第2話『総理』 ~section 6:清掃業者と、ダミー会社~
<なぜ、巨大インフラに使うような『重防食塗料の撹拌球』が、総理大臣の演壇のすぐ足元に落ちていたのか>
僕の投げかけた極めて根源的な疑問に対し、如月瑠璃の深いアメジストの瞳は、これまでにないほど鋭く、そして妖しいまでの知的な熱を帯びて輝いた。
彼女の手の中にある直径一センチのガラス玉。科捜研の最新鋭の分析機器によって、その正体が安価で大量生産された『工業用部品』であることが完全に立証された。だが、モノの正体が判明しただけでは、ルーツの探求は終わらない。それが作られた場所から、いかなる経路を辿って現在の位置――すなわち、厳重な警備網に守られた国会議事堂の本会議場の中枢――へと到達したのか。その物理的な移動のプロセスを解き明かしてこそ、初めて『鑑定』は完了するのだ。
完全に封鎖され、外界から隔離された議場内には、科捜研の分析機器が発する低いモーター音と、数百人の国会議員たちが息を殺すかすかな呼吸音だけが漂っていた。
彼らはもはや、国家予算の審議が強制的に中断されたことへの怒りすら忘れ、演壇の頂点に立つゴシックドレスの少女が次に何を口にするのか、まるで神の宣託でも待つかのような畏怖の念を抱きながら見上げていた。
「サクタロウの指摘は、事象の核心を正確に突いておる」
如月さんは、純白の手袋に包まれた指先でガラス玉を弄びながら、冷徹な観察者のトーンで語り始めた。
「物質が空間を移動するためには、必ず物理的な媒体と運動エネルギーが必要となる。この撹拌球が、自らの意志で歩いてこの議事堂の扉をすり抜け、赤絨毯の上に鎮座したわけではない。魔法やテレポーテーションといったオカルト的な論理の飛躍を完全に排除し、極めて現実的な物理法則のみに立脚して推論を構築するのじゃ」
彼女は、議場を見下ろしながら、ゆっくりと演壇の階段を降り始めた。
漆黒のベルベット生地が静かな衣擦れの音を立てる。その一歩一歩が、見えない真実への階段を確実に踏み固めているかのような、絶対的な自信に満ちていた。
「まず、第一の前提条件じゃ。この国会議事堂の内部、およびその周辺敷地内において、フッ素樹脂系の重防食塗料を使用するような大規模な防錆工事は、現在一切行われておらん。議事堂のメンテナンス履歴はすべて管理されており、そのような特異な塗料を持ち込む必然性は皆無じゃ」
如月さんの淀みない言葉に、議場内の設備管理を担当する役人たちが、無言のまま何度も強く頷いている。
「議事堂内に元から存在したものではない。ならば、答えは一つに絞られる。このガラス玉は、外部の工事現場から、何者かの手によって物理的に『持ち込まれた』のじゃ」
「持ち込まれた……? 誰かが故意に、こんなガラス玉を国会に持ち込んだっていうんですか?」
僕が秘書官席から問い返すと、如月さんは首を横に振った。
「故意である確率は極めて低い。こんな無価値な工業部品を、わざわざ金属探知機を潜り抜けて演壇の下に置くという行動には、いかなる論理的メリットも存在しないからじゃ。これは『偶発的な落下』じゃな」
如月さんは、手元のガラス玉を銀のルーペ越しに再び見つめた。
「重防食塗料の撹拌タンクが洗浄される際、あるいは塗料が廃棄される際、内部の撹拌球が外部にこぼれ落ちることは十分に考えられる。そして、その現場で作業をしていた人間の靴の裏の溝、あるいは作業着の折り返しの隙間に、この直径一センチの小さなガラス玉が偶然入り込んだ」
彼女の描く物理的な移動のプロセスは、まるで録画された過去の映像を巻き戻して再生しているかのように、あまりにも鮮明で生々しかった。
「その人物は、靴底や衣服にガラス玉が付着していることなど露知らず、そのままこの国会議事堂へと足を踏み入れた。そして、演壇のすぐ下を歩行した際、靴底のゴムの摩擦、あるいは衣服の擦れによってガラス玉が転げ落ち、この深紅の赤絨毯の毛足の奥深くに埋もれたのじゃ」
「なるほど……。それなら、金属探知機に引っかからないのも、ここに落ちていたのも説明がつきます」
僕は納得して頷いた。ガラス製の小さな球体であれば、手荷物検査のX線にも映りにくいし、金属探知機のゲートを鳴らすこともない。
「しかし総理。だとしたら、その『ガラス玉を持ち込んだ人物』って、一体誰なんですか? ここは本会議場ですよ。一般人が気軽に入れる場所じゃない。議員か、国会の職員か、あるいは……」
