第2話『総理』 ~section 3:国家予算と、真球度の低さ~
数秒前まで、圧倒的な物理的データの乱れ撃ちによって完全なる真空地帯と化していた衆議院本会議場は、一人の少女――内閣総理大臣・如月瑠璃――が演壇から降り、赤絨毯の上に這いつくばったという前代未聞の異常行動をトリガーとして、一気に沸点を超えた。
「な、なんだ!? 総理が床にうずくまったぞ!」
「急病か!? 誰か医者を呼べ!」
「いや違う! 何か床に落ちているゴミを……ルーペで覗き込んでいるぞ!?」
「本会議中だぞ! 何を考えているんだ!」
数百人の国会議員たちが一斉に立ち上がり、怒号と悲鳴が入り混じったような叫び声を上げる。
議場を見下ろす二階の記者席・傍聴席は、さらに凄まじいパニックに陥っていた。テレビ中継のカメラマンたちは『総理の奇行』という世紀のスクープ映像を逃すまいと、巨大な望遠レンズを一斉に赤絨毯の上でうずくまるゴシックドレスの少女へと向け、無数のフラッシュが狂ったように焚かれ続ける。議場全体が、まるでストロボライトの中に放り込まれたかのように白く明滅していた。
そんな阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、ただ一人、この致命的な異常事態を『起死回生の最大の好機』と捉え、内なる歓喜に打ち震えている男がいた。
先ほどまで如月総理の冷徹な論理によって完膚なきまでに叩きのめされ、マイクの前で蝋人形のように硬直していた野党の重鎮・益田孝市である。
彼は、自らの不手際で基幹産業の輸出低下を招いたという事実を突きつけられたばかりだというのに、その都合の悪い事実を数秒で脳内から完全にデリートするという、ある意味で政治家として極めて優秀な──そして人間として最低な──防衛本能を発揮した。
益田は、血の気が引いていた顔を再び真っ赤に紅潮させ、震える手でマイクを握り直すと、議場の喧騒をさらに煽り立てるような大音声でわめき散らし始めた。
「――見なさい! これが、我が国のトップの姿か!!」
益田のダミ声が、スピーカーを通して議事堂の隅々にまで響き渡る。
「神聖なる国会の議場! そして、今まさに国民の血と汗の結晶である『国家予算』を審議しているこの極めて重要な瞬間に! 答弁から逃亡し、床のゴミと戯れるとは何事か! 神聖な議場と国民の血税を愚弄する気か、如月総理!!」
見事なまでの、そして芸術的なまでのお手本のような特大ブーメランだった。
国民からは『税金泥棒』と揶揄され、己の派閥の裏金疑惑や不祥事には常に『秘書のやったこと』と知らぬ存ぜぬを貫き通してきた男が、カメラに向かって『神聖な議場』や『国民の血税』という言葉を振りかざし、正義の使者を気取っている。そのおぞましいほどの厚顔無恥さと狡猾な処世術に、僕は秘書官席から激しい吐き気を覚えた。
しかし、大衆心理というものは恐ろしい。益田のその大仰なパフォーマンスとヒステリックな声色に呼応するように、先ほどまで沈黙していた野党議員たちが一斉に活気づき、「そうだ!」「総理は辞任しろ!」「議会への冒涜だ! 恥を知れ!」と、机をバンバンと叩きながら怒りの合唱を再開したのだ。
(ああもう、最悪だ! 完璧に論破して終わるはずだったのに、自ら野党に攻撃の隙を与えてどうするんだよ! このままじゃ本当に内閣が吹っ飛ぶ! 止めなきゃ……!)
僕は、胃の粘膜をドリルで削られるような激痛を堪えながら、弾かれたように総理秘書官の席から立ち上がった。
着慣れない高級なオーダーメイドスーツが、僕の切羽詰まった動きを阻害するように肩や背中に突っ張る。しかし、そんな身体的な不快感に構っている余裕はない。夢の中の設定とはいえ、僕はこの『如月内閣』を支える秘書官なのだ。幼馴染の暴走を止め、この場をなんとか常識的な範囲で収束させなければならない。
僕は、怒号とフラッシュが飛び交う中、議場の狭い通路を駆け抜け、演壇の下でルーペを覗き込んでいる如月さんの元へと急いだ。
「総理! お願いですから立ってください! 今は国家予算を決める大事な委員会中ですよ! テレビも全国ネットで回ってますから!」
僕は、しゃがみ込んでいる彼女の肩に手を伸ばし、どうにかしてその視線を直径一センチのガラス玉から引き剥がそうと、涙声で懇願した。
しかし。
僕の手が、ゴシックドレスの漆黒のベルベット生地に触れるより、ほんの一瞬早く。
視界の端から、漆黒の巨大な影が、一切の足音を立てることなく、しかし爆発的な瞬発力で僕と如月さんの間に滑り込んできた。
「――退がれ、朔秘書官」
低く、地を這うような、しかし有無を言わさぬ絶対的な冷酷さと物理的な圧力を孕んだ声。
僕の目の前に立ちはだかったのは、分厚い筋肉の鎧をオーダーメイドのスーツで包み込んだ巨漢のSP、黒田さんだった。
