トール 3
それから、私は広い冥府を彷徨うようにして長い時間を過ごした。
渇きに胸をかきむしることも、存在が消え失せる恐怖に心を傷めることも、トールの姿を思い浮かべればなんてことのない苦痛に過ぎなかった。
他の死神たちにあざ笑われるのが面倒になった頃に、私は冥府を旅立った。
目指したのは、私の生家。
色の薄れて霞のようになった身体を引きずるようにして、私は己を朽ち果てさせるための場所へと向かった。
冥府の時の流れは地上とはずれているらしく、長い時間を過ごしたと思っていた割に地上ではまだそれほどの時間も経っていないようだった。
屋敷に足を踏み入れると、見覚えのある侍女や執事たち、少しばかり年を取った両親が廊下を歩いているのが見えた。
死神として弱り切り、今にも存在ごと消え失せようとしている私の姿を、彼らは捉えることができない。
だから、謝罪を告げることも叶わない。
万が一にも彼らに触れて魂を吸い取ってしまわないよう気をつけながら、私は屋敷の一番高い部屋まで登った。
最上階の窓は偶然にも開いていて、私は幸運に感謝しつつバルコニーに足を踏み出した。
バルコニーからは屋敷と庭を一望できる。かつての私は、この場所をとても好いていた。
庭は記憶の通りに行き届いた手入れがされていて、秋にさしかかろうとする世界の情景を見事に切り取って見せていた。
こんな美しい景色が最後に見る景色になるのだから、わたしはきっと永劫の無にだって耐えられる。
そう強がりながら、力の入らない身体を欄干に預けようとしたとき。
私の額を、太陽とは違う、暖かな光が照らした。
怪訝な気持ちで空を見上げ、私は目を見開いた。
真っ赤な炎が鳥の形を象って青い空を飾っていた。
死神としての知識が、それが何であるかを教えてくれる。
不死鳥だ。
死んだ後、不死鳥になるための条件はたった一つ。
人生を他人の手によって終わらせられること。
その抱えきれない無念を一身に引き受けさせられたことへの償いとして、不死鳥には永遠の自由が与えられる。世界を自由に飛び回り、長い時間を過ごすことに飽いたならば、場所を問わず好きな存在へと生まれ変わり、新たな生を謳歌することが許される。
自由で、何にも縛られない、死神とは対極の存在。
何を思ったか、不死鳥は私の眺める先で不意に羽ばたき、まっすぐに屋敷の方へ飛び寄ってきた。
そして、不死鳥は死神たる私の目の前に浮かぶようになった。
怪訝に見つめていると、不死鳥は舞うように身を翻した。
くるりと炎が身体を巻き込み、消え失せる。
人の頭と胴が生えた。
私は目を見開いた。
不死鳥はただ呆然と立ち尽くす私の前にふわりと舞い降りて、ふっと微笑んだ。
「遅ればせながら参上しました、エルレシアお嬢様」
翼が炎に巻かれて腕となり、そしてトールは立礼する。
「トール、なの?」
「はい、トールにございます。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「どう、して……!」
トールは微笑みを深め、答えた。
「私めはエルレシアお嬢様の御者にございます。主人のためならばどこまでも道を切り開く、そうした使命の元で仕事をして参りました。少しお嬢様のお姿が変わられたからといって、私めが勝手にその使命に背くわけには参りません」
ありえない。
だって、お前は。
私を嫌っていなければならないはずなのだから。
「違う、わたしは……!」
お前をこの手で殺したのに。
そう口にするよりも先に、トールは首を横に振った。
「いいえ、お嬢様。私どもは二人で死んだのです。その罪をお嬢様がお一人で背負う必要はありません」
そういった後、トールの表情は微笑みから後悔へと移り変わっていく。
「私めにはお嬢様をお守りすることができませんでした。今こうしてお嬢様が死神となってしまったのは、私の責に帰することができましょう」
「お前は何も悪くないわ。断じて、絶対に」
せめてそれだけは強く言い切らないといけないと思ったから、私はトールに邪魔される前に言葉を繋げきった。
トールは困ったような顔をして、「そうでございますか」と曖昧な返事をした。
少しの間言葉を探すような素振りを見せてから、トールははっと息をのんだ。