「その通りじゃ、サクタロウ。その『何者か』を特定することこそが、この鑑定の次なるフェーズじゃ」
如月さんは演壇の階段を完全に降りきり、僕のいる総理秘書官席のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。
そして、僕の目の前の机の上に置かれていた、政府高官専用のセキュリティが施されたタブレット端末を、純白の手袋の指先でトントンと叩いた。
「この議場という密室への出入りは、すべて厳密な入退館ログと、無数の監視カメラの映像データによって物理的に記録されておる。サクタロウ、お主の権限でそのタブレットを操作し、過去四十八時間以内にこの本会議場、特に演壇の半径十メートル以内に立ち入ったすべての人物のリストを抽出するのじゃ。それさえ分かれば、重防食塗料を扱う現場に出入りしている人間を絞り込むことは容易い」
「えっ? ぼ、僕がですか!?」
僕は思わず声を裏返らせた。
いくら夢の中の設定とはいえ、僕の中身はただの高校生だ。この分厚い装甲ケースに守られたタブレットの画面には、複雑極まりない暗号化のパスワード要求画面と、見慣れない省庁のインターフェースが表示されている。
「無理ですよ! さっきの科捜研の召集ボタンは運良く一発で押せましたけど、国会の入退館ログのデータベースに直接アクセスするなんて……こんなガチガチのセキュリティ、僕の操作スキルじゃ絶対に解除できませんって!」
僕が半ば涙声で抗議した、まさにその瞬間だった。
「――お下がりください、朔秘書官」
背後から、氷のように冷たく、しかし一切の感情を排した機械的な声が降ってきた。
振り返ると、そこには漆黒のスーツを着た巨漢のSP、黒田さんが立っていた。彼は、演壇の階段の下で完全に戦意を喪失している益田孝市の監視を他のSPに任せ、音もなく僕の背後へと移動してきていたのだ。
黒田さんは、僕の肩を掴んで物理的に座席から引き剥がすこともなく、ただその丸太のような太い両腕を、僕の頭越しにスッと伸ばしてきた。
そして、タブレットの画面に向かって、まるでピアニストが超絶技巧の曲を弾くかのような、常軌を逸した速度で指を走らせ始めたのだ。
タタタタタタタタッ!!!
硬質なタブレットのガラス画面を弾く指先が、完全に残像と化していた。
彼は、総理秘書官の権限パスワードはおろか、衆議院事務局が管理する堅牢なファイアウォールを、ものの数秒で物理的かつ電磁的なハッキングに近い手法で突破していく。
「く、黒田さん……!? アンタ、SPですよね? なんで国会のセキュリティシステムを息をするように解除してるんですか! プログラマーか凄腕のハッカーみたいな手つきじゃないですか!」
僕の驚愕のツッコミに対し、黒田さんは視線をタブレットの画面から一ミリも逸らすことなく、極めて平坦な声で答えた。
「私の任務は総理の障害を排除することだ。物理的なテロリストの制圧から、電脳空間における情報アクセスの障壁排除まで、必要なスキルはすべて網羅している。対象の生体認証をバイパスし、メインサーバーのバックドアから入退館ログのマスターデータへと接続を確立した。……データの抽出を完了」
「アンタの有能さのベクトル、やっぱりおかしいですよ!」
僕の胃の痛みをよそに、黒田さんはタブレットを操作し、その抽出したデータを議事堂の壁面に備え付けられていた巨大なプロジェクター・スクリーンへと直接リンクさせた。
ビーッという電子音とともに、それまで国会の審議予定表が映し出されていた巨大スクリーンが切り替わり、緑色の文字で構成された膨大な入退館記録のリストが滝のように流れ落ちていく。
「見事じゃ、黒田」
如月さんは、その常軌を逸したSPの働きを当然のこととして受け入れ、スクリーンを見上げた。
「さて、絞り込みを開始する。まず、過去四十八時間以内に議場に出入りした国会議員、およびその秘書たちのデータを弾け。彼らが自ら防波堤の補強工事のような重防食塗料の現場に足を運ぶ可能性は、極めて低い。もし視察に行ったとしても、その足で直接議場の赤絨毯に上がり込むような真似は、服装の規定上あり得ん」
「了解です」
黒田さんの指が動き、スクリーンのリストから数百のデータが一瞬にして消去された。
