2話 逆プロポーズも突然に
意味が分からなかった。
いや、言葉の意味は分かった。頭が理解を拒んだ。
「えいっ」
「――は」
怪異は一気に距離を詰めてきて、白い絹のような細腕で優吾の首を絞めた。微笑みを浮かべながら、怪異は片手で優吾の体を持ち上げる。
細腕をどかそうと必死に爪を立てた。しかし、爪は細腕を通り抜け自らの喉を傷つける。
「痛いよね。ごめんね? すぐに終わらせるから」
そう言って、怪異は腕に力を込めた。
呼吸を完全に止められ、優吾の脳髄には死が迫っている事実だけが克明に刻まれた。もはや抗う気力さえもなくなり、両腕は力なくぶら下がっている。
「やめてください」
優吾の意識が飛ぶ寸前。黒髪の彼女は、鞘に収めた剣を怪異の首筋に当てた。
「何?」
「今すぐ彼を離してください」
怪異の声のトーンが下がった。目線だけを背後に向ける。
少しだけ、首を絞める力が弱まった。かろうじて息ができるくらいになったので、優吾は何度も呼吸を繰り返す。
「やだって言ったらどうする? 私を殺す? できないよね。だって、私がいないとあなたたちは何もできないもんね」
「……なぜ、彼を殺すのですか」
「何って、私がこの子と夫婦になりたいから殺すの。いけない?」
「ダメに決まっているでしょう!」
黒髪の彼女は声を荒げた。首を絞められていなければ、優吾も激しく頷きたいところだ。
しかし、怪異はなぜなのかと言いたげに首をかしげた。視線だけではなく体ごと振り返り、先ほど浮かべていた笑みを消し去る。今度は瞬きすら止めて、表情に一切の動きを見せなかった。
「私は何百年もあなたたちのために尽くしてあげたのに? あなたは、一人でずっと何もない空間を見続けたことはある? 本当に気が狂いそうだった。あなたたちは、会いに来ると言っておきながら全然来ないし。前に来たのは三十年前とかだったっけ? 前すぎて覚えてないや。 ねぇ、それでもだめなの? 私はただ、誰かと話がしたいだけなのに」
少なくとも、怪異は優吾が生まれる前から一人だったらしい。長すぎて想像もつかないが、確かにそんな期間一人でいれば気は狂うだろうと優吾は思う。
「それは……いえ。それなら別の者を用意しますので、彼のことは」
「――ダメ。どうせ性根の腐ったゴミみたいな連中をよこすだけでしょ。私はそんな奴と夫婦になるなんて無理」
「……なぜ、どうして彼なのですか」
「別に教える理由もないでしょ。というか、なんであなたはこの子にこだわるの? その言い分だと、彼以外ならいいみたいに聞こえるけど」
「……彼は、見知らぬ人を、自らの命を顧みずに助けていました。私は、彼のような優しい人が損をするのが嫌なんです」
初めてそんなことを言ってもらった。心の中の靄に、少しだけ陽光が差す感覚。こんな状況だというのに、思わず口元が上がってしまう。
今までも、別に感謝を言ってもらいたいだとか、ちやほやされたいとか、そんなことは思っていなかった。ただ、気味悪がられて距離を取られるなんて、まったく想像していなかっただけで。
首を絞められて苦しかったはずなのに、そんなことはいつの間にか頭から消え去っていた。
同時に、自分がここに来た理由も思い出した。
黒い靄と少女を追ってここまで来たのだ。今のところ、その姿は見当たらない。目の前の怪異ならば何か知っているだろうが、教えてくれそうにない。だが、何とかして聞き出さなければ。
「知ってる。それを見て、私は絶対この子にするって決めたんだもん。それにしても、条件に合う子を探すのには苦労したんだよ? たまたま近くを通りがかった二匹に協力してもらってさ。まさか、こんなにすぐに見つかるとは思っていなかったけど」
「そのために、一般人を巻き込んだんですか」
「あれは子泣きが勝手にしたことだから私は知らない。私はちゃんと巻き込まないように言った。でも、おかげでこの子に出会えたんだし、子泣きの犠牲は無駄にならなかったよ」
「それだけではないでしょう。もう一人、幼い少女を攫っていたのを見ています」
「気づいてなかったの? あれは化け狸が化けてただけ。ほら、あそこにいるでしょ」
怪異が開いている方の手で指さした先には、頭にはっぱを乗せた狸がいた。狸は目が合うと、にやっと笑って少女の姿に化けた。
人間でないことが分かり、優吾は内心ほっとする。依然、自分の命が怪異次第で消えてしまう状況だ。それでも安心感を覚えたことに、自分でも苦笑いを浮かべるしかなかった。
怪異は、止まっていた瞬きを再開させ、ふわりとした笑みを浮かべた。