「お嬢様。お身体がかなり衰弱しているように見受けられますが……もしや」
「……もうしばらくもしないうちに、この身は消え失せるわ」
「誰も刈り取ってはいらっしゃらない、と?」
「ええ」
肯定の返事をすると、トールは目を閉じ、天を仰いで、しばらく動かなかった。
何を考えているのだろう、と思った矢先、トールは震える声で呟いた。
「間に合って、良かった」
それは私に会えたことを言っているのだろうか。
「そう、ね。わたしも、トールに最後に会えて」
「───最後になどしません」
強く、トールが遮った。
「えっ?」
「お嬢様を終わらせなどしません。例え望みが叶わずとも、私めが勝手にお嬢様を終わらせていいはずがないのです」
私には意味の分からない言葉を繋げて、そしてトールは大きく息を吸った。
「《不死鳥は死神を赦す》」
その瞬間、トールの身体は大きく燃え上がった。
「何!?」
「不死鳥に与えられた権能を、一つお教えします」
トールは笑って言う。
「死神に己の魂を刈らせることで、その死神を永劫の牢獄から解き放ち、魂の循環へと送り返すことができるのです」
「どういうこと!?」
「簡単に言えば、今からお嬢様は生き返ります」
トールの身体から噴き出た炎が、私の胸に飛び込みはじめた。
その感触は極めて甘美で、私は思わず胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
トールの言葉に従うのなら、これは。
不死鳥の魂の味なのだ。
「嫌、やめて……っ!」
「いいえ、お嬢様。不死鳥は自由です。誰を生かすも、誰を殺すも。そして、私めはお嬢様に生きていて欲しい」
私の身体に熱が取り戻されていくのと対照的に、段々とトールの身体は霞みはじめていた。
それは当然、トールの死を意味する。
「わたしは、もう、お前を殺したくなんかないの!」
「……ご安心ください。この魂も巡り、生まれ変わります。決してこれは私めにとっての死ではないのです」
魂が巡る、という言葉の意味を、死神たる私は正確に理解することができる。
魂は循環の中で洗われ、まっさらな状態となって新たな器に飛び込み、新たな生を受ける。
そのとき、記憶も人格も洗い流され、消えてしまう。
「でも、そんなの、トールは!」
「例えお嬢様が死神になろうとも、私めがこうして不死鳥に生まれ変わろうとも、そして私めが溶けて失せようとも、私めはお嬢様のため、道を切り開くのです」
「どうして!? どうして、こんなわたしのためにそこまでしてくれるの!?」
ふっ、とトールは微笑んだ。
トールは決して整ってはいない平凡な顔で、私を優しく見つめた。
私を優しく見つめるトールの目から、涙が幾筋も流れては落ちた。
しかし、それ以上、トールは答えてくれない。
ああ、どうして。
私は、お前に何も与えられていないのに。
どうして、お前は。
トールの身体を形作っていた炎がついに消え失せ、その最後の一滴までが私の胸に吸い込まれた。
私の身体を隅々まで甘い感触が満たして、そして全てが光に溶け始める。
私は強く胸を押さえ、”私”が消え失せる前にそこに誓いを刻むことにした。
無駄なことだと分かっていても、そうしなければならないと強く信じた。
「わたしは、生まれ変わってから、絶対にお前を見つけてみせるわ! 記憶がなくても気にしない、お前にありとあらゆるものを与えてやって、それで、聞いてやるから! どうして、わたしをこんなに───」
愛してくれていたのか。
最後の言葉が空気を震わせるよりも前に、私の身体は空に還った。
「───奥様、奥様、元気なお嬢様でいらっしゃいますよ!」
「ええ……見せて、私の顔の前に」
「はい!」
酷くぼやけた視界とくぐもった声が、私の知覚した最初の世界の姿だった。
「貴女の名は、エルレシア。旧い言葉で、空の妖精」
エルレシア。
そう聞いた瞬間に、私の頭は一気に晴れ上がった。
私は、この名を知っている。
私の名前だ。
「可憐で、美しく、大きくなりますよう」
記憶にあるよりも大分若いお母様は、汗にしとどに濡れた顔で私に微笑んだ。
私は、どうしてか、記憶を持ったままに生まれ変わった。
前世と同じく、エルレシアとして。




