第1話『庶民』 ~section 10:夕食の喧騒と、夢の終わり~
如月瑠璃の、一切の淀みも迷いもない完璧な論破が、古びた長屋の居間に重く、そして深く沈み込んでいった。
ちゃぶ台の上に置かれた『ひしゃげた真鍮の筒』は、古い蛍光灯の光を浴びて鈍い輝きを放っている。それはもはや、物置の隅に転がっていたただの汚いガラクタではない。父さんが三十年前、愛する人に自分の夢の集大成を見せるためだけに、不器用な手で必死に足掻き、そして破れたという、あまりにも生々しく、そして熱を帯びた『情動のルーツ』そのものだった。
静寂が、部屋を支配していた。
いや、厳密には完全な無音ではない。台所のガスコンロの上では、父さんが火をつけたまま放置してしまったすき焼き鍋――正確には、特売の豚コマ肉で作る豚すき鍋――が、グツグツと低い音を立てて煮え立ち続けている。醤油と砂糖が焦げかける暴力的なまでの甘辛い匂いが、狭い室内に充満し始めていた。
しかし、その日常的な生活音や匂いすらも、今この瞬間の父さんの耳には届いていないようだった。
父さんは、手にした菜箸を力なくコンロの横に落とし、その場にへたり込んだまま、ちゃぶ台の上の真鍮の筒をじっと見つめていた。その視線は、金属の表面に刻まれた無数のペンチの傷跡をなぞり、三十年前のあの夜、血の滲む手で工具を握りしめていた若き日の自分自身と、完全に対峙しているようだった。
「……参ったな」
やがて、父さんの口から、ひどく掠れた、かすかな声が漏れた。
それは、これまでに見せていた『イケてる親父』を演じるための張りのある声でも、誤魔化すための不自然な甲高い声でもない。三十年分の嘘のメッキがすべて剥がれ落ちた、朔定光という一人の男の、素のままの響きだった。
「瑠璃ちゃんの言う通りだよ。……全部、その通りだ。お見通しってわけか」
父さんは、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、大粒の涙がいっぱいに溜まっていた。目尻の深いシワに沿って、堪えきれなくなった水滴がポロリとこぼれ落ち、使い古したエプロンの胸元に濃いシミを作る。父さんは、照れ隠しのように乱暴に手の甲で目を拭ったが、一度決壊した涙腺はそう簡単には塞がってくれなかった。
「光太郎の母さんと結婚する前、最後に俺の撮った映画を、あいつに見せてやりたくてな」
父さんは、途切れ途切れの息の中で、誰に弁解するでもなく、ただ自らの胸の内に秘めていた思いを吐露し始めた。
「俺は映画監督になるって大見栄を切って、結局何者にもなれなかった。才能がないことは、自分が一番よく分かってたさ。だから、あいつと結婚して、ちゃんと就職して、普通の家族を作ろうって決めたんだ。でも……だからこそ、最後に一本だけ。俺が人生のすべてを懸けてバカをやった証を、最高に明るいスクリーンで、俺が世界で一番愛した女に見せてやりたかったんだよ」
父さんの言葉には、後悔と、未練と、そして何よりも母さんに対する強烈なまでの純情が入り混じっていた。
僕は、ただ黙って父さんの横顔を見つめることしかできなかった。僕の知っている、休日にゴロゴロして発泡酒を飲んでいるだけの父さんの奥底に、これほどまでに熱く、人間臭い情熱が隠されていたなんて、想像すらしたことがなかった。
「だが、機械は正直だ。無茶な改造に耐えきれず、本番の直前にランプが火を吹きやがった。俺は泣きながら、このひしゃげた真鍮の筒をペンチでこじ開けようとした。明日には上映会なんだ、ここで終わるわけにはいかないって、手が血だらけになっても力を込めた。でも、不器用な俺には……到底直せなくてな」
父さんは、自嘲するように弱々しく笑った。
