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第15巻:如月令嬢は『空想の産物を認めない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『総理』 ~section 1:国会中継と、ゴシックドレスの総理大臣~

 強烈な醤油と砂糖が焦げる匂いと、大の大人がなりふり構わず泣き叫ぶ耳障りな大音声。

 それらの泥臭くも温かい庶民の日常風景が、まるで大量の水を浴びた水彩画のようにぐにゃりと輪郭を失い、ドロドロに溶けて視界から消え去った直後。

 僕の意識は、全く異なる種類の『圧倒的な暴力』によって、強制的に新たな世界での覚醒へと引きずり込まれた。


「――ッ!」


 視神経を直接灼き切らんばかりの、無数の白い閃光。

 そして、地鳴りのように分厚く、鼓膜をビリビリと震わせる数百人規模の怒号とヤジの渦。

 僕は思わず目を細め、身をよじろうとした。しかし、次の瞬間、自身の身体がひどく強張った状態に固定されていることに気がついた。


 首元をきつく締め付ける、糊の効いたシャツの襟と硬いシルクのネクタイ。肩のラインから背中にかけて寸分の狂いもなくフィットし、無駄な動きを一切許容しない重厚なオーダーメイドのスーツ。足元には、歩くたびにカツンと硬質な音を立てるであろう高級な革靴。

 先ほどの旧市街の夢の世界で着ていた、洗いざらしの安物のパーカーやヨレヨレのジーンズとは完全に対極にある、極めて権威的で、そして息苦しい衣服が、僕の全身をすっぽりと隙間なく包み込んでいた。


「なんだ、ここは。今度は一体、どういう設定の世界に放り込まれたっていうんだ……」


 瞬きを繰り返し、どうにか視界のピントを合わせる。目に飛び込んできたのは、テレビのニュース番組でしか見たことのない、しかし日本国民であれば誰もが知っている、極めて荘厳で重苦しい空間だった。


 見上げるほど高い天井には、精緻な唐草模様が施されたステンドグラスがはめ込まれ、柔らかな自然光と計算された人工照明を入り交じらせて落としている。壁面は重厚なケヤキの木目調で統一され、彫刻が施された柱が等間隔に並ぶ。そして、床には靴音のすべてを吸い込むような、分厚く深い真紅の赤絨毯がどこまでも広がっていた。

 すり鉢状に半円形に配置された数百の木製の議席には、仕立ての良いスーツを着込んだ初老の男女がひしめき合っている。彼らは皆、顔を真っ赤にして立ち上がり、手元の机をバンバンと乱暴に叩きながら、中央の演壇に向かって口々に激しいヤジと怒号を飛ばしていた。


 ふと視線を落とすと、僕の着ているスーツの左胸のラペルには、鈍い金色の輝きを放つ、見慣れないバッジが留められていた。そこに刻まれている文字を視認し、僕は自分の目を疑った。


『内閣総理大臣秘書官』


「……は? 総理秘書官? 僕が?」


「周囲への警戒を怠るな、朔秘書官。貴様の不用意な動揺は、総理の絶対的権威に対するノイズとなる」


 僕の間の抜けた呟きを物理的に叩き斬るように、すぐ右隣から、低く、岩盤のように硬質な声が降ってきた。

 ハッとして横を振り向くと、そこには漆黒のスーツに身を包んだ、見上げるほどの巨漢がそびえ立っていた。綺麗に撫でつけられた短髪、一切の感情を排した能面のような顔つき。そして、分厚い胸板と太い腕の下に隠しきれないほどの、圧倒的な筋肉の質量。右耳には透明なチューブ状のインカムが装着され、その猛禽類のように鋭い眼光は、議場内の数百人の人間を一瞬の隙もなく冷徹にスキャンし続けている。


 如月家の優秀極まりない運転手にして、今はこの夢の世界において最高レベルの警護を担うSPの黒田さんだった。


「く、黒田さん……!? なんで黒田さんまでこんなところに……いや、ちょっと待って。僕が総理秘書官ってことは、肝心の『総理大臣』はまさか……」


 嫌な予感、というよりも、もはや確定的な絶望を抱きながら、僕は議場の中央、一段高く設けられた演壇へと恐る恐る視線を向けた。


 そこには、この重厚な木目調と男たちの怒号に満ちた男社会の権力構造の象徴たる国会議事堂の中心において、最も異質で、最も場違いで、しかし誰よりも圧倒的な支配力を持った一人の少女が立っていた。


