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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『総理』 ~section 2:赤絨毯と、小さなガラス玉~

 ベアリングの微細な摩擦係数の増大と、特定農地の土壌におけるpH値の異常変化。

 国家の行く末を左右するマクロ経済の議論という名の、野党の抽象的で感情的な政治的パフォーマンスは、如月瑠璃というたった一人の少女の口から放たれた極めてミクロな、しかし絶対に反証不可能な物理的データの連続射出によって、完膚なきまでに粉砕された。


 数百人の国会議員がひしめき合う衆議院本会議場は、まるで巨大な真空パックの中に放り込まれたかのような、完璧で無慈悲な静寂に支配されていた。

 与党議員たちは、自陣営のトップが放ったあまりにも冷徹で、そして一切の人間味を感じさせない論破劇を前に、拍手を送るタイミングすら見失って硬直している。一方、先ほどまで『税金泥棒』という己の不名誉な称号を棚に上げ、声高に政権批判のブーメランを投擲していた野党の重鎮・益田孝市に至っては、マイクを握りしめた姿勢のまま、まるで出来の悪い蝋人形のように固まっていた。彼の大きく見開かれた両目からは、先ほどの狡猾な自信は完全に消え失せ、理解不能な事象に直面した原始的な恐怖だけが浮かび上がっている。


 彼の脳内では今頃、自分の足元がガラガラと崩れ落ちる音が響いているはずだ。長年の政治生活において、論点をすり替え、秘書に責任を押し付け、のらりくらりと追及をかわしてきた彼の『処世術』は、如月瑠璃の提示した『物理的証拠』の前には一切通用しない。言葉遊びや感情論が入り込む余地など、彼女の構築する論理の城塞には一ミリたりとも存在しないのだ。


『……完璧だ。これで野党側の追及の機先は完全に制した。今日の予算委員会の最大の山場は、間違いなく越えたぞ』


 僕は総理秘書官の席に深く座り直し、首を絞めつけるようなオーダーメイドスーツの窮屈なネクタイをわずかに緩めながら、誰にも気づかれないように密かな安堵の息を長く吐き出した。


 夢の中の世界とはいえ、僕の脳に強制的にインストールされた『内閣総理大臣秘書官』という役割のプレッシャーは、本来であればしがない一介の男子高校生が背負うにはあまりにも過酷なものだった。僕の頭の中には、現在の国家予算の膨大な数字から、各省庁の複雑怪奇な根回しの状況、さらには与野党のドロドロとした権力闘争の相関図に至るまで、見知らぬデータがひしめき合っており、それが常に僕の胃の粘膜をチリチリと焼き続けていたのだ。

 だが、あのブレない孤高の天才が演壇に立っている限り、いかなる政治的謀略も、感情的なヤジも、すべては絶対的な物理法則の前にひれ伏すことになる。僕は助手の特等席で、このままスムーズに質疑応答が進み、今日の面倒な委員会も何事もなく終わるだろうと完全に油断しきっていた。


 この張り詰めた国会という舞台において、彼女のその異常なまでの論理的思考力は、最強の武器になる。そう信じて疑わなかった。


 しかし。

 僕のその甘すぎる観測は、次の瞬間、脆くも崩れ去ることになる。


 益田を完封した如月総理は、マイクの前で小さく息を整え、次なる野党議員からの質問事項に対する分厚い答弁書へと、静かに視線を落とそうとした。

 その時だった。


「……?」


 演壇の上に立つ彼女の優雅な動きが、ピタリと、文字通り彫像のように不自然に停止した。

 手元の資料を見ようとしていた彼女の首の角度が、わずかに、ほんの数ミリだけ下へとずれ、そして完全に固定される。

 その深いアメジストの瞳が捉えていたのは、国政の未来を左右する答弁書の文字の羅列ではなかった。演壇のすぐ下、彼女の足元から議場全体へと波のように広がる、最高級の羊毛で織り上げられた深紅の赤絨毯。その毛足の奥深くに埋もれるようにして落ちていた、一つの『光る異物』だったのだ。


 議場の高い天井に無数に設置された、生中継用の強力な照明の光が、その異物の表面に当たって微かな乱反射を起こしていた。普通の人間の目であれば、あるいは、国政というマクロな問題にのみ意識を向けている政治家たちの目であれば、絨毯に落ちた糸くずか、誰かの靴から剥がれ落ちた泥の欠片か何かと見過ごしてしまうであろう、極めて微小な光の瞬き。