「結局、映画は上映できなかった。あいつには『機械のトラブルでダメになった』って笑って誤魔化したよ。俺は、夢を諦めたことよりも、最後の最後に愛する女に自分の最高の姿を見せてやれなかった自分が、情けなくて、恥ずかしくてたまらなかったんだ。だから、この部品を捨てることもできず、かといって直視することもできず、ずっと物置の奥底に隠したまま、見ないふりをして生きてきたんだよ」
父さんは、再び両手で顔を覆い、しゃくり上げるようにして泣き始めた。
大の大人が、高校生の息子とその同級生の前で、なりふり構わず声を上げて泣いている。それは、あまりにも滑稽で、情けなく、しかし同時に、たまらなく愛おしく、尊い姿だった。
僕は、目頭が熱くなるのを抑えきれなかった。
父さんは、僕たち家族との平凡な日常を選ぶために、この強烈な悔しさと挫折を一人で腹の底に飲み込み、三十年間も笑顔の仮面を被って生きてきてくれたのだ。その不器用な愛の重さに、胸が締め付けられるようだった。
「父さん……」
僕が思わず声をかけようと身を乗り出した、その時。
ちゃぶ台を挟んで父さんの真正面に座っている如月瑠璃が、静かに動いた。
普通の物語のヒロインであれば、ここで父さんの純情と家族愛に深く共感し、一緒に涙を流して「おじさん、かっこいいです」とでも言う場面だろう。あるいは、僕のように目頭を熱くして、その情動に寄り添うはずだ。
しかし、彼女は如月瑠璃だ。
他者の悲しみや怒り、喜びといった情動のメカニズムを『情動の視座』を用いて論理的に理解・解明することはできても、決してそれに共感して同じように涙を流すような人間ではない。彼女にとって、他人の感情はあくまで『ルーツを解き明かすためのパズルのピース』であり、関わった人間の心を救済することは、鑑定の果てに生じるただの副産物に過ぎないのだ。
如月さんの深く澄み切ったアメジストの瞳には、一片の涙も浮かんでいなかった。
ただ、彼女は純白のオーダーメイド手袋に包まれた手で、ちゃぶ台の上に置かれていた自分のティーカップ――いつの間にか彼女が自分で台所から急須を探し出し、勝手に淹れていたらしい緑茶――を静かに持ち上げた。
「愚直で、ひどく非論理的じゃな」
如月さんの涼やかな声が、父さんの嗚咽が響く居間に落ちた。
それは決して冷酷な響きではなかった。共感こそないものの、彼女なりに相手の情動の形を正確に汲み取り、一つの確固たる事実として認めた、静かな敬意のようなものがそこには含まれていた。
「失われた機能を修復するにあたり、自らの技術的限界を客観的に推量せず、ただ感情の爆発のみを動力源として物理的損傷を拡大させる。お主の三十年前の行動は、極めて非効率であり、エンジニアリングの観点からは最悪の選択じゃ。さらに、その失敗を隠蔽し、自己の虚栄心を守るために三十年もの間、解決を先送りにしてきた精神的脆弱さも看過できん」
如月さんはティーカップに口をつけ、静かに茶をすすった。
厳しい言葉の羅列に、僕は思わず「如月さん、今はそんな追い打ちをかけなくても……」と止めに入りそうになったが、彼女の言葉はそこで終わりではなかった。
「じゃが……」
如月さんはティーカップを音を立てずに置き、深い紫色の瞳で、泣き崩れる父さんの丸まった背中を見据えた。
「自らの保身や打算ではなく、ただ愛する者に己のすべてを見せたいという純粋な目的のために、物理法則の壁に素手で立ち向かい、血を流して足掻いたその行為自体は、決して無価値なゴミなどではない。その強烈な熱量が刻み込まれたこの真鍮の筒は、お主の人生という地層において、最も純度の高い、悪くない情動の痕跡じゃな」
それは、如月瑠璃という孤高の天才鑑定士が、一人の不器用な男の三十年越しの未練に対して下した、完全な肯定のサインだった。
父さんは、顔を覆っていた両手をゆっくりと外し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、如月さんの凛とした姿を見つめた。その目には、自らの過去を暴かれたことへの恐怖はすでになく、長年抱えていた重い十字架をようやく下ろすことができたような、深い安堵の光が宿っていた。