「次に、議事堂の警備を担当する衛視、および国会職員のデータも除外じゃ。彼らの動線は完全に管理されており、外部の汚染された土木現場と接触する機会はない」
さらにデータが削られ、残されたリストはわずか数十件にまで絞り込まれた。
「残るは、外部からこの本会議場に業務目的で立ち入った業者のみ。サクタロウ、そのリストの中で、昨晩、つまりガラス玉が発見される直前の深夜帯に、この演壇の周辺に立ち入った記録のある業者は存在するか?」
如月さんの問いに、僕は黒田が手元に置いたタブレットの画面を覗き込んだ。
絞り込まれたデータの中から、特定の時間帯のログを探す。
「ええと……ありました。昨晩の午後十一時から午前二時にかけて、本会議場の清掃作業に入った業者の記録が一件だけ残っています」
僕は、その業者の名前を読み上げた。
「『月見坂クリーンサービス』。……議事堂の清掃を請け負っている外部の清掃業者みたいです。作業員は三名。彼らの作業エリアは、まさにこの演壇周辺から赤絨毯の通路一帯にかけてとなっています」
「清掃業者、か」
如月さんは、純白の手袋の顎に手を当て、アメジストの瞳を細めた。
「深夜の清掃作業。外部からの出入りが許可され、しかも演壇のすぐ足元という特異点に物理的に接近できる数少ない存在。靴底や作業着に異物を付着させたまま議場に入り込んだとしても、最も怪しまれない職種じゃな」
「じゃあ、その『月見坂クリーンサービス』の清掃員の誰かが、別の土木工事の現場で服にガラス玉をくっつけて、そのままここに清掃に来たってことですか? 確かに、清掃業の人が副業で土木作業をしてるってことはあるかもしれないけど……」
僕の推理を聞き、如月さんは氷のように冷たい視線を僕に向けた。
「事象の表面だけをなぞって満足するのは、あそこに転がっている無能な政治家と同じじゃぞ、サクタロウ」
彼女の辛辣な言葉に、僕はウッと口ごもった。
「清掃業者が副業で土木作業をしていた? そのような都合の良い偶然を、論理の軸に据えるなど言語道断じゃ。重防食塗料を使用するような防波堤の補強工事は、特殊な機材と専門知識を要するプロの領域じゃ。単なる清掃員がアルバイト感覚で立ち入れる現場ではない。しかも、このガラス玉の摩耗の激しさから見て、彼らは塗料のタンクの深部、あるいは廃棄のプロセスにまで関与している確率が高い」
如月さんは、手元のガラス玉を再び高く掲げた。
「つまり、真実は逆じゃ。彼らは『清掃業者が土木の副業をしていた』のではない。初めから『重防食塗料を扱う土建業者が、清掃業者に成りすましてこの国会議事堂に侵入した』のじゃ」
「な、成りすまして……!? でも、いくら何でもそんなこと……入退館のチェックだって厳しいはずだし、偽物の業者ならすぐにバレるんじゃ……」
「身分証や書類の偽造など、背後に権力者がいればいかようにもなる。重要なのは、彼らが『清掃』という物理的プロセスを、この議場でどのように偽装したかじゃ。黒田、昨晩のその時間帯の、本会議場内の監視カメラの映像データをスクリーンに展開せよ」
「承知」
黒田さんの指が再びタブレットの上で舞い、巨大スクリーンの表示が、緑色の文字の羅列から、白黒の不鮮明な防犯カメラの映像へと切り替わった。
画面に映し出されたのは、議員たちのいない、暗く静まり返った深夜の衆議院本会議場だった。
その中央、赤絨毯の上を、揃いの青い作業着を着た三人の男たちが動いている。一人はゴミ袋を持ち、もう二人は、床の汚れを落とすための業務用の大型ポリッシャーや、巨大な業務用掃除機のような機材をゆっくりと押し歩いていた。
「どうだ、サクタロウ。お主の眼球の解像度で、この映像から何か『物理的な矛盾』を見出せるか?」
如月さんの問いに、僕は目を凝らしてスクリーンを睨みつけた。
しかし、僕の目には、ただ真面目に夜間の清掃作業をしているおじさんたちの姿にしか見えない。機材の動かし方も手慣れているように見えるし、特に怪しい動きをして演壇の下に何かを隠しているような素振りもない。
「いや……ごく普通の清掃風景にしか見えません。業務用掃除機を動かして、絨毯のゴミを吸い取っているだけで……」
「やはり、お主の観察眼は節穴じゃな」
如月さんは深くため息をつくと、銀のルーペを手にして、巨大スクリーンの前へと歩み寄った。
