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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『総理』 ~section 5:成分分析と、工業用の撹拌球~

 外界からのすべての通信と物理的アクセスが完全に遮断され、巨大な密室、あるいは『隔離された鑑定室』と化した衆議院本会議場。

 本来であれば、国家予算という何十兆円もの数字が飛び交い、日本という国の未来の骨格を形作るための最も重要かつ神聖な議論が行われるべきその空間は今、異様という言葉すら生ぬるい、完全な静寂と狂気に支配されていた。


 議場をすり鉢状に囲む数百人の国会議員たちは、もはや誰一人として声を上げることはなかった。

 彼らは、漆黒のゴシックドレスを身に纏い、純白のオーダーメイド手袋でたった一個の『ガラス玉』を弄ぶ内閣総理大臣・如月瑠璃の放つ、絶対零度の理化学的な威圧感の前に、完全に魂を抜かれたように硬直している。先ほどまで『民主主義の危機』などと声高に叫び、突進してきた野党の重鎮・益田孝市に至っては、SPである黒田さんの圧倒的な暴力によって物理的に制圧され、さらに如月さんの冷徹な生体反応の解体によって精神的にも完膚なきまでに叩きのめされ、演壇の階段の下で力なくうずくまったままである。


 国会という、言葉と権力と情動が支配する人間の作り上げたシステムが、ただ一人の少女の『物理的真理の探求』という純粋なエゴによって、完全に停止させられてしまったのだ。


『……胃が、本当に溶けるかもしれない』


 総理秘書官席に座る僕は、オーダーメイドスーツの腹部を両手で強く押さえ込みながら、油汗を流して荒い息を吐いていた。

 こんな前代未聞のクーデターのような真似を引き起こしておいて、後で一体どうやって責任をとるつもりなのだろうか。いや、あのブレない孤高の天才のことだ。「責任などという抽象的な概念は、物理法則の前では一切の質量を持たん」とでも言い放って、平然と紅茶をすするに決まっている。彼女にとって、この議場にいる議員たちも、僕の抱える致死量のストレスも、すべては目的のルーツを解明するための『排除された環境ノイズ』に過ぎないのだ。


 カチャリ。


 重苦しい静寂を破り、議事堂の後方、本会議場の入り口を封鎖していた重厚なケヤキの両開き扉から、金属的なロックの解除音が響いた。


「――到着したか」


 演壇の上で腕を組んでいた如月さんが、深いアメジストの瞳を扉の方へと向けた。

 扉が重々しい音を立てて外側に開かれ、そこから議場内へと雪崩れ込んできたのは、政治家や官僚たちとは全く次元の異なる、異質な集団だった。


「け、警視庁科学捜査研究所の特別チームです! 緊急出動要請を受諾し、現場に急行いたしました! ば、爆発物、あるいは生物兵器によるテロ事案と伺っておりますが、現場の状況は……っ!?」


 全身を白い防護服とN95マスクで厳重に包み込み、手には大型のジュラルミンケースや可搬型の分析機材を抱えた五名の科捜研の職員たち。彼らは、息を切らしながら議場へと足を踏み入れた瞬間、自分たちの目の前に広がる光景のあまりのシュールさに、言葉を失って完全にフリーズした。


 無理もない。

 彼らが想定していたのは、サリンなどの毒ガス散布や、要人を狙った爆発物テロといった、国家を揺るがす深刻なクライシスだったはずだ。

 しかし、現場であるはずの国会議事堂の本会議場に広がっていたのは、怪我人でも血の海でもなく、ただ呆然と立ち尽くす数百人の国会議員たちと、倒れ伏す一人の野党議員。そして、演壇の上でゴシックドレスを翻す、この場に最も不釣り合いな美少女の姿だけだったのだから。


「状況の確認は後じゃ。早く中へ入れ」


 如月さんが冷ややかに言い放つが、科捜研のチームは混乱の極みにあり、足を一歩も動かすことができない。


「止まれ」


 彼らが立ち尽くしていると、その行く手を遮るように、漆黒のスーツを着た巨漢――黒田さんが、まるで瞬間移動でもしたかのような速度で扉の前に立ちはだかった。


「ひっ!?」


「な、なんだ君は! 我々は警視庁の……!」


「身分は承知している。だが、ここから先は総理の絶対領域(サンクチュアリ)だ。いかなる例外も認めない」


 黒田さんは、科捜研の職員たちの抗議を完全に無視し、一切の感情を排した機械的な動作で、彼らの身体と持ち込んだジュラルミンケースに対し、極めて厳重なボディチェックを開始した。