 内閣総理大臣、如月瑠璃。


 仮にも一国のトップとして、全国に生中継されている国会答弁に立つのであれば、地味な色のテーラードスーツや、せめて威厳のあるフォーマルな装いをするのが一般的な常識というものだ。

 しかし、演壇に立つ彼女の服装は、常識やTPOという言葉を根底から嘲笑うかのように豪奢で、そして優雅だった。


 深い光沢を放つ漆黒のベルベット生地をふんだんに使用した、足首まで届くロング丈のゴシックドレス。襟元や袖口には、まるで蜘蛛の巣のように緻密で繊細な銀糸のレースがあしらわれ、議場の強力な照明を浴びて冷たい輝きを放っている。胸元には大粒のアメジストのブローチが鎮座し、彼女の瞳と同じ深い紫色の光を宿していた。艶やかな黒髪は一切の乱れなく、背中の中央まで真っ直ぐに流れ落ちている。


 本来であれば、『神聖な議場にふさわしくない』と即座に議長から退場を命じられてもおかしくない、完全なルール違反の装いだ。事実、野党の議員たちはその服装を口実に幾度となくヤジを飛ばそうとしている気配があった。

 しかし、彼女の華奢な身体から放たれる絶対的な美貌と、そこに存在するだけで空間の温度を数度下げるような冷徹な威圧感が、反論の声を上げる口を物理的に縫い留めてしまっている。

 彼女の深い紫色の瞳に見据えられた者は皆、自らがひどく卑小な存在に成り下がったかのような錯覚に陥り、服装の規定などという矮小なルールを口にすることすら躊躇してしまうのだ。


 結果として、国会議事堂という究極のフォーマルな場において、ゴシックドレス姿の美少女が頂点に君臨するという、狂気に満ちた異常空間が完全に成立してしまっていた。


「――総理! 貴方のその現実逃避も甚だしい強弁には、我々野党のみならず、国民の怒りもすでに限界に達しております!」


 議場の空気を切り裂くように、野党側の最前列から一人の初老の男性議員がマイクを握りしめて立ち上がった。

 白髪交じりの髪をポマードで綺麗にオールバックにし、顔のシワの奥に狡猾な光を宿した男。仕立ての良いスーツの袖口からは、高級な外国製の腕時計がチラチラと自己主張をしている。胸のネームプレートには『益田(ますだ)孝市(こういち)』と記されている。


「現在の我が国のマクロ経済における致命的な失策! 基幹産業たる製造業の輸出の劇的な落ち込みと、地方農業の崩壊! これらはすべて、現政権の無策と、総理の現実を無視した冷酷な机上の空論が招いた人災に他なりません!」


 益田議員は、二階席から自分を狙うテレビカメラのレンズを明確に意識しながら、大げさな身振り手振りで声を張り上げ、議場に響き渡らせた。

 彼の言葉に合わせて、野党席からは「そうだ!」「総理は直ちに辞任せよ!」「国民の血税をなんだと思っている!」という、耳をつんざくような同調のヤジと、地鳴りのような机を叩く音が巻き起こる。


 僕は秘書官の席から、その男の顔をひどく冷めた目で見ていた。

 僕の脳内に強制的にインストールされたこの世界の情報によれば、この益田孝市という男は、政界における文字通りの「ガン」だった。


 彼には、ろくな政策立案の実績もなければ、国民のための有益な法案を通したこともない。あるのは、己の党の不祥事や責任を完全に棚に上げ、与党の些細なミスや失言を針小棒大に騒ぎ立てて政権批判を行う、口先だけの『ブーメラン議員』としての悪名だけだ。