「これで文句ないよね。この子は渡さない。あなたも知ってるでしょ? 最初から私のことを見える人間はとても珍しいの。この子を除いたら、私は一人しか知らない」
「やっぱり……でも、殺す必要はないはずです」
「だめだよ。ちゃんと殺して、傍で縛っておかないと。あなたたちは、すぐに嘘をつくから」
「それは……」
「ほらね。否定できない」
黒髪の彼女は唇を強く噛む。怪異は嘲笑する。
なぜか。――自分がこれから殺されるであろう瞬間に、優吾は悲しさを覚えた。
この怪異は、これまで多くの人間に騙され傷つけられてきたのだと思う。人間の寿命以上の時間を、ずっと一人で過ごしてきたのだ。
ここまでの会話からして、この怪異は昔に悪さをしたわけでもないのだろう。少なくとも、黒髪の彼女は先ほどから目の前の怪異に対して敬意を欠かすことがなかった。
怪異の話が本当ならば、何百年も人間のために自らの身を犠牲にしてきたのだ。その果てに狂ってしまったとして、誰が責められるだろうか。
それこそ、権利があるのは今殺されかけている己くらいだと思う。
「さ、夫婦の契りを結びましょう」
怪異は、笑みを浮かべた。最初見た笑みに比べて、若干の悲壮感が混じっているように感じたのは、気のせいだろうか。
「――待て」
息を絞り出すように発した言葉は、自分でもぎりぎり聞き取れるくらい小さかった。それでも、怪異の耳には入ったらしく、再び目線を合わせてくる。
おそらく、最後のチャンス。
怪異は力を弱め、地面に足をつかせてくれた。
「何? これから一緒に過ごすわけだし、話は死んでからにしたいんだけど」
「夫婦の契りが首絞めっていうのは、あまりにも愛がないと思わないか?」
「……は?」
「定番はキスだと思うんだが」
「……は、はぁ!? キ、キスって……馬鹿じゃないの! そ、そんなのは、もっと仲良くなってから……」
怪異は白い頬を茜色に染め、もじもじとしながら答えた。
怪異が反応するかは賭けだったが、随分と純粋なようだった。もしかしたら、怪異とかは関係なく、長い間一人でいれば誰でもそうなるのかもしれない。ボッチには異性への免疫がないことを、優吾はよく知っている。
ただ、ここまではあくまで事前準備。
怪異に話を聞いてもらうために、自分も赤面してしまいそうな言葉を口走ったのだから。
「さっきから話を聞いてたけど、要はさみしかったんだろ? ずっとこんなとこに一人だったから。なら、別にこんなとこ、出ちゃえばいいじゃないか」
「……は?」
怪異はポカンと口を開けた。
「何を言ってるの!?」
黙って会話を聞いていた黒髪の彼女は、声を上ずらせた。
「出られないのか?」
「いや……出ようと思えば……だけど」
怪異は言い淀む。やはりこの怪異はいい奴なのだと思う。理不尽に殺そうとしてくる相手にいい奴などと、おかしいのは分かっている。それでも、自由に外に出られるにもかかわらず、ずっと一人で孤独に耐えてきた事実は無視できない。
今までに、この怪異のその決断を褒めた奴がいるだろうか。誰かから、認められたのだろうか。
たとえそれを求めていなくても、それは救いになるとさっき教えてもらったから。
今度は自分がそうしたい。
「私が外に出たら、どんな影響があるか分からないから」
「お前――名前は?」
「え?」
「名前だよ。お前の名前。お前とか怪異とか、分かりづらいだろ」
「…………ヒガナ」
「そうか。ヒガナ、どんな影響が出ようが俺がなんとかする。俺と一緒に来い。一緒に外の世界を楽しもう」
背後から慌てた声が聞こえたが、一旦無視した。
自分の命だとか、そういうのはもう頭になかった。
ここに来てから、ヒガナは何度も口角を上げていたが、その笑みはどこか作り物めいていた。
そんな少女に、心の底から笑ってほしい。楽しんでほしい。
それだけだった。
「嘘。嘘つき。あなたたちはすぐにそうやって嘘をつく」
「嘘じゃない。目をそらすな」
「……」
顔を横に向けたヒガナの頬に触れようと、手を伸ばす。しかし、こちらからは触れることができないのか、指先は頬をすり抜けた。それでも、ヒガナは優吾の手に動きを合わせて、正面を向いた。
「俺がお前の望みをかなえてやる」
「…………ほんとうに、信じていいの」
「すぐに信じてくれとは言わない。だが、話し合う時間をくれ。すぐに死んだんじゃ、なにもできない」
「……分かった。時間をあげる。……勘違いしないでね。逃げたら殺すから」
優吾が頷くと、ヒガナはその首から手を離した。




