トール 1
彼は底の抜けたような青空を背中にして、両の翼を控えめに広げていた。
照りつける日差しが彼の顔を影にして、その輪郭は燃えるようだった。
いや、そうではない。
実際に、燃えているのだ。
不死鳥はただ呆然と立ち尽くす私の前にふわりと舞い降りて、ふっと微笑んだ。
「遅ればせながら参上しました、エルレシアお嬢様」
その口が懐かしい声色を紡ぐ横で、炎を纏っていた翼がみるみるうちに人間の腕に移り変わっていく。
彼はそのまま左胸の前に拳を握った右手を掲げ、ごく自然に立礼をしてみせた。もう二度と見ることはないと思っていたくすんだ茶髪がゆらりと風に舞って、その末端に燃えさかる真赤を際立たせる。
ただの御者らしいみすぼらしい格好も、端麗からはほど遠い少し歪んだ目鼻立ちも、何もかもが記憶にある通りだった。
「トール、なの?」
「はい、トールにございます。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
どうして、と言葉にならない言葉が私の口からこぼれた。
どうして、お前がここにいるの。
どうして、お前は私を見つけてくれたの。
どうして、お前は、こんなに優しい顔を向けてくれるの。
いろんな「どうして」が押し込められたつぶやきを聞き取ったトールは、まるで私の全部を分かっているかのように、微笑みを深めた。
「私めはエルレシアお嬢様の御者にございます。主人のためならばどこまでも道を切り開く、そうした使命の元で仕事をして参りました。少しお嬢様のお姿が変わられたからといって、私めが勝手にその使命に背くわけには参りません」
「違う、わたしは……!」
お前を、この手で、殺したのに。
小さな頃から、人の苦しむ姿を見るのが楽しかった。弱者を虐めることは私に愉悦の感情を与えてくれた。他者の痛みは、私にとっては快楽だった。
悪辣が人の形をとった化け物。
それが、私、エルレシア・スィア=メンツィロムを客観的に言い表すための最適な言葉だっただろう。
公爵令嬢という立場はいくらでも私に自由を与えてくれた。殺人という一線さえ踏み越えなければ、私がすることは全て「公爵令嬢による躾」という名目によって正当化されたし、派閥の人間を動かせば大体の悪事はもみ消すことができた。
母親譲りの輝くブロンドに人形のような目鼻立ち、そして豊かな肢体を飾る美しいドレスは、私の言葉に香る嘘を上書きするのに十分な役割を担ってくれた。明らかなボロさえ出さなければ、私の台詞は全て「可憐な令嬢の深遠な言葉」として人々に翻訳された。
そうやって、私は自分を己の罪から切り離し続け、人が苦しむ様を見ては笑い転げた。
人が苦しむ様を見て笑っていた私は、私を見る人々の視線に対して絶望的に無関心だった。
王立学園からの卒業を祝うパーティーの場で、私は王太子殿下の口から婚約破棄を伝えられた。
現実を受け入れられなかった私は半狂乱になって食事用のナイフを振り回し、殿下の隣にまるで当然のような顔をして立つ憎い女を刺し殺そうとして、あえなく殿下に取り押さえられた。
暴れる私に向けられた殿下の視線は、どこまでも冷え切っていた。
そこから私の運命が決まるまでは早かった。
私の身を守ってくれるはずだった公爵令嬢という称号はいともたやすく怒り心頭の父上に剥奪され、私はただの小娘エルレシアになった。
より正しくは、未来の王妃の殺害を試みた小娘エルレシア。
牢屋に放り込まれた私は、物語の中にしかないものだと思っていた「ひもじさ」というものをこの身でしっかりと味わって、そしてもうろうとした意識の中でどこか高い天井の部屋に連れ出された。
兵士の腕が乱暴に肩を抑えてきて、私は崩れ落ちるように跪いた。
唯一自由に動かせる首をなんとか動かして、周囲を観察する。
人々は私を価値のある存在として見てはいなかった。
汚物に向けるような、蔑みだけが篭められた視線、視線、視線。
怯えた私は首をすぐに垂れ下げた。
王太子の婚約者に危害を加えようとした、だとか、従者に対する不当な暴力、だとか、学友に対する不義、だとか、平民に対する非人道的扱い、だとか、ひたすら罪状が読み上げられていった末に、ひどく平坦な声が告げた。
「王太子ディラン・オル=ブラクセンの名の下に、罪人を断頭刑に処する」
告げる声の主と告げられた罪人がつい数日前まで婚約関係にあったことなど、誰が信じられただろう。
そうして死を待つばかりになった私を待ち受けていたのは、死などと言う生ぬるい終焉ではなかった。
犯した罪を償わせるためという名目で、牢に繋がれた私の前に実に多くの人間がやってきては、私に痛みを与えていった。