 国民の多くは彼を『税金泥棒』と揶揄し、ネット上でも常に批判の的になっている。しかし、彼は長年の政治生活で培った底意地の悪い処世術と、派閥間のパワーバランスを泳ぎ渡る狡猾な嗅覚だけで、野党の重鎮というポジションに居座り続けていた。これまで数々の疑惑を追及されながらも、その都度、秘書に責任を押し付けたり、論点をすり替えたりして、何となく逃げ延びてきた男なのだ。


「国民は疲弊しているのです! 現場で汗水流して働く労働者の涙が見えないのですか! 我々野党は、このような冷血な政権に、これ以上国家の舵取りを任せるわけにはいかないと断言いたします!」


 益田は、自身の演説の響きに酔いしれるように声を震わせ、最後は拳で机をバンと叩いて締めくくった。

 議場は割れんばかりの拍手に包まれる。彼は自分がこの国会の主役であり、正義の代弁者であると完全に錯覚し、勝ち誇ったような、そして相手を見下すような薄ら笑いを浮かべて、演壇の如月総理を見上げた。


 普通の大臣であれば、この感情論と抽象論にまみれた大見得に対し、当たり障りのない官僚の書いた答弁書を読み上げて逃げるしかないだろう。彼らは論理ではなく、空気と情動で殴り合っているからだ。


 しかし、演壇に立つのは如月瑠璃だ。

 人間の情動や、抽象的な政治的レトリック、そして場の空気など、彼女の辞書には存在しない。彼女が信奉するのは、いついかなる時も、完璧な物理法則と、観測可能な確固たるデータのみである。


 野党の拍手が鳴り止むのを待つことすらなく。

 如月さんは、演壇のマイクへとゆっくりと顔を近づけ、静かに口を開いた。


「……益田孝市よ」


 その声は、決して大きくはなかった。

 しかし、彼女の声帯から放たれたその極めて澄み切った音波は、議場内の騒音を完全に切り裂き、絶対的な零度の冷気となってすべての議員の鼓膜へと浸透した。

 一瞬にして、巨大な本会議場が水を打ったように静まり返る。


「お主の音声帯域には、真実を語る際に必要な論理的裏付けが完全に欠落しておる。感情的な形容詞と抽象的なマクロ経済の用語を羅列すれば、己の無知と中身のなさを誤魔化せると思い込んでいるようじゃが、その浅薄な思考プロセスには反吐が出る思いじゃ」


「な、なんだと……!? 一国の総理たる者が、神聖な議場においてそのような暴言を吐くか!」


「暴言ではない。客観的な観測事実を言語化したに過ぎん」


 如月さんは、顔を真っ赤にして激昂する益田を、氷の刃のような一瞥で完全に切り捨てた。そして、手元の分厚い答弁書には一切視線を落とすことなく、自らの脳内に構築された恐るべき記憶のデータベースから、直接データを引き出し始めた。


「お主は先ほど、我が国のマクロ経済の失策として『製造業の輸出の劇的な落ち込み』を挙げたな。確かに、過去四半期において、主力であるX型輸出用重機の海外シェアは二・四パーセント低下しておる。お主はこれを政権の経済対策の不備だと断じたが、それは『結果』という表面的な事象しか見ていない愚者の見解じゃ」


 如月さんの深いアメジストの瞳が、益田の瞳孔を真っ直ぐに射抜く。


「その重機の輸出低下の真のルーツは、経済ではなく『物理』にある。該当のX型重機に搭載されている第三関節部のベアリング。その摩擦係数が、わずか〇・〇〇一四パーセント上昇したことによる耐久性の低下、および稼働時の異常発熱が、海外市場におけるリコールの直接的な原因じゃ」


「ベ、ベアリングの摩擦係数……? 総理、何を訳の分からないことを! ここは国会であって、町工場の品質管理の会議室ではないのですよ!」


 益田が狼狽しながら反論の声を上げるが、如月さんの論理の暴走は誰にも止められない。


「事象のスケールを取り違えているのはお主の方じゃ。ミクロの物理的変化を無視して、マクロの経済など語れるはずがなかろう。……そして、このベアリングの摩擦係数の異常な上昇を招いた原因は、製造元の合金の配合比率の変更にある。さらにそのルーツを辿れば、お主が野党のメンツを保つために強引に推進した『特定工業材料の国内調達義務化法案』によって、本来の精緻なサプライチェーンが破壊され、技術力の劣る企業からの粗悪な潤滑油の導入を余儀なくされた結果に他ならんのじゃ」


