蛇足 1
ブラクセン王ディラン・オル=ブラクセンは、王妃エルレシア・スィア=ブラクセンを愛していた。
王妃エルレシア・スィア=ブラクセンは、ブラクセン王ディラン・オル=ブラクセンを愛していた。
それは誰も全く疑いようのない事実で、愛を知る二人は互いを互いの物として情を育み、また無私を知る二人は己を民の物としてブラクセン王国の繁栄を導かんとした。
ブラクセンの豊かな土地を求めた隣国との戦争、その隣国と通じたウォーロウ公爵による反乱が、二人の運命を悲劇の色に染めた。
崩壊を続ける戦線はあれよあれよと王都に達し、王と王妃は亡命を試みるも、ウォーロウ公爵の手により追い詰められ、二人は馬車中で自決するに至った。
王は右手に剣を握り、左手で王妃を抱き寄せ、愛する人の胸を苦しまぬよう一息に刺し貫いた。
王妃は王の腕の中、最後まで愛する人の顔を見つめながら、胸を刺し貫かれ苦しまずに散った。
それが二人の辿る数奇な運命の始まりだった。
王は人を殺した罪で死神になった。
王妃は人に殺された償いとして不死鳥になった。
王妃はいわれのない罪で永劫の牢獄に閉じ込められた王を心から哀れみ、己に王を救うだけの力があることを知って、必死に王を捜して回った。
王は己の罪を噛み締め、どことも知れぬ地の果てに己を朽ち果てさせることを望んだ。
王妃の執念は実らなかった。
王妃が王の居場所を空から捉えたそのときに、王の身は朽ち、王は永劫の無に囚われた。
王妃は不条理を受け入れようとはしなかった。
王妃は思い当たる限りあらゆる手を尽くし、王を救わんとした。
そのひたむきな姿に目を留めた存在がいた。
冥府の王は、地上で起こった戦争を疎ましく思っていた。
ブラクセン王国を巡る戦いを発端として、戦火は世界中を巻き込んでいた。
心を痛めていたのではなかったが、人々が殺し合えばその分だけ死神は溢れ、冥府は息苦しくなる。
時の護り手に掛け合い、冥府の王はきまぐれに一計を案じた。
ある日王妃は冥府に呼び寄せられた。
通された王座の間には、忘れもしない顔が待っていた。
冥府の王は、並んで頭を垂れる王と王妃に向け、云った。
───お前たちに試練を与えよう。王よ、これよりお前は身分を失い、才覚を失い、凡愚に生まれ変わる。王妃よ、これよりお前は記憶を失い、善性を失い、悪女に生まれ変わる。それでなお、互いを見つけ、愛するに至れ。さすらば、我らはそれを奇跡と認めよう。
時の護り手は、並んで頭を垂れる王と王妃に向け、告げた。
───試練を乗り越え、人の身でありながら奇跡を起こしたと我らに認めさせ、己が魂を救うが良い。
王は震える王妃の背に手を置き、答えた。
───冥府の王、そして時の護り手よ。我が身を救ってくださること、心より感謝いたします。
王は己が試練を乗り越えられることを疑わなかった。
王は王妃に一時の別れを告げ、そして時の護り手に身を委ねた。
王妃もその後を追うように、冥府の王座の間から姿を消した。
王は凡愚になった。
凡愚は凡愚という言葉の意味を理解し、試練の厳しさに身を震わせた。
ただ一心に打ち込んだ馬だけはどうにか人並み以上に操れるようになったが、それで試練を乗り越えられるはずもなかった。
王妃は悪女になった。
悪女は己が何であったのかを知らず、ただ心のままにその悪辣を振りまき続けた。
己が試練の中にあることを知らず、己の馬車を先導しているその人に目を合わせず、救われようもない生を盲目に生きていた。
凡愚は足りない頭で考え、ただ一つの答えを見つけ出した。
───己が凡愚でなかった頃の記憶に頼れば良いのだ。
王宮のことについて、凡愚は世の誰よりも良く知っていた。
だから、凡愚は悪女が王宮に囚われたとき、記憶に頼ることで悪女を己の手の中にたぐり寄せることができた。
───これから、時間をかけて愛を育みさえすれば。
凡愚が足りない頭で描いた未来は、まさに凡愚そのものだった。
凡愚は王宮のことについてよく覚えていたが、王宮の外のことについては、凡愚なりにしか知らなかった。
思い描いた旅路を辿ることは叶わず、愛を育む時間のないままに凡愚は悪女を失った。
ところが、運は凡愚に少しだけ味方した。
何の因果か、凡愚は不死鳥に、悪女は死神になった。
そして、悪女の中に愛を育むには足りなかった時間は、悪女の中に情を植え付けるには足りていた。
凡愚は悪女を捜した。
凡愚は知っていた。
試練に失敗してしまったからには、一度朽ちた己は、魂の循環へは戻れない。
死神を赦した後、己が魂は永劫の無に囚われる。
しかし、凡愚は決意をしていた。
己が失敗したからといって、それは愛する人の未来を奪う理由にはならない。
果たして、悪女が消え失せてしまう寸前に、凡愚は悪女の前に辿り着いた。
見つけた悪女はかつての凡愚と同じように、誰も刈らず、ただ一人静かに朽ち果てる時を待っていた。
凡愚は己に降りかかる苦難を秘め、愛を告げず、ただ先導者として悪女を生者の世界に送り返した。
全てに満足した凡愚は燃え尽き、再び永劫の無に囚われた。
奇跡は起こった。
凡愚が消えた後、悪女は凡愚に向ける愛を自覚した。
悪女の心に凡愚が植え付けた情は、凡愚自身の炎によって愛にまで燃え上がった。
全てを見ていた冥府の王と時の護り手は悩んだ。
試練は達されたのか?
生きる内に愛を交わすことはなくとも、互いに愛を向け合ってはいるのだ。
奇跡は確かに起こった。
ほんの僅かに、遅かっただけで。
冥府の王は時の護り手の助けを借りて未来を見つめ、やはり戦争が起こることを知り、それを疎ましく思った。
疎ましく思った、ということにした。
冥府の王は、王も王妃もいない空間に向けて言葉を放ち、試練を再び定義した。
───王よ、これよりお前は記憶を失い、王妃に向ける愛を失い、生まれ変わる。王妃よ、これよりお前は記憶を抱え、凡愚に向ける愛を抱え、生まれ変わる。それでなお、互いを見つけ、愛するに至れ。さすらば、我らはそれを奇跡と認めよう。
時の護り手は冥府の王の我儘に目を瞑りつつ、再び時間を手繰り、世界を過去へと巻き戻した。
王妃は凡愚を愛しながら王に出会った。
王は王妃を愛し、王妃は凡愚に焦がれながらも、最後には王を愛した。
試練は達された。
時の護り手は冥府の王が満足げに笑う横でため息をつき、もう慣れてしまった手つきで三度世界を過去へと巻き戻した。
「───奥様、奥様、元気なお嬢様でいらっしゃいますよ!」
「ええ……見せて、私の顔の前に」
「はい!」
「貴女の名は、エルレシア。旧い言葉で、空の妖精」
赤子は何を言われたのかも知らず、ただ大声で泣きわめいた。
「可憐で、美しく、大きくなりますよう」




