可動域にまだ適応できておらんのか? 勇者というジョブに設定された筋力パラメータの恩恵を受けているはずじゃが、お主自身の根源的な運動神経の劣悪さが、システム側の物理的な補正を完全に相殺しておるようじゃな。愚鈍なことじゃ」
「ち、違いますよ! 慣れない鎧のせいじゃなくて……その、別の意味で真っ直ぐ前を向いて歩くのが精一杯というか……!」
僕が視線を不自然なほど高く上げ、天井の豪華なシャンデリアにピントを逃がしながら必死に弁明していると、前方を塞いでいた巨大なオーク材の両開き扉の前に到達した。
そこには、全身を銀の鎧で包んだ屈強な近衛兵たちが立ち並んでおり、僕たちの姿を認めるなり、一斉に姿勢を正して手にした長槍を高く掲げた。
「おお、伝説の勇者様ご一行ですね! 国王陛下が謁見の間でお待ちです!」
兵士たちが、ギギギギギ……と重々しい地響きのような音を立てて、数メートルはある巨大な扉を内側へと押し開いていく。
その瞬間、僕の視界に飛び込んできたのは、これまでの人生で見たこともないような、圧倒的なスケールと荘厳さを誇る『謁見の間』の光景だった。
ドーム状に高く吹き抜けられた天井には、この世界の創世神話でも描かれているのか、極彩色に彩られた巨大なフレスコ画が一面に広がっている。壁際には等間隔に配置されたクリスタルの燭台が、ゆらゆらと青白い魔法の炎を揺らめかせ、床には王の玉座へと一直線に伸びる、血のように赤い豪奢な絨毯が敷き詰められていた。
そして、その赤絨毯の最奥。
十数段の大理石の階段を上った先にある、黄金と無数の宝石で装飾された巨大な玉座に、深く腰を下ろしている一人の初老の男がいた。
白い豊かな髭を蓄え、威厳ある王衣を身に纏い、頭上には煌びやかな宝石が散りばめられた巨大な黄金の王冠を戴いている。誰もが一目で『国王』だと認識できる、威厳と、そして深い悲哀に満ちた姿。
だが、僕の目を最も強烈に惹きつけたのは、その王様自身の姿ではなかった。
王が座る玉座の周囲、半径三メートルほどの空間を、半透明の巨大な『光のドーム』がすっぽりと覆い隠していたのだ。
それは、まるで真夏のコンクリートの上に立ち込める陽炎のように空間の光を複雑に屈折させ、表面にはオーロラのような七色の魔力光が、六角形の幾何学的な紋様を細かく明滅させながら、ゆっくりと波打っている。
(ま、魔法のバリア……! これが本物の魔力障壁だ……!)
月見坂市や国会議事堂のセキュリティシステムとは次元の違う、ファンタジー世界特有の『物理法則を完全に無視した超常の力』を目の当たりにし、僕の背筋にゾクゾクとした純粋な興奮が走った。
「よくぞ参られた、伝説の勇者とその仲間たちよ」
玉座に座る国王が、深く、しかしどこか疲労の滲む重々しい声で語りかけてきた。魔法のバリアという特殊な媒質を通して響くその声は、わずかにエコーがかかったように空間の空気をビリビリと震わせる。
僕たちは赤絨毯の中央、階段の下で足を止めた。
僕は『勇者』としての役割を全うすべく、右手を左胸の装甲に当て、片膝をつこうとした。……が、ガシャン!と金属の鎧の継ぎ目が盛大に引っかかり、危うく前のめりに転びそうになってしまう。
「ふふっ、光太郎くん、無理しなくていいのよ? ここは私が代表してご挨拶しましょうか?」
背後から翡翠さんが、甘い香水と微かなオゾンのような魔法の匂いを漂わせながら、僕の耳元で蠱惑的に囁く。その吐息がかかっただけで、僕の心臓の鼓動は再び跳ね上がった。
「あ、いえ……大丈夫です。僕がやりますから」
僕は必死に平静を装い、国王を見上げた。
「国王陛下。我ら一行、陛下の召喚の儀に応じ、ここへ推参いたしました」
自分でも驚くほど、それっぽいセリフが淀みなく口をついて出た。夢のシステムによる自動補正のおかげだろう。
「うむ。勇者よ、そなたの出立をどれほど待ちわびておったことか」