 金属探知機を舐めるように這わせ、ポケットの裏地、防護服の継ぎ目、さらには分析機材のケースのロック部分に至るまで、テロリストに対するそれと全く同じレベルの物理的検査を、文字通り瞬き一つせずに遂行していく。


「よし。危険物の持ち込みなし。機材の重量バランスに異常なきことを確認。……通れ」


 数十秒という驚異的な速度で五人全員のチェックを終えた黒田さんが、スッと道を空ける。

 科捜研の職員たちは、完全に黒田さんの放つプロフェッショナルな殺気に呑まれ、まるで蛇に睨まれた蛙のように震えながら、言われるがままに演壇の下、赤絨毯の中央へと機材を運び込んだ。


「遅い。要請から到着まで、予定時刻を三分一二秒も超過しておる。日本の警察機関の初動対応能力の低さは、致命的な物理的エラーじゃな」


 演壇から見下ろす如月さんが、労いの言葉の代わりに冷酷な事実を突きつけた。

 科捜研のリーダーらしき初老の男性が、防護服のマスク越しに顔を真っ赤にして反論しようとする。


「ちょ、超過って……! 我々は重い機材を抱えて、パトカーで赤信号をすべて無視して駆けつけてきたんですよ! それに、ここは一体どういう状況なんです!? テロの危険があると言われて急行したのに、対象物というのは一体……!」


「無駄口を叩くな」


 如月さんの声帯から放たれた氷の刃が、科捜研リーダーの言葉を根元から切断した。


「わしはお主らの言い訳や、状況確認の無意味な音声データを聞くために、この議場に召集したのではない。お主らは今から、わしの脳内にある仮説を立証するための、単なる『測定用の手足』としてのみ機能せよ。自らの意思による推論や感情は一切不要じゃ。即座に機材を展開し、分析の準備を整えるのじゃ」


 一国の総理大臣からの、人間の尊厳すらも測定機器のパーツと同列に扱うかのような、恐ろしく冷徹な命令。

 科捜研のチームは、彼女の深い紫色の瞳の奥に宿る『知の狂気』に完全に圧倒され、反論することすら忘れ、無言でジュラルミンケースを開き始めた。


 赤絨毯の上に、次々と物々しい機材が展開されていく。

 可搬型のガスクロマトグラフ質量分析計、デジタルマイクロスコープ、そして携帯型のラマン分光分析装置。本来であれば警視庁の無機質なラボの中で使用されるはずの最先端の科学捜査機器が、国会という政治の舞台の中心に並べられていく光景は、もはやコメディを通り越して一種のシュールな前衛芸術のようだった。


「準備が完了しました。……して、総理。我々が分析すべき『対象物』とは、一体どこにあるのでしょうか。起爆装置の部品ですか? それとも、未知の化学物質の入ったアンプルか何かで……」


「これじゃ」


 如月さんは、演壇の階段を数段降り、純白の手袋に包まれた右手を科捜研のリーダーの目の前へと差し出した。

 その指先には、議場の照明を浴びてチープな光を放つ、直径一センチの『小さなガラス玉』が一つ、ぽつんと摘ままれていた。


「……は?」


「ガラス、玉……? ビー玉、ですか?」


 科捜研のチーム全員が、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、その小さなガラス玉と如月さんの顔を交互に見比べた。

 無理もない。彼らは命懸けでテロの証拠品を分析しに来たのだ。それが蓋を開けてみれば、そこら辺の公園の砂場に落ちていそうな薄汚れたビー玉一つだったのだから。


「ええと……総理。我々は非常に多忙でありまして、このような子供の玩具の分析などに付き合っている暇は……」


「愚鈍」


 如月さんの声のトーンが、さらに一段階下がった。


「その陳腐な先入観に基づく眼球の解像度の低さが、お主らがいつまで経っても二流の測定機器から抜け出せない原因じゃ。わしが先ほどこの議場で初期観察した結果、このガラス玉は真球度が極めて低く、内部に不規則な気泡を持ち、表面には激しい密閉空間での摩耗痕が刻まれている。これは玩具ではない。特異なルーツを持つ工業的痕跡じゃ」