「く、黒田さん!? なにやってるんですか、そこを退いてください! 僕は秘書官として、総理を……!」
「総理の御作業中だ。何人たりとも、この絶対領域を侵すことは許可されていない」
黒田さんは、表情筋をピクリとも動かさず、まるでそこに生まれついてからずっと存在していた鋼鉄の防爆扉のように、僕の行く手を完全に、そして物理的に塞いだ。
その両足は、いかなる衝撃を受けても揺るがない完璧なスタンスで赤絨毯を捉え、丸太のように太い腕が、僕の接近を無言で拒絶している。右耳のインカムからは絶えず警備の暗号通信が漏れ聞こえているが、彼の鋭い眼光は、僕を『味方の秘書官』としてではなく、明確に『総理の作業を妨害する排除対象』としてロックオンしていた。
彼は、SPとしての超一流の技術と警戒態勢のすべてを、『総理をテロリストから守る』ためではなく、『総理が床のガラス玉を心ゆくまで鑑定するための時間を稼ぐ』ために、完全に、そして大真面目にフル稼働させていたのだ。
「作業中って……ただ床のゴミをルーペで見てるだけじゃないですか! ここ、国会ですよ!? 黒田さんもSPなら、こんな奇行を止めさせて、総理を安全な場所に退避させるのが本来の仕事でしょう!」
僕が半ば錯乱しながら抗議するが、黒田の能面のような顔には一片の迷いもない。
「私の任務は、総理の身体的・精神的絶対性を担保することだ。現在、総理の脳内では極めて高度な論理的演算が進行中であると推測される。この思考プロセスを阻害する外部要因は、それが野党議員のヤジであろうと、秘書官のお前の諫言であろうと、等しく『即座に排除すべきノイズ』と認定する」
(アンタの忠誠心のベクトル、絶対におかしいから! なんで一番止めてほしい場面で、世界一頼りになる鉄壁のガードを発動させちゃうんだよ!)
僕が胃を押さえて絶叫した、その時だった。
「……サクタロウ。黒田の言う通りじゃ。お主のそのヒステリックな音声データは、わしの思考を著しく乱す不快なノイズに他ならん」
黒田さんの分厚い背中の向こう側。
赤絨毯にしゃがみ込んでいた如月瑠璃が、銀のルーペからゆっくりと右目を離し、冷ややかな、しかし議場の騒音を完全に切り裂くほどの澄み切った声で言い放った。
「そ、総理……! だから、今は予算委員会で、国会が……!」
「愚鈍」
僕の必死の懇願を、彼女の鋭く冷たい二文字が完全に叩き斬った。
如月さんは、漆黒のゴシックドレスの裾を静かに払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
純白の手袋に包まれた右手には、あの直径一センチのガラス玉が大切に摘ままれている。彼女は、議場を埋め尽くす数百人の国会議員たちの怒号も、自分に向けられた無数のカメラのレンズも、まるで路傍の石ころでも見るかのような、一切の興味を削がれた瞳で一瞥した。
「国家予算じゃと? 己の党の不祥事を隠蔽するために声高に叫ぶ、その空虚な数字の羅列がなんだというのじゃ。そんなものは、後からいくらでも国債を発行し、名目をすり替え、書類上の数字の辻褄を合わせれば済む『人間が勝手に作り出した都合の良いフィクション』に過ぎん」
如月さんの声は、決して怒鳴っているわけではない。しかし、その言葉に込められた絶対的な知の暴力は、マイクを通さずとも議場の空気を震わせた。
「そのような実態のない空想の産物に、わしの大切な時間を一秒たりとも割く価値はない。わしが相対すべきは、常に揺るぎない物理法則と、そこに存在する確固たるルーツのみじゃ」
「こ、空想の産物……!? 国家予算を、フィクションだと……!?」
演壇を見下ろしていた益田議員が、あまりの暴言に目を剥き、マイクを握る手をブルブルと震わせた。
野党席からは「ふざけるな!」「国民への反逆だ!」「ただちに懲罰動議にかけろ!」と、さらなる怒りのマグマが噴き上がる。
しかし、如月さんは全く動じない。
彼女は、純白の手袋に包まれた右手を高く掲げた。その指先に摘ままれた小さなガラス玉が、議場の照明を浴びてキラリと微かな光を放つ。
「あの薄汚い野党議員のヤジも、お主の秘書官としての保身も、すべてはこの議場という密閉空間に満ちた『情動』のノイズじゃ。しかし、わしの手にあるこのガラス玉は違う。これは、誰の感情も、政治的な思惑も介在しない、純粋で、揺るぎない『物理的真実』そのものじゃ」
如月さんの深いアメジストの瞳が、掲げられたガラス玉の奥底を覗き込むように細められた。
そして、彼女の口から、先ほどのマクロ経済を論破した時と同じ、冷徹な分析結果の開示が始まった。
