向こう側
男はよく喋った。
配信で聞くのと同じだった。
話題は豊富で、言葉の返しも早い。
けれど、自分のことはほとんど話さなかった。
話しているようで、話していない。
仕事の話をしても、その周囲にいる人間の名前は出さない。
昔の話をしても、場所や相手が特定できるところだけ綺麗に抜け落ちる。
女は気づいていた。
この男は、線を引くのが上手い。
だから、聞かなかった。
家のことも。
付き合いのある人間のことも。
配信では決して語らない、その先のことも。
ひとつ質問すれば、答えてくれるかもしれない。
けれど、ひとつ尋ねれば。
なぜ、それを知りたいのか。
そう思わせる。
それは、もったいない。
女は料理を口に運び、男の話に笑った。
「面白いですね」
それだけでいい。
今夜、何かを持ち帰る必要はない。
名前も。
肩書も。
誰かの連絡先も。
何もいらない。
今日ここで必要なのは、男の向こう側へ進むことではなかった。
男のこちら側に、自分の席をひとつ残すこと。
また会っても不自然ではない人。
連絡が来ても不自然ではない人。
いつか何かの拍子に、誰かと同じ席にいても不自然ではない人。
それでいい。
女は急がない。
閉じた扉を叩けば、そこに扉があると知っていることまで相手に伝わる。
ならば、叩かなければいい。
いつか向こうから開くこともある。
開かなければ、それまでだ。
女は男を見る。
好きな声だった。
今夜も帰れば、おそらく聞く。
それと、これは別だった。
女は微笑んだ。
目の前には、まだ一本しかない。
細く、頼りない。
強く引けば、簡単に切れる程度のもの。
だから。
引かなかった。