 しかし、あらゆる物質の形状、光の屈折率、そしてそこに生じる物理的矛盾を一切見逃さない『物理的観察眼』を持つ如月瑠璃にとって、その微小な光は、絶対に見過ごすことのできない強烈なシグナルだった。


 僕は、斜め後ろの秘書官席から彼女の横顔を見て、心臓が急激に凍りつくような感覚に襲われた。

 分かる。これまでの夢の世界での経験から、僕には痛いほどに分かるのだ。彼女の呼吸のテンポが変わり、周囲の空間からあらゆるノイズを遮断し始めたあの特有の『硬直』。

 あれは、彼女が己の知的好奇心を極限まで刺激する『ルーツを探るべき謎』を発見してしまった瞬間の、絶対的な予備動作なのだ。


(ま、待ってください如月さん。嘘でしょ、ここで? ここは旧市街の商店街でも、旧校舎の図書室でもないんですよ。国会の、それも全国ネットで生中継されている本会議場のど真ん中なんですよ!)


 僕の心の中の悲痛な叫びなど、彼女の耳に届くはずもない。

 如月総理は、答弁用のマイクからスッと顔を離した。そして、野党の追及も、議事進行を司る議長の存在も、二階の記者席から狙いを定めている無数のテレビカメラのレンズも、すべてを『無価値な背景』として完全に己の視界からデリートしたかのように、ゆっくりと演壇の階段を降り始めたのだ。


「そ、総理? 答弁はまだ終わっておりませんが……如月総理大臣?」


 異変に気づいた議長が、怪訝な、そしてひどく狼狽した声をスピーカー越しに響かせる。

 しかし、彼女は一瞥もくれない。漆黒のベルベット生地のゴシックドレスが、静かな衣擦れの音を立てながら、一段、また一段と階段を降りていく。


 その前代未聞の異常な光景に、硬直していた益田孝市がハッと我に返った。

 己の致命的な失態をごまかし、再び議場の主導権を握る最大のチャンスだとばかりに、彼は再びマイクを握りしめ、顔を真っ赤にして喚き散らし始めたのだ。


「に、逃げる気か、如月総理! 私の鋭い追及に反論できず、演壇から逃亡するとは何事か! 質問はまだ終わっていないぞ! 国民の代表たる我々の声を無視し、神聖な議場を放棄するなど、総理大臣として言語道断だ!」


 益田のヤジに呼応して、息を吹き返した野党席から「そうだ!」「逃げるな!」「説明責任を果たせ!」と、さらなる怒号のマグマが噴き上がる。議場は急速に、統制の取れないカオスな熱を帯び始めた。


(ああもう、最悪だ! このままじゃ本当に内閣が吹っ飛ぶ! 止めなきゃ……!)


 僕は、胃の激痛を堪えながら、弾かれたように秘書官席から立ち上がった。

 しかし、僕が「如月総理!」と声を張り上げ、彼女を演壇へと引き戻そうと駆け出そうとした、まさにその時。

 僕の視界の端から、漆黒の巨大な影が、一切の足音を立てることなく、しかし爆発的な瞬発力で滑り込んできた。


「――」


 声すらなかった。

 ただ、僕の右隣に直立不動で控えていた巨漢のSP、黒田さんが動いたのだ。


 彼は、総理の奇行を咎めたり、彼女を庇って演壇に強引に引き戻したりするような、いわゆる『常識的』な警護行動を一切取らなかった。彼が選択したのは、如月瑠璃がその足元に落ちている『謎の異物』へと安全に、かつ誰にも邪魔されることなく到達するための、完璧な空間の確保だった。


 黒田さんは分厚い胸板を包むスーツを軋ませながら巨体をわずかに沈み込ませ、野党席の最前列でわめき散らす益田孝市に向かって、文字通り『殺気』とも呼べるほどの鋭く冷酷な視線を放った。

 それと同時に、漆黒のスーツの内ポケットへと右手を滑り込ませる、極めて実戦的で、なおかつ相手に最大の恐怖を与える威嚇のポーズをとる。


「ヒッ……!」


 益田は、自分に向けられた明確な暴力のプレッシャーに喉を引き攣らせ、情けなくも腰から崩れ落ちそうになってマイクから手を離した。周囲の野党議員たちも、黒田さんの放つ異常な覇気――歴戦の暗殺者のような底知れぬ冷気――に完全に気圧され、一瞬にしてヤジを飲み込んで後ずさりする。


(黒田さん!? SPの仕事ってそういうことじゃないでしょ! なんで総理の奇行を全力でアシストする方向にプロフェッショナルを発揮してるんですか! 威嚇する相手が間違ってるってば!)