 如月さんは、ガラス玉を科捜研が用意したシャーレの上へと、ピンセットを用いて極めて慎重に落とした。コトン、という小さな音が、静まり返った議場に響く。


「さあ、作業を開始せよ。まずはデジタルマイクロスコープによる表面の微細な傷のパターンの記録。それと並行して、屈折率の厳密な測定を行うのじゃ。使用する光源は、波長五八九・三ナノメートルのナトリウムD線に設定せよ。わずかな誤差も許さんぞ」


「な、ナトリウムD線……!? なぜ総理大臣が、光学分析の精密な設定基準までご存知なのですか……!」


「指示されたことだけを忠実に実行せよ、測定機器たちよ」


 科捜研の職員たちは、もはや彼女がただの少女の姿をした何か別の『知の化身』であるかのように畏怖し、慌てて機材のキャリブレーションを開始した。


 議場には、議員たちの息を呑む音と、分析機器が発する微かなモーター音、そして電子的なビープ音だけが響き渡る。

 マクロ経済や国家予算といった、人間が紙の上で作り出した『空想の産物』は完全にどこかへ消え去った。今ここにあるのは、たった一個のガラス玉の表面に刻まれた物理的真実を解き明かすための、純粋な科学的プロセスの進行のみである。


「……屈折率、測定完了しました。nd値──ナトリウムD線における屈折率──は、一・五二。一般的なソーダ石灰ガラスの数値とほぼ一致しますが、不純物の混入により、局所的なばらつきが極めて大きい状態です。やはり、光学レンズや装飾品として精密に精製されたものではありません」


 科捜研のオペレーターが、モニターの数値を読み上げながら報告する。


「想定通りじゃ。真球度と透明度を犠牲にしてでも、大量かつ安価に製造する必要があった工業製品という証明じゃな。次じゃ。表面の白濁した摩耗痕の部分。そこに極微量の異物が付着しているはずじゃ。携帯型ラマン分光分析装置を用いて、その付着物の分子構造を特定せよ。レーザー出力は表面の物質を破壊せぬよう、最低レベルに絞るのじゃぞ」


「は、はい! ただちに!」


 科捜研の職員たちは、もはや自らの上司に対するよりも素直に、如月さんの的確すぎる指示に従って動いていた。

 探触子(プローブ)から微弱なレーザーが照射され、ガラス玉の表面で散乱した光のスペクトルが、モニター上に複雑な波形となって表示されていく。


 数分間の、息の詰まるような沈黙。

 僕の胃の痛みは、この異様な鑑定プロセスの進行と共に、少しずつ麻痺して感覚を失いつつあった。もうどうにでもなれ、という究極の諦観が僕の心を支配し始めていたのだ。


 ピーッ、という高い電子音が鳴り、モニター上の波形の解析が完了したことを知らせた。


「……解析結果、出ました」


 科捜研のリーダーが、モニターの数値を覗き込み、信じられないものを見るように目を瞬かせた。


「表面の微細な傷の深部から、極めて微量ですが、特定の有機化合物のピークが検出されました。……これは、合成樹脂……いや、C-F結合のピークが極めて顕著に出ています。ポリテトラフルオロエチレン……いわゆる『フッ素樹脂』を主成分とする物質です。さらに、微量の顔料の成分も……」


「塗料、じゃな」


 如月さんが、アメジストの瞳を鋭く細め、科捜研の報告を先取りするように断言した。


「しかも、ただの塗料ではない。フッ素樹脂系塗料。建築物や橋梁、あるいは巨大なプラントなどにおいて、強烈な紫外線や塩害から素材を長期間保護するために使用される、極めて耐久性の高い『重防食(じゅうぼうしょく)塗料』の成分じゃな?」