「……ありがとう、瑠璃ちゃん。俺、三十年間、ずっとこのガラクタを見るたびに自分が許せなかったんだ。でも、瑠璃ちゃんに見つけてもらえて……全部暴いてもらえて、本当によかった……」
父さんは、鼻をズルズルとすすりながら、子供のようにポロポロと涙をこぼし続けた。
感動的な、本当に美しい大団円だ。
僕の脳が作り出した『もしもの世界』の夢は、父さんの隠された純情を完璧な形で解き明かし、最高のカタルシスを迎えて幕を閉じようとしている。僕はその余韻に浸りながら、静かに息を吐き出そうとした。
しかし。
現実は――いや、夢の中の世界は、そう都合よく美しい静寂のまま終わってはくれなかった。
「うわああああん! 光太郎ぉぉぉ! お父さん、恥ずかしい! 恥ずかしいよぉぉぉ!」
突然、父さんがちゃぶ台に突っ伏したまま、手足をバタバタとさせて大声で号泣し始めたのだ。
先ほどまでの、過去の挫折を噛み締めるような静かな男泣きではない。幼児がオモチャを買ってもらえずにスーパーの床で転げ回るような、完全なる羞恥と感情の爆発による大絶叫だった。
「ちょ、父さん!? 急にどうしたの!?」
「だってよぉ! 息子の可愛い同級生の前で、三十年前のイタい青春のポエムみたいな過去を全部すっぱ抜かれて、その上あんなかっこいい台詞で慰められちまったんだぞ! 穴があったら入りたい! いや、いっそこの真鍮の筒と一緒に物置の土に埋まりたい! うわああああん!」
「いや、かっこよかったよ! 父さん、すごくかっこよかったから! だから落ち着いて!」
僕が必死になだめようとするが、三十年分の堰を切った父さんの感情の暴走は誰にも止められない。ちゃぶ台をバンバンと叩き、鼻水を飛ばしながら泣き喚く父さんの姿は、先ほどの感動的な余韻を木っ端微塵に粉砕するのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「お父さんのバカバカ! なんであの時、もっと上手くペンチを使えなかったんだよぉ!」
「三十年前の自分にキレないでよ! というか、声が大きい! 近所迷惑になるから!」
僕が父さんの肩を揺さぶって宥めていると、突如として台所の方から「シューーーッ!」という激しい破裂音が鳴り響いた。
「うわっ!?」
振り返ると、ガスコンロにかけっぱなしになっていたすき焼きの鍋が、完全に沸点を突破していた。煮詰まった割り下がモコモコと茶色い泡を立てて鍋の縁から勢いよく吹きこぼれ、ガスコンロの火に直接触れて激しい白煙と焦げ臭い匂いを撒き散らしている。
「ああっ! 豚すきが! 割り下が全部焦げちゃう!」
「ひぃぃぃ! 俺の、俺の今夜の唯一の楽しみがぁぁぁ! 光太郎、早く火を止めろぉぉ!」
「父さんが自分で止めてよ! 僕、今父さんを押さえてるんだから!」
「無理だ! お父さんは今、精神的ダメージで立ち上がれない! 豚肉を救ってくれぇぇ!」
「いい歳して何言ってるの! ああもう、熱っ! コンロ周りめっちゃ熱い!」
朔家の居間は、一瞬にして制御不能のカオスへと変貌を遂げた。
泣き叫びながら床を転げ回る中年男と、吹きこぼれる鍋の熱さと煙にパニックになりながらガスの元栓を閉めようと格闘する男子高校生。部屋中を醤油と砂糖が焦げる強烈な匂いが充満し、目に染みる煙が立ち込めている。
感動的なミステリーの結末はどこへやら、そこにあるのはただの騒がしく、泥臭く、そして極めて滑稽な『庶民の日常の崩壊』という惨状だった。
僕は煙にむせながらどうにかガスコンロの火を消し、換気扇を最大出力で回した。
ゼエゼエと肩で息をしながら居間を振り返ると、そこには、この狂騒の空間において唯一、全くブレることなく自らのペースを貫いている少女の姿があった。