 僕が胃を押さえて心の中で絶叫する間にも、事態はさらに常軌を逸した方向へと加速していく。


 如月総理は、周囲の騒ぎも、黒田の威嚇によって作り出された不自然な静寂も意に介することなく、演壇のすぐ下の赤絨毯の上に歩みを進めた。

 そして、全国ネットのカメラが捉える中、漆黒のゴシックドレスの裾が床の埃に触れることも厭わず、その場に優雅に、しかし極めて真剣な動作でしゃがみ込んだのだ。


 一国の総理大臣が、国会審議中に床に這いつくばっている。

 その光景のシュールさと異常性に、マスコミのカメラマンたちのシャッターを切る手すらも完全に停止していた。議長は言葉を失い、与党席からは悲鳴にも似たどよめきが漏れ出ている。


 しかし、彼女の儀式はまだ終わらない。

 如月さんは、ゴシックドレスの幾重にも重なったフリルの奥にある隠しポケットから、一つのアイテムを取り出した。

 それは、純白の薄手の手袋だった。彼女はそれを、まるで神に祈りを捧げる神聖な儀式でも行うかのように、ゆっくりと、シワ一つなく両手にはめ込んでいく。


「……嘘だろ。総理大臣になっても、そのフォーマットは絶対に変えないっていうのか……」


 僕は、秘書官席の机に両手をついて深く項垂れた。

 さらに彼女は、別のポケットから、美しい銀細工の施されたアンティークのルーペを取り出した。持ち手の部分には精緻な蔦の模様が彫り込まれ、レンズを囲む純銀の枠が、議場の照明を反射して鈍く上品な光を放っている。


 旧校舎の図書室であろうと、旧市街の埃まみれの物置であろうと、そして国家の最高意思決定機関である国会議事堂の本会議場であろうと。彼女が『鑑定』に入るためのプロセスは、一切の妥協なく、完璧に遂行されるのだ。他者の目も、常識も、彼女の前では無意味なノイズに過ぎない。


 純白の手袋に包まれた指先が、赤絨毯の毛足の中に深く埋もれていた異物を、表面の微細な証拠を絶対に傷つけないように、極めて慎重な動作でそっと摘み上げた。

 そして、しゃがみ込んだ姿勢のまま、それを目の高さまでゆっくりと持ち上げる。


 僕の席からも、それが何であるかが辛うじて視認できた。

 直径一センチほどの、透明な球体。

 どう見ても、ただの小さなガラス玉だ。子供のオモチャのビー玉か、あるいは安物のアクセサリーのパーツが千切れて落ちたようにしか見えない。国家予算の何兆円という数字が飛び交うこの議場において、これほど無価値で矮小な存在は他にないだろう。


 しかし、如月さんは右目に銀のルーペを当て、そのガラス玉の表面を、まるで世界で最も価値のある真理の結晶でも鑑定するかのように、舐め回すように観察し始めた。


「……極めて不自然じゃ」


 議場の静寂の中に、彼女の低く、冷徹な呟きが響いた。

 マイクを通していないにもかかわらず、その澄み切った声は、周囲の議員たちの耳に妙にハッキリと届いていた。


「この極めて厳重な警備が敷かれた議事堂の中心、それも総理大臣が立つ演壇のすぐ足元という特異点に。なぜ、このような不自然な光の反射をする異物が存在するのじゃ?」


 彼女の深い紫色の瞳が、ルーペのレンズ越しに妖しく、そして恐ろしいほどの熱を帯びて輝き始めた。

 それは、他者の情動に共感するような温かい光ではない。純粋に、モノに刻まれた傷跡から隠されたルーツを暴き出そうとする、冷徹な観測者としての狂気にも似た光だ。


「国家の行く末? マクロ経済の動向? そんなものは、人間が作り出した都合の良いフィクションに過ぎん。しかし、このガラス玉がこの場所に存在するという物理的な事実は、決して揺るぐことのない『絶対的な真実』じゃ」


 如月瑠璃の意識から、国政という巨大な命題が完全にデリートされた瞬間だった。

 彼女のすべての興味と、その恐るべき知性のベクトルは、直径わずか一センチの『小さなガラス玉』という一点へと、完全に、そして不可逆的にシフトしてしまったのだ。



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