「よく見るのじゃ。彼らの行動や表情という不確かな『情動』の情報を捨てろ。ただ純粋に、物体と物体が接触する際に生じる『物理法則』のみに焦点を絞るのじゃ」
彼女は、ルーペ越しにスクリーンの映像の一部を睨みつけた。
「黒田、映像のタイムコード〇二時十四分、中央の男が大型ポリッシャーを押し歩いている場面を拡大し、スロー再生せよ」
映像がズームアップされ、コマ送りのようにゆっくりと動き始める。
「サクタロウ。この赤絨毯の材質と厚みを思い出せ。最高級の羊毛が密に織り込まれ、歩くたびに足が深く沈み込むような、極めてクッション性の高い構造をしておる。さて、あの男が押している業務用ポリッシャー。モーターと重りを内蔵したあの機材の重量は、スペックシート上、通常であれば最低でも四十キログラムは下らんはずじゃ」
「四十キロ……結構な重さですね」
「いかにも。では、その四十キロの質量を持つ硬質な機材のキャスターが、この柔らかく分厚い赤絨毯の上を転がる時、物理的にどのような事象が発生するか」
如月さんの指先が、スクリーンの中の、機材の車輪と赤絨毯が接している部分をピタリと指し示した。
「四十キロの荷重が、わずか数平方センチのキャスターの接地面に集中する。フックの法則に基づく絨毯の反発係数を考慮しても、車輪は絨毯の毛足を完全に押し潰し、数センチは深く『沈み込む』のが物理的必然じゃ。そして、その深く沈み込んだ車輪を前に押し進めるためには、作業員は上半身に相当な運動エネルギーを要求され、足の踏み込みや腕の筋肉の収縮といった、目に見える『力学的負荷』が姿勢に現れるはずじゃ」
僕は、如月さんの指摘に従って、映像の中の男の動きを改めて凝視した。
そして、ハッと息を呑んだ。
「……沈んでない」
「その通りじゃ」
如月さんの唇が、残酷な真理を暴き出す弧を描いた。
「映像の中のポリッシャーの車輪は、赤絨毯の表面を撫でるように滑っているだけで、全く深く沈み込んでおらん。さらに、機材を押している男の歩行姿勢。上半身に力が入っておらず、腕の角度にも負荷がかかっている痕跡が皆無じゃ。四十キロの機材を毛足の長い絨毯の上で押しているとは到底思えぬ、軽快すぎる足取りじゃ」
彼女の完璧な物理的観察眼が、映像の中に隠されていた決定的な矛盾を、完全に白日に晒したのだ。
「この映像が証明する物理的真実はただ一つ。彼らが押しているあの清掃機材は、中身のモーターも重りもすべて抜き取られた、ただのハリボテ……『重量のないダミー機材』じゃ。彼らは清掃をしているフリをして、この議場の中を歩き回っていたに過ぎん」
「ダ、ダミー機材……! じゃあ、本当に彼らは清掃業者なんかじゃなくて……」
「いかにも。『月見坂クリーンサービス』などというペーパーカンパニーを隠れ蓑にして、この国会議事堂の中心に侵入してきた、正体不明の土建業者じゃ。そして、その偽装作業の最中、彼らの作業着の折り返しに挟まっていた重防食塗料の撹拌球が、この赤絨毯の上にこぼれ落ちたのじゃ」
議場に、再び戦慄の波が走った。
たった一個のガラス玉。そこから科捜研の分析によって引き出された塗料の成分。そして、監視カメラ映像の『絨毯の沈み込み』というミクロな物理的矛盾。
これらすべてを、如月瑠璃という一人の少女の知性が完全にリンクさせ、議場に潜入したダミー会社の存在を論理的に暴き出してしまったのだ。
「しかし如月さん。土建業者がわざわざダミー会社を作ってまで、深夜の国会に侵入する目的って一体何なんですか? 泥棒にしては機材が大きすぎるし、テロリストならとっくに爆発してるはずです」
僕の疑問に、如月さんは深いアメジストの瞳を細め、演壇の下で黒田に拘束されたまま震えている野党の重鎮、益田孝市を見下ろした。
「泥棒やテロリストのような、直接的な物理的破壊が目的ではない。彼らの目的は『密談』、あるいは『物理的な証拠を残さない裏金の受け渡し』じゃ。……そして、その密談の相手こそが、この厳重な国会のセキュリティを内部から操作し、ダミー業者を招き入れる権力を持った人間じゃな」
益田の顔から、最後の血の気が完全に引き、土気色に染まっていくのが見えた。
彼の狡猾な処世術も、もはやこれまでだ。
如月瑠璃の放つ論理の包囲網は、ダミー会社の背後にある巨大な資金の流れと、この腐敗した政治家との決定的な繋がりという、事件の最深部へと確実にその牙を剥き出しにしようとしていた。