如月瑠璃は、父さんが泣き叫ぼうが、すき焼き鍋が派手に吹きこぼれて白煙が舞おうが、その表情一つ変えることなく、背筋をピンと伸ばして正座したままだった。
彼女は、木綿のワンピースの裾に焦げた醤油の飛沫が飛んでいないことを視覚的に確認すると、再び自らのティーカップを優雅に持ち上げた。
そして、部屋に充満するすき焼きの煙を全く意に介さない様子で、残っていた緑茶を静かに飲み干すと、コトン、と音を立ててカップをちゃぶ台に置いた。
「……庶民の生活も、騒がしくて退屈はせんが」
如月さんは、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した朔家の居間を、深いアメジストの瞳でぐるりと見渡し、最後に僕の方を見てポツリと呟いた。
「いかんせん、謎としては容易すぎたの」
その顔には、大した苦労もなく事件を解決してしまったことへの、ほんのわずかな退屈さと、しかし自らの論理の正しさが証明されたことへの微かな満足感が入り混じっていた。
どんなに周りがパニックになろうと、どんなに設定が『長屋の幼馴染』に書き換わっていようと、彼女は常に観察者であり、超越者であり、孤独な天才としての立ち位置を絶対に崩さないのだ。
『アンタは本当に、どこにいても、どんな夢の中でも、絶対にブレないな!』
僕は、煙でショボショボする目をこすりながら、心の中で特大のツッコミを叫んだ。
その瞬間だった。
視界の端が、まるで水に濡れた水彩画のように、ぐにゃりと歪み始めた。
居間の古い壁紙が、ちゃぶ台の木目が、そして床で泣き喚いている父さんの姿が、急速に輪郭を失い、ドロドロに溶け出していく。
鼻をついていた強烈な醤油の焦げる匂いも、父さんの「お父さん恥ずかしいよぉ」という情けない声も、ラジオのノイズがフェードアウトしていくように、急速に遠ざかり、薄れていく。
夢が、終わるのだ。
このカオスで、泥臭くて、そしてほんの少しだけ温かかった『もしもの世界』の崩壊が始まっていた。
意識が急速に深い闇の中へと引っ張られていく感覚の中で、僕の脳裏に、極めて冷静な、もう一人の自分の声が響いた。
『……冷静に考えてみれば、現実の父さんは、映画監督を目指した過去なんて全くないじゃないか』
そうだ。
うちの父さんは、学生時代はずっと卓球部に所属していて、カメラのカの字にも興味を持ったことなどない、根っからのスポーツマンくずれだ。押し入れの奥にあるのも、古い8ミリカメラなんかじゃなく、ホコリを被った安物の卓球のラケットと、何に使うのか分からない筋トレグッズだけだ。
あのひしゃげた真鍮の筒も、時計屋のお爺さんも、全部僕の脳が勝手に作り上げた『都合のいい幻』だ。僕の脳は、如月瑠璃という天才の圧倒的な鑑定能力を無意識のうちに求めていて……彼女が鮮やかに解き明かすための、ドラマチックで悲しい過去を持った『架空の父親像』を、勝手に捏造してしまったんだ』
なんてことだ。
僕は、夢の中でまで如月さんの謎解きに付き合うために、自分の父親の過去を勝手に美化し、悲劇のヒーローに仕立て上げ、そして最終的に彼女の論理の刃でズタズタに切り裂かせるという、とんでもなく悪趣味な一人芝居を演じていたのだ。
僕という人間は、どれだけあの孤高の天才の思考回路に毒されてしまっているのだろうか。
「……サクタロウ」
完全に視界が真っ黒に塗りつぶされようとする直前。
最後に、如月さんの涼やかで、温度のない声だけが、僕の鼓膜にハッキリと届いた。
「さて。次はどんなルーツが、わしを待っておるかの」
その言葉を最後に、すき焼きの匂いも、父さんの泣き声も、長屋の軋む音も、完全に消滅した。
僕の意識は、深い深い微睡みの底を突き抜け、次なる『空想の産物』が支配する新たな世界――全く別の設定が書き割られた、さらなるカオスな夢の層へと、真っ逆さまに暗転していくのだった。