「そ、その通りです……! しかし、なぜ総理がそこまで……」


「すべてのピースは揃った」


 如月瑠璃は、科捜研のリーダーの驚愕を完全に無視し、漆黒のゴシックドレスの裾を翻して、再び議場全体を見渡すように演壇の頂点へと登った。

 彼女の純白の手袋に包まれた手には、再びシャーレから取り出されたガラス玉が掲げられている。


 数百人の国会議員たちが、息を殺して彼女の次なる言葉を待っていた。

 たった一個のガラス玉から、最新の科学捜査機器を用いて引き出された、目に見えないミクロン単位の化学成分。それが一体、この国会の議場に何をもたらすというのか。


「お主らのような、権力と数字のフィクションにしか興味のない者たちのために、この物理的証拠が示す絶対的な真実を言語化してやろう」


 如月さんの澄み切った声が、静寂の議場に、まるで教会の鐘の音のように美しく、そして冷徹に響き渡った。


「真球度が低く、気泡を含んだ安価なソーダ石灰ガラス。表面に刻まれた、密閉空間での激しい衝突による無数の摩耗痕。そして、その傷の奥深くに付着していた、巨大インフラ用の『フッ素樹脂系・重防食塗料』の成分」


 彼女は、掲げたガラス玉を、まるでチェスのチェックメイトを宣言するプレイヤーのように、ゆっくりと空間に固定した。


「これらすべての物理的データが証明する、このガラス玉の真の用途。それは、工業用の大型スプレー缶、あるいは特殊塗料の巨大な攪拌(かくはん)タンク内に封入される『撹拌用のガラス球』に他ならん」


「かくはん、きゅう……?」


 僕の口から、無意識にその単語が漏れ出た。

 市販のスプレー缶のペンキを振った時に、中で『カラカラ』と音を立てるあの玉のことか。


「いかにもじゃ、サクタロウ」


 如月さんは、僕の呟きを正確に拾い上げ、頷いた。


「フッ素樹脂系の重防食塗料は、顔料や樹脂成分が沈殿しやすく、極めて粘度が高い。そのため、使用前に内部の液体を均一に混ぜ合わせるための『撹拌球』が必須となる。金属製の球では塗料と化学反応を起こす危険性があるため、このような安価なガラス球が大量に採用されるのじゃ。転がす必要がないため真球度は全く要求されず、長期間、高粘度の塗料の中で激しく容器の壁や他の球と衝突し続けるため、表面にはこのような無数の白い摩耗痕が刻み込まれる」


 完璧な論証だった。

 なぜ真球度が低いのか。なぜ気泡があるのか。なぜ表面が傷だらけなのか。そしてなぜ、フッ素樹脂塗料が付着しているのか。

 それらすべての『不自然な矛盾』が、彼女の提示した『工業用塗料の撹拌球』というたった一つの答えによって、美しい一本の数式のように完璧に解き明かされてしまったのだ。


「す、すごい……本当に、ただのビー玉じゃなかった……」


「これが、総理の……いや、如月瑠璃の鑑定……」


 議場のあちこちから、先ほどまでの怒号とは全く違う、純粋な驚嘆と畏怖の混じったため息が漏れ聞こえ始めた。

 彼女は、国会を停止させ、科捜研を私物化するという暴挙に出た上で、見事にこの『床のゴミ』の正体を、科学的かつ物理的に証明してみせたのだ。


 しかし。

 僕の脳裏に、強烈な疑問が湧き上がってきた。

 確かに、このガラス玉の正体は分かった。それが特殊な工業用塗料の撹拌球であることは、完全に立証された。


 だが。


「総理……ルーツが分かったのは凄いですけど。でも、一番の謎が残ってますよ」


 僕は、秘書官席から、胃の痛みを堪えながら立ち上がり、彼女に向かって問いかけた。


「なぜ、そんな巨大インフラに使うような『塗料の撹拌球』が……国会議事堂の、それも総理大臣の演壇のすぐ足元の赤絨毯の上に、ぽつんと落ちていたんですか?」


 僕のその問いかけに。

 如月瑠璃の深いアメジストの瞳が、これまでにないほど鋭く、そして妖しく光を放った。


「その通りじゃ、サクタロウ。そこから先こそが、この鑑定における真の『深淵』じゃ」


 彼女の冷たい笑みが、議場の空気をさらに数度、物理的に凍りつかせた。

 たった一個のガラス玉の正体。それは、これから始まる恐るべき国家規模の腐敗とトリックを解き明かすための、ほんの入り口に過ぎなかったのだ。



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