トール 2
「どうして、どうしてっ! わたしが、こんな目にっ!」
私は癇癪持ちの子供のように、トールに対してきつく当たった。手を振り回して、背中や顔をぶつこともした。
トールに愛想を尽かされてしまえばいよいよ身の破滅だ、と心のどこかでは分かっていた。それでも、私が苛立ちをぶつけられる相手はトールただ一人だった。
そして何より悪いことに、私の身に染みついた他者を虐げたがる本能は、トールを傷つけられる相手として認識してしまっていた。
なのに、トールは私を切り捨てようとはしなかった。
「私めは、お嬢様の御者です。お嬢様のために道を切り開くのが、私めの仕事なのです」
現実を受け入れられず荒れていた私に、トールは馬の上で辛抱強く話をしてくれた。
私はもう公爵令嬢でもなんでもなく、罪人エルレシアでしかないこと。
私の家は私という罪人を輩出したことで罰を受け、十年間の爵位剥奪に処せられたこと。
私に関わるあらゆる人間が、私を恨んでいるということ。
トールは決して私を見捨てなどはしないこと。
トールは何が起こっても私の御者でいてくれること。
トールは私を恨んでいないということ。
食べるものが足りなければ、トールは私に大きく千切ったパンを与えてくれた。
稼ぎが足りなければ、トールは私に安宿の部屋を与えて、自分は厩舎でぐったりと横になって眠った。
眠るのが怖いと伝えれば、トールは何も言わず私のそばにいて、私が眠るのを見守ってくれた。
だんだんと私の身体についた傷は治っていって、ゆっくりと私は手綱を握るトールの手の間にいることに慣れていった。
そんな私たちの逃避行は、あっけなく終わりを迎えた。
隣国までの道半ばで、放たれた追手が私たちを捉えた。
機敏には動けない私を庇って、トールは胸に矢を受けた。
「トール、トール!」
膝をついたトールは、「お逃げ、ください」と血を吐きながら私に微笑もうとした。
微笑みは苦しみに取って代わられ、トールは私の方へくずおれる。
「ああ、そんな、トール!」
トールが苦しむ様を見て、私の心は張り裂けるように痛んだ。
それは、かつて獄中で味わったどんな痛みよりも辛いものだった。
周りからは兵士たちが迫ってきていて、私に残された道はただ一つだった。
私は懐から短剣を取り出した。
トールの目が見開かれ、最後の力を振り絞るかのように首が横に振られる。ごぽり、と口から言葉の代わりに血の塊が吐き出された。
そんな無駄なことをするくらいなら逃げろ、と言いたいのだろう。
どこまでも私に優しくあろうとしてくれるトールに出会えたことこそ、私の人生の最大の幸福だったに違いない。
「トール……せめて、お前は苦しまずにお逝きなさい」
私は「ありがとう」と生まれて初めて心からの感謝を告げて、トールの返事を待たずにその首に短剣を突き刺した。人を傷つけることには、慣れていた。
すぐにトールの目からは光が失われた。
続けて、私は自分の首に血に濡れた短剣を押し当てた。
自分の命を絶とうとすることには慣れていない。初めての体験だ。
押しかけてくる兵士たちの気勢に気圧されるように、私は震える手で己の首を搔ききった。
即死はできなかった。
気を失うには浅すぎた傷から強烈な痛みが頭を突き刺し、私は苦しみの中に悶え、のたうちまわり、生を受けたことを恨みながら死んでいった。
それで贖罪になる、と思っていた。
罪は許されなかった。
私は意識を取り戻した。
死の瞬間に至るまでのあの恐ろしい感触が夢だったとは思えず、私は混乱した。
頭を振り回し、首を触って確かめ、手に血が付いていないことを確かめようとして、
「……は?」
その手が薄く光を透かしていることに気づいた。
「目覚めたようだな」
太く深みのある声が降ってきて、私は振り返った。
地面に座る私を見下ろすように、大きな男が立っていた。
黒を基調とする全身装束、身体の要所を飾る鈍く輝く鉄飾り。
右手に握られた、見る者を威圧するかのような、凶悪さの滲む大きな鎌。
それが「死神」として人々の伝承に伝えられる存在であることを、私は伝えられるまでもなく悟った。
「冥府の新たな死神よ」
その言葉が私に向けられた物であると、私はすぐには気づけなかった。
「冥府の新たな死神よ」
大男は呆けた私に向けて繰り返し、右手に握った大鎌を差し出した。
「受け取れ。貴様の仕事道具だ」
「何、どういう」
「受け取れ」
「ひっ」
大男の威圧に怯えるように私は手を伸ばし、差し出された大鎌を握った。
その瞬間、私は全てを理解していた。
まるで生まれたときから理解していたかのように、新しく身に植え付けられた知識や技術は、一切の障害なく私という存在の根本に馴染んでいた。
私は死神に生まれ変わった。
人の魂を刈り取る、永劫の咎人に。
死んだ後、死神になるための条件はたった一つ。
生前に人を殺した経験があること。
その償えない罪を犯したことへの罰として、死神は寿命を迎える前の魂を刈り取るという永遠の定めを与えられる。
無限の時間に疲れ果て定めに背こうものなら、その役立たずの死神にはただ永劫の無が与えられる。
人を苦しめることを好んでも、人を殺すことだけは決してしてこなかったはずの私が他人を殺めたとすれば、その相手はたった一人。
トールだ。
私は運命と呼ばれるものを心の底から呪った。
他の罪で死神に任ぜられたというのなら、まだよかった。
人を苦しめてきた私に、罰は与えられて然るべきなのだから。
なのに、生まれて初めて「苦しまないように」したことで、私は罰を受けるのだ。
右手に吸い付くかのように馴染む大鎌を睨み、私は唇を噛んだ。
大鎌は私に生者の気配を伝えてくる。
お前の食事が、美味そうな魂があそこにいるぞ、と。
さあ、とびきりの死を与えてやろう、と。
「貴様の鎌が貴様を導くだろう。さあ、行け」
冥府の王は私を急かした。
私は右手の鎌を放り捨てた。
冥府の王の目に光が宿った。
それは驚きと言うよりも、ただの興味に見えた。
「ほう?」
トールの姿が私の脳裏に浮かんでいた。
どうしてかは分からずとも私の罪を一緒に背負ってくれたトールに、これ以上の罪を背負わせたいとは思わなかった。
「他者の苦痛を至上の歓びとする、そう貴様の魂には刻まれているが」
「ええ。きっと、人の魂を刈ることはこの上ない歓びなのでしょうね……でも」
私は冥府の王を睨み、挑発するように笑みを浮かべた。
「わたしは誰も殺さないわ」