「益田孝市よ。お主は先ほど、わしが『床のゴミ』と戯れているとほざいたな。お主のその腐りきった眼球の解像度では、これがただの子供のオモチャのビー玉、あるいは安物の装飾品の欠片に見えるのじゃろう。だが、わしの物理的観察眼とこのルーペを通して観測されたデータは、その陳腐な推論を完全に否定しておる」
如月さんは、純白の手袋の指先でガラス玉をわずかに転がした。
その仕草は、魔法使いが水晶玉を操るように優雅で、そして圧倒的なカリスマ性に満ちていた。
「第一に、この球体の形状じゃ。サクタロウ、お主にもこの輪郭の不自然さが見えるはずじゃ。このガラス玉は、一見すると球形を保っているように見えるが、光の屈折率を計算すると『真球度が極めて低い』ことが明白じゃ」
突然名指しされ、僕はビクッと肩を震わせた。しかし、如月さんの言葉に誘導されるようにガラス玉を凝視すると、確かにその表面は完全な球体ではなく、わずかに歪み、いびつな曲面を描いているのが分かった。
「工業的に大量生産されるオモチャのビー玉は、転がることを目的とするため、金型を用いてそれなりの真球度を保つように設計される。しかし、このガラス玉は違う。これは、美しさや転がりやすさなど最初から考慮されていない、極めて実務的な製法で作られたものじゃ」
議場に響き渡っていた怒号が、彼女の淀みない、あまりにも専門的すぎる解説のトーンに押され、少しずつ、まるで波が引いていくように小さくなり始めていた。
人間という生き物は、自らの理解を超えた絶対的な自信と論理を前にすると、本能的に口を閉ざしてしまうものなのだ。
「第二に、内部構造じゃ」
如月さんは言葉を続ける。
「このガラス玉の内部には、肉眼では確認しづらいレベルの『不規則な気泡』が複数混入しておる。装飾品であれば、このような不純物は光の乱反射を防ぐため、製造過程で徹底的に排除されるはずじゃ。つまり、これは鑑賞を目的として作られたものではない」
「だ、だからなんだと言うのだ! それがビー玉だろうが何だろうが、ここは国会だぞ!」
益田が、どうにか場の空気を引き戻そうと必死にヤジを飛ばすが、如月さんの声の持つ圧倒的な質量には敵わない。
「そして第三に、最大の矛盾点じゃ。よく見るのじゃ。このガラス玉の表面を覆っている、無数の微細な傷跡を」
如月さんが指し示す通り、議場の強力な照明に照らされたそのガラス玉の表面は、ツルツルとしたガラス特有の滑らかさを失い、まるで摺りガラスのように白く濁っている部分があった。
「これは、単に床に落ちて転がった程度でつく傷ではない。非常に密閉された狭い空間内で、長期間にわたり、他の硬質な物質、あるいは高い粘度を持つ液体と、継続的かつ激しく摩擦を起こし続けたことによる『激しい摩耗痕』じゃ」
如月さんは、そこで一旦言葉を切り、深い紫色の瞳で、益田孝市を、そして議場を埋め尽くす数百人の国会議員たちを、完全に『見下す』ように冷ややかに見据えた。
「真球度が極めて低く、内部に気泡を含み、表面に激しい摩耗痕を持つガラス球。これが意味する物理的真実はただ一つ。これは、子供の玩具や装飾品などでは断じてない。特定の工業的プロセスにおいて、極めて実務的な用途のために製造され、過酷な環境下で使用され続けてきた『特異な工業的痕跡を持つ部品』じゃ」
静寂。
国会議事堂の本会議場が、一個のガラス玉の鑑定結果によって、完全に沈黙させられた瞬間だった。
「厳重な警備網が敷かれ、金属探知機と持ち物検査をパスした者しか入れないこの議事堂の、それも総理大臣の演壇の足元という特異点に。なぜ、このような過酷な摩耗を経験した『工業用部品』が存在するのか」
如月瑠璃の唇が、美しく、そして残酷な弧を描いて吊り上がった。
それは、彼女の知的好奇心が完全に満たされ、次なる真理の扉をこじ開けようとする、孤高の天才だけが見せる狂気の笑みだった。
「これこそが、今この場で解明せねば永遠に失われる可能性のある、絶対的な物理的真実じゃ。中身のない抽象論と、数字の改ざんだけで成り立つお主らの陳腐な予算審議などよりも、この直径一センチの異物のルーツを探ることの方が、論理的に、そして宇宙の法則において、何万倍も優先順位が高いのは明白じゃろう」
彼女の宣言は、国家というシステムそのものに対する、一人の少女の『知性』による完全なクーデターだった。
「そ、そんな馬鹿な理屈が……通るわけが……!」
益田が震える声で反論しようとしたが、もはや彼の言葉に耳を傾ける者は誰もいなかった。
議場の空気は、如月瑠璃という特異点が放つ圧倒的な引力によって、完全に彼女の『ルーツ探求のゲーム盤』の中へと吸い込まれてしまったのだ。
僕の胃が、ついに限界を超えて激しい痙攣を起こした。
ああ、もう誰にも止められない。
空想の産物を一切認めないゴシックドレスの総理大臣による、国家予算を完全に凌駕する『究極のルーツ探求』が、今、議事堂の赤絨毯の上で本格的に幕を開けたのだ。