国王は、玉座の手すりを強く握りしめ、顔に深いシワを刻んで悲痛な面持ちで語り始めた。
ここから先は、おそらくRPGにおける定番中の定番、魔王の恐ろしさと世界を救ってほしいという懇願の長大なイベントシーンが始まるはずだ。僕はしっかりと王様の目を見て、その重い言葉を受け止めようと姿勢を正した。
「今、この世界はかつてない未曾有の危機に瀕しておる。遥か北の果て、死の瘴気に包まれた暗黒の大地より復活した魔王の軍勢が、我が王国の強固な国境線を容易く突破し、罪なき民の住まう平和な村々を次々と阿鼻叫喚の火の海に変えておるのだ。空は常に禍々しい魔の雲に覆われ、太陽の恵みは遮られ、大地は枯れ果て、人々は恐怖と絶望のどん底でただ涙を流し続けておる……」
王様の言葉は、あまりにもテンプレ通りというか、王道を行き過ぎている悲劇の語り口だった。
しかし、その声には確かな悲しみと、一国の民の命を背負う者としての重責が痛いほどにこもっているように聞こえた。僕は「はい」「なんと……」と、適度に勇者らしい相槌を打ちながら、真剣にその話を聞こうと努めた。
だが。
僕のそのささやかな勇者としての努力は、隣に立つ一人の少女の『予想通りの行動』によって、極めて困難、いや、実質的に不可能なものへと変わってしまった。
「……む」
僕のすぐ左側に立つ如月さんが、不意にくぐもった声を漏らし、上半身をスッと前傾させたのだ。
普段の彼女であれば、どんなに身を乗り出そうが、どんな姿勢を取ろうが、あの漆黒のゴシックドレスがその身体のラインを鉄壁の防御で隠蔽してくれる。
しかし、今の彼女は違う。
彼女が玉座の方を凝視しようと、膝をわずかに曲げ、背筋を伸ばしたまま上半身を前へと倒した瞬間。
非情な重力の法則に従って、その白く柔らかな胸元の起伏が、大きく開かれたドレスの縁から極めて危険な角度で、そして極めて無防備に、僕の視界の端へとこぼれ落ちそうになったのだ。
(ッ……!! な、なにやってるんですか如月さん!?)
僕の脳内で、緊急警報のサイレンがけたたましく鳴り響いた。
国王が『魔王の非道なる行いによって失われた命』について涙ながらに熱弁を振るっているこの最高にシリアスな場面で。
僕は国王の悲痛な顔と、視界の左下で激しく自己主張してくる如月瑠璃の『一六歳の少女としての柔らかな渓谷』という、絶対に脳内で両立させてはいけない二つの情報の処理に追われ、頭が完全にパンクしそうになっていた。
「勇者よ、聞いておるか。魔王の力はあまりにも強大であり、我ら人間の正規軍が放つ剣の斬撃や、宮廷魔術師の束ねた魔法ですら、奴の張る絶望の結界に傷一つすらつけることができぬのだ。我らに残された最後の希望は、かつて初代国王と共に魔王を封じたという、そなたの腰にある伝説の聖剣を持つ者だけなのだ……」
「は、はいっ! もちろんです、陛下! 我々にお任せを!」
僕は、顔を茹でダコのように真っ赤にしながら、声のボリュームを無駄に上げて裏返った声で返事をした。そうでもしなければ、僕の視線が抗いがたい引力によって完全に左下へと吸い込まれてしまいそうだったからだ。
頼むから、真っ直ぐ立っていてくれ。大人しく話を聞いていてくれ。
そう祈るような気持ちで如月さんを横目で盗み見ると、彼女は国王の話など、文字通り『鼓膜を振動させるだけの単なる環境ノイズ』として完全にシャットアウトしているようだった。
彼女の深いアメジストの瞳は、悲しみに暮れる王の顔でもなければ、国を憂うその切実な表情でもなかった。
彼女の視線は、王の頭上……いや、正確には、王が被っている黄金の王冠の中心に埋め込まれた、巨大な『赤い魔力石』の一点のみに、恐ろしいほどの集中力でピタリと釘付けになっていたのだ。
(……え? 如月さん、なんで王様じゃなくて、王冠の方をそんなにガン見してるの?)