「これはコネットの分! これはっ、ネネリアの分! これはっ……!」
「俺がどれだけ苦しかったか分かるか!? ごめんなさいと言ってみろよ、ああ!?」
「わたくし、死なない程度の毒を飲んだなら人がどうもがくのか、一度観察したく思っていましたの……覚えていらっしゃる? これ、貴女が言い放った台詞ですのよ。さて、貴女はどうもがくのでしょうね。ああ、どうか死なないでくださいますよう。順番待ちの列はまだまだ続いておりますから」
鞭で打たれ、頬を殴られ、毒に悶え苦しみ、それでもなお王宮勤めの腕の良い医師が私に死ぬことを許してくれない。
やがて、眠ることが怖くなった。
復讐者が私に不眠を命じない限り、私は必ず睡眠を取らされた。
寝れば頭が冴え、痛みのあまりに鈍くなった感覚が幾ばくか元に戻る。
そして、また鮮烈な苦痛が私に襲いかかるのだ。
精神がすり減って、自分という存在の消滅だけを願うようになった頃。
その人は突然私の前に現れた。
「エルレシアお嬢様」
「……だ、れ」
「御者のトールにございます。さ、お手を」
「手、って?」
「逃げるのです。ここから」
トールは唖然として返事ができないでいる私の手を取り、駆け出した。
王太子の婚約者として何度も王宮に通った私ですら知らない道を辿ってトールは厳重な警備をかいくぐり、私は生きて王宮から脱することになった。
王都のどこぞとも知れない小さな広場に、一頭の馬が繋がれていた。
「お嬢様、ここからは少し長い旅となります。ご容赦くださいませ」
そう言ったトールは私を馬に乗せ、自分は後ろに座り、手綱を握って馬の横腹を蹴った。
夜の闇を切り裂くようにトールの腕の中で疾走するうち、私は段々と意識を保てなくなっていった。例え身を横たえていなくとも、苦痛に疲れ果てた身体は当然のように睡眠を欲した。
しかし、眠ることは、それまで以上に怖かった。
今までのことは全部私の見た夢で、目を覚ませばまたあの苦痛に満ちた日常が戻ってくるのではないか。そう思うだけで身体が縮こまった。
「お嬢様」
柔らかい声が私の身体を包んだ。
「お眠りください。私めがお支えします」
「い、や……っ」
「大丈夫です、何も怖いことはありません。十分鍛えておりますから」
いやいやとだだをこねても、私の身体と意識は逃れられない泥濘に引き込まれていった。
最後まで確かだったのは、頭を預けることになった逞しい二の腕の感触だけだった。
鳥のさえずりが聞こえた。
「───ッ」
牢の中で聞こえるはずもない、異様な音。
私は跳ね起きた。
急な動きのために閉じきっていない傷口が引き裂かれ、痛みが背中に走る。
辺りに広がるのは、差し込む朝日に鮮やかに照らされる深い森。
そして、少し離れた木のそばに、馬の腹に頭を預けて眠る見慣れない男の姿。
「夢じゃ、なかったの……?」
「……お目覚めですか」
私の声で目を覚ましたのだろう、男が身体を引き起こした。
「お前は、ええと……」
「トールにございます。お嬢様が学園に通われる際にお乗りになる馬車の御者を務めておりました」
名前を忘れられていたことなどつゆ気にしないといった具合に、トールは自己紹介をして立礼をした。
「あ、ああ、トールね、そう、トール。もちろん覚えていたわ」
御者という底辺の存在など、当然私はいちいち記憶してなどいなかった。それでも、私は自分を矮小な存在に見せないよう、それらしい振る舞いを取り繕った。
なぜなら、そのとき私は、まだ自分が「令嬢」であると錯覚していたから。
「それで、トール?」
「はい」
「お屋敷にはどうやったら戻れるの? ここはどこだか知らないけれど、森の中で過ごしたくなんてないわ。もちろん、牢屋の中はもっと嫌だけど」
こうやって救い出されたということは、この身にもまだ使い道があるとお父様が判断してくださったのだろう。それか、戦争の口実にでもするために隣国のどこかが私を都合の良い道具として見定めたのかも。
そんなことを考えながら訊くと、トールは悲しげな表情を浮かべた。
「お嬢様、私どもはこれからひたすら逃げ続けるのです。お屋敷での生活は、どうかお忘れください」
「何言ってるの? お父様がお前をよこしたんでしょう、違うの?」
「いいえ。私めが一人でお嬢様を助け出そうと決意して、一人で実行したに過ぎません」
「……うそ」
それから、長い逃避行が始まった。
昔投稿した短編のリメイク版です。
ご興味があれば↓
https://ncode.syosetu.com/n9792ji/