「……ッ!」


 益田の顔から、一気に血の気が引いた。

 彼が自分の手柄としてアピールし、国民の支持を得るためのパフォーマンスとして通した法案が、巡り巡って基幹産業の輸出低下という物理的なエラーを引き起こした直接の原因であったと、ミクロのデータによって完璧に証明されてしまったのだ。


「自分の放った政策という名の粗悪なブーメランが、物理的な摩擦係数の増大となって国家経済の首を絞めていることにすら気づかず、よくもまあ政権批判などと口走れたものじゃな」


 如月さんの容赦のない論理による完全なる解体に、与党席からはどよめきが、野党席からは信じられないものを見るような、凍りついた沈黙が広がっていく。


「さらに言及しよう。お主が二つ目の失策として挙げた『地方農業の崩壊』についてじゃ。北部第四地区の農業生産高の減少。お主はこれを補助金のカットが原因だと主張しておるが、それも完全な誤りじゃ」


 如月さんは、演壇の上でゴシックドレスの長い袖をわずかに翻した。


「該当地区の農地の土壌データを精査した結果、過去半年間でpH値が平均六・五の弱酸性から、五・八という農作物の育成に極めて不適切な酸性へと急激に変化していることが確認された。この局地的なpH値の変化をもたらした物理的要因。それは、農地のすぐ上流で行われている『防波堤補強工事』の現場から、違法に投棄された産業廃棄物に含まれる硫酸アルミニウムの地下水への流出じゃ」


「そ、それは……!」


「そして、その不必要な防波堤補強工事を強引に誘致し、違法投棄を黙認している悪質な土建業者と深く癒着しているのは、他ならぬお主の派閥の息のかかった人間じゃな。……地方農業を物理的に汚染し、崩壊させているのは、国の無策ではなく、お主自身の腐りきった利権の構造そのものじゃ」


 静寂。

 数百人が密集している国会議事堂の本会議場が、まるで真空の宇宙空間に放り出されたかのような、完璧で、そして無慈悲な静寂に包まれた。


 ベアリングの摩擦係数と、土壌のpH値。

 極めてミクロな、しかし絶対に反証不可能な『物理的データ』の連続射出によって、益田孝市というベテラン議員が声高に叫んでいたマクロ経済の批判は、すべて彼自身の腐敗と無能さを示す特大のブーメランとして、彼の脳天に深々と突き刺さったのだ。


「論理破綻した感情論は、この神聖な議場においていかなる価値も持たん。国民を憂うなどと大言壮語を吐く前に、己の足元にある物理的なエラーを修正するのじゃな。……愚鈍の極みじゃ」


 如月瑠璃の冷徹な宣告が、益田への完全な死刑宣告となって議場に響き渡った。

 益田はマイクを握りしめたまま完全に硬直しており、彼の周囲の野党議員たちも、誰一人として擁護のヤジを飛ばすことすらできず、ただ口を開けて呆然としている。


『……すげえ。国政レベルの議論すらも、理化学的なデータと物理的観察眼で完全にねじ伏せちゃったよ……』


 僕は秘書官の席で、畏怖と、そしてほんの少しの呆れが入り混じったため息を、誰にも気づかれないようにそっと吐き出した。

 どんな設定の世界に放り込まれようと、如月瑠璃という存在の『フォーマット』は絶対にブレない。彼女の前では、総理大臣という国家の最高権力すらも、ただ『モノのルーツを探求し、物理的真実を白日に晒す』ための便利なツールでしかないのだ。


 これなら、今日の予算委員会は野党の追及を完全に封じ込めたまま、何事もなく終わるだろう。

 僕は助手の特等席で、ようやく胃の痛みが引いていくのを感じていた。


 しかし、その安堵は、一分と持たずに完全に打ち砕かれることになる。

 この時の僕はまだ、ゴシックドレスの総理大臣がもたらす『本当の嵐』が、国政の議論などとは全く次元の違う、床に落ちた小さな『ゴミ』から始まるということを、理解していなかったのだ。



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