僕が戸惑っている間にも、如月さんはさらに一歩、前へと踏み出した。
そして、あろうことか、大理石の階段の一段目にスッと片足を乗せ、さらに深く、グッともう一段階、上半身を前のめりに沈み込ませたのである。
「……っ!!」
僕の口から、声にならない悲鳴が漏れた。
彼女が深く屈み込んだことで、衣装の締め付けがさらに強まり、ただでさえ危険なラインにあった胸元の渓谷が、限界を超えて僕の視界へと押し出されたのだ。
透き通るような純白の肌。その奥に刻まれた、普段は絶対に知ることのできない彼女の女性的な曲面と、そこから漂う微かな甘い匂いが、僕の理性をドロドロに溶かし、焼き尽くそうとしてくる。
しかも、周囲には完全武装の近衛兵たちが立ち並んでいるのだ。もし彼らが如月さんのこの無防備すぎる姿に気づいたら、不敬罪どころの騒ぎではない。僕は慌てて、彼女と兵士たちの射線を遮るように、自分のマントを広げて立ち位置を微調整した。
「如、如月さん……! ちょっと、姿勢が……その、色々と前傾姿勢すぎやしませんか……!? 見え、いや、その、兵士たちも見てますし……!」
僕は、国王の演説の邪魔にならないよう、極限まで声を潜めて必死に注意を促した。
しかし、彼女は僕の煩悩と焦燥に満ちた声など一瞥もせず、純白の手袋に包まれた右手を顎に当て、アメジストの瞳を限界まで細めていた。
「サクタロウ。静かにせよ。今、極めて興味深い物理的矛盾を観測中じゃ」
「ぶ、物理的矛盾って……ここはファンタジーの夢の世界ですよ!? 本物の魔法のバリアとか、魔王とか、矛盾だらけの世界じゃないですか!」
僕の必死のツッコミに対し、如月さんは鼻で短く、心底馬鹿にしたように笑った。
「愚鈍。現象の表面的な意匠や、空想の設定に騙されるな。いかにそれが『魔法』というふざけたラベルを貼られていようとも、この空間に顕現し、光を屈折させ、空間の座標を占有している以上、それは必ず観測可能な物理法則の支配下にある。……わしが言っているのは、この光のバリアそのもののことではない。その向こう側じゃ」
如月さんは、さらに身体を低く沈み込ませ、顔をわずかに傾けた。
(だから、その体勢は本当に目に毒だってば……!)
僕の内心の血を吐くような絶叫を完全に無視し、彼女は鋭い視線を王冠へと突き刺し続ける。
「この光のドーム……王を保護するための魔力障壁は、一定の波長で空間の屈折率を連続的に変化させ、外部からの物理的エネルギーと魔力的干渉を減衰させるように設計されておる。ここまでは極めて論理的で、美しい数式に基づいた防御システムじゃ。……しかし、問題はその内部にある」
「内部? 王様が被ってる、あの王冠のことですか?」
僕も、彼女の視線の先にあるものを、目を細めて見つめた。
王様はまだ「かつての平和な日々を取り戻すため、勇者よ、どうか我が民を救ってくれ……!」と涙ながらに熱弁を振るっているが、僕の意識もいつの間にか、如月さんの異常な集中力に誘導されるように、王冠の方へと完全にフォーカスさせられていた。
「いかにも。あの王冠の中央に鎮座する、真紅の結晶体じゃ」
如月さんは、赤い唇をわずかに歪め、知的好奇心に満ちた、ゾクッとするほど冷ややかな笑みを浮かべた。
「王の悲願だの、魔王の脅威だの、そのような人間の自己都合から発生した低俗な『情動の音声データ』など、今のわしには何の価値もない。わしの知覚領域を先ほどから激しくノックしてくるのは、あの王冠の魔力石から放たれている、不自然極まりない『光の乱反射』じゃ」
「光の……乱反射?」
「お主のその節穴のような眼球では、ただ赤く綺麗に光っているようにしか見えんじゃろうな。しかし、わしの視座から見れば一目瞭然じゃ。あの魔力石から放たれる光の波長は、王を護るための周囲のバリアの波長と、完全に不協和音を起こしておる」
如月さんは、手袋の指先で空中に見えない幾何学模様を描くようにしながら、早口で分析を続ける。
「通常、王族が身につける魔力付与の宝飾品は、その王城の防衛システムや、王自身の魔力波長と完全に同調するように、極めて精密にカッティングされ、術式が組み込まれるのが物理的必然じゃ。光の干渉縞が生じないように、完璧な調律が施されていなければならん。……しかし、どうじゃ。あの王冠の魔力石のカット面を、よく観察してみよ」
言われて、僕はさらに目を凝らして王冠の赤い石を見つめた。
王の頭上に輝く、純金製の巨大な王冠。その中央にはめ込まれた、鶏卵ほどの大きさの赤い石。その石からは、周囲のオーロラのようなバリアの光とは明らかに違う、少し淀んだような、血のように赤い魔力の光がチロチロと不規則に漏れ出しているように見えた。
「……あ。なんか、石の表面のカットの角度が、少し歪んでる……? 光の反射が、まばらというか……」
「その通りじゃ」
如月さんは、僕の拙い観察を肯定し、満足げに一つ頷いた。彼女が頷くたびに、大きく開いた胸元がふわりと上下に揺れ、僕は慌てて視線を王冠に戻す。
「ミクロン単位の微細なレベルでの話じゃがな。結晶の表面を削り出す際の研磨の角度が、本来の光の屈折率を最適化する数式から、意図的に数度ずらされておる。それに加えて、石を固定している黄金の台座。あそこに彫り込まれている装飾の文様……いや、これは文様ではないな。魔力を制御するためのルーン文字の羅列じゃ」
如月さんの目は、もはや獲物を前にした捕食者のように、妖しい知の光を放っていた。
「そのルーン文字の配列。一見すると王の権威と守護を象徴する規則的な幾何学パターンに見えるが、わしの目には、その文字の彫りの深さや間隔の隙間に、極めて巧妙に隠された『意図的なバグ』が見て取れる。魔力の流れをわずかに阻害し、光を不規則に乱反射させるための、悪意あるエラーコードじゃ」
「あ、悪意あるエラーコード……? じゃあ、あの王冠は昔の職人が作った不良品だってことですか?」
「不良品ではない。これは、それを作った者の『明確な意志』じゃよ、サクタロウ」
如月さんは、純白の手袋の指先を、自らの胸元……大きく開いたドレスの谷間のすぐ上、白い肌の上にそっと添えた。
その仕草があまりにも無防備で艶かしく、僕は再び顔を限界まで赤くして視線を逸らしそうになったが、彼女の全身から発せられる圧倒的な知性のオーラが、僕の思春期の暴走を強制的に押さえ込んだ。
「これほど精巧な魔力石のカッティングと、複雑なルーンの彫金技術を持つ者が、計算ミスや手元の狂いなどで、このような初歩的なエラーを連続して起こすはずがない。これは、職人がわざとやったのじゃ。王を護るためのバリアの中で、常に王の頭上で微弱な不協和音のノイズを鳴らし続け、王の精神と魔力を少しずつ、数百年かけて確実に削り取るために」
「っ……!」
僕は息を呑んだ。
王様が、魔王の手から国を救ってくれと涙ながらに訴えているその頭の上で。
彼が権威と守護の象徴として代々受け継ぎ、今まさに被っている王冠そのものが、彼自身の命を蝕むための『物理的な呪いの装置』だというのか。
「魔王の脅威などというスケールの大きな空想話より、よほど興味深いではないか」
如月瑠璃の唇が、冷酷で、そして最高に美しい弧を描いた。
「いかに魔法という超常の力でコーティングされていようとも、モノを作り出すのは物理的な『手』であり、そこに込められるのは製作者の生々しい『情動』じゃ。……あの王冠のルーツ、そして、あのような悪意のノイズを忍ばせた職人の絶望と怒りの正体。わしの知的好奇心を満たすには、十分すぎる題材じゃな」
「どうか、勇者よ! 我が民を、この世界を救ってくれ! 頼む!」
王様が、玉座から身を乗り出し、演説のクライマックスを迎えて頭を深く下げた、まさにその時だった。
「なんじゃ、あの不自然な魔力の乱反射は。……少々、直接覗き込ませてもらうぞ」
僕が「はい!」と力強く返事をするよりも早く。
如月さんは、大きく胸元が開かれたドレスの裾を優雅に翻し。
王様を守護する絶対不可侵の魔法のバリアに向かって、一切の躊躇なく、その華奢な足を踏み出したのである。
その手に、いつもの精緻な【純銀のアンティークルーペ】を力強く握りしめ、すべての事象を物理的に解剖する鑑定モードへの完全なる移行を果たしながら。




