ディランと私 3
我を取り戻してから、私は即座に自分の中にある知識を確かめた。
トールが私にしてくれたように、私も死神の魂を循環の中に送り返すことができるはずだった。
やり方は容易く思い浮かべられ、そのことにひとまずは安堵の息を吐く。
次に私は冥府に向かった。
不死鳥として魂に植え付けられた知識の中に冥府に関するものはなく、従って私はかつての死神としての記憶を辿ってそこを目指した。
不死鳥であっても、場所さえ分かっていれば冥府に入ることはできるようだった。
当然だろう。不死鳥は自由なのだから。
「不死鳥が冥府に何の用だ」と強烈な威圧を死神たちからぶつけられながら、私は懐かしい景色の中を迷いなく進んだ。
冥府の最奥の扉の前で私は人の姿に移り変わり、そして叫んだ。
「冥府の王に、不死鳥エルレシア・スィア=ブラクセンが面会を求めます!」
ぎ、ぎ、ぎと鈍く耳をつんざくような音を立てて、観音開きの扉が開け放たれた。
不思議な力で背中が押され、私はそれに抵抗することなく前に歩を進めた。
正面の大きな椅子に腰を下ろすのは、黒い全身装束に鉄飾りをいくつもつけた、大きな男。
そして、忘れようもない、あの太く深い声が響き渡る。
「冥府を知る奇妙な不死鳥よ、我に何を求む」
私はその言葉を聞いて、一つの知識を得た。
冥府の王は、私がかつて死神であったこと、そして私が本来あるべき魂の循環に反し記憶を持って生まれ変わったことを知らない。
ならば、何を怖れる必要もないだろう。私はただ冥府に上がり込んだ傲慢な不死鳥として彼に相対すれば良い。
「ごく最近、新たにここに生まれたはずの死神を捜しています。名を、ディラン・オル=ブラクセン。生前、私の夫だった者です。もしも彼が死神になっていて、そしてどこにいるのかご存じでしたら、私に彼の居場所をお教えください」
問えば、冥府の王はじっと私を見つめた後に、感情の籠もらない顔で答えた。
「その死神は冥府にいない。もう長い間、戻ってきてもいない……それ以上は知り得ない」
つまり、生者の世界のどこかにいる、ということだろう。
冥府の王が嘘をつくだろうか、と少し悩んでから、私はその可能性を切って捨てた。
大いなる存在を前にして、矮小な私が考えるだけ無駄だ。
「分かりました。心より感謝を申し上げます」
礼をして、王座の間を辞そうとしたとき。
「奇妙な不死鳥よ」
冥府の王が問うてきた。
「不死鳥となり自由を得た魂は、あらゆる生前のしがらみから解き放たれる。呪縛のような悪しき物であれ、愛のような善き物であれ、全て等しく消えてなくなるのだ。何故、お前は愛などという不死鳥には無用なしがらみに囚われている」
質問の意味が分からなかった。
私の心には今も間違いなくあの人に向ける気持ちがあって、それは死ぬ前から何も変わっていない。
この感情が消えてなくなる?
ありえない。
「私のディランへの思いは消えてなくなることなく、今も確かにここに在ります。それが全てです」
私は胸に手を当てて答えた。
「……そうか」
冥府の王は厳かな声で呟き、そして私を外に追い出した。
私は人捜しが上手くない。
それはもう、全く上手くない。十七年かけて、いろんな人の協力を得て、たったの一人すら見つけられなかったのだから。
それでも、今度ばかりは、失敗してはいられない。
冥府の王は「長い間冥府に戻ってきていない」と言った。
当然だろう。私の信じるあの人なら、きっと己に罰を科すことを選ぶはずなのだ。
永劫の無、という罰を。
全てが手遅れになる前に、私はあの人を捜し出さなければならない。
幸いなことに、私は今度捜すことになった人物についてなら、ただ短い逃避行を共にしただけのトールよりも遙かに良く知り尽くしている。
捜すべき場所は、私の心が教えてくれる。
私が死んでから不死鳥に生まれ変わるまでに少し時間が経っていたらしく、空から眺める王都の景色は私の知るものとはかなり変わって見えた。
王宮の塔には隣国の旗が掲げられている。
街路を練り歩くのは隣国の鎧を纏った兵士たちで、民は壊れた建物を建て直すのに必死だ。
街の中心から少し外れた場所に、かつて白かった建物がある。
王都での戦いにより茶けてしまった、壁の崩れたその建物は、あの人が私のために建ててくれ、私が長い時間を過ごした『エルレシアの屋根』の本拠だ。
元本拠という方が正しいかも知れない。
砕かれた玄関をくぐり、通い慣れた廊下を辿り、最奥の部屋を目指す。
不死鳥のレリーフが見下ろす執務室のただ中に、随分と色の薄い人影が漂っていた。
今にも消えんばかりに弱り切った死神は、ただ無言でレリーフを見上げる姿勢でピクリとも動かない。
「ディラン」
私を殺したその人に、私はできる限りの慈しみを込めた声をかけた。
死神は肩を震わせ、おそるおそる振り返り、そして碧い目を見開く。
「エル……?」
「ええ。もう会えないと思ってた?」
「……あ、あ」
ディランは声もなく立ち尽くし、一瞬のうちに涙がその頬に筋を描いた。
「今のディランの気分のことを、私はよく知ってるの。言い当ててみてもいい?
───どうしてエルは僕に優しくしてくれるんだろう? 僕がエルを殺したのに。
……って感じ。そうでしょう?」
ついに隠しておく必要がなくなった秘密を解き明かしながら、私はディランの頬を拭った。
「こっちの立場になって、よく分かったわ。当然よね、だって私はディランのことをこんなにも大切に思っているのだから」
死神の頬は冷たく、涙を拭う私の手からはいくらか熱量が奪われていった。
私は少し考えて、両の手のひらでディランの頬を包んだ。
そうすれば、暖かな不死鳥の熱をもっと伝えられると思ったから。
「三十年前、死神として消えかかっていた私はトールという不死鳥に命を繋いでもらったの。それからは必死になってトールを捜したわ。もらった以上の恩を返して、それで、私を愛してくれていた理由を教えてもらわなきゃと思って。でも、見つからなかった。あのときは、私に対する罰なんだって思ってた。前世の私は、すっごい悪女だったもの……けれど」
私は逆接の言葉で私の意思を示した。
今になって、分かったことがある。
全ては繋がっていた。
私の生の全てには、今このときに繋がる意味があったのだ。
「私は今から、トールが私に繋いでくれた愛を、あなたに繋ぐ。そうしたら、トールが私を助けてくれたことにも、私がトールを見つけられなかったことにも、私がトールじゃなくてあなたを愛したことにも、全てに意味が生まれる」
私は大きく息を吸った。
「《不死鳥は死神を赦す》」
私の身体を形作る炎がどくんと脈打ったのが分かった。
揺らめいていた己の輪郭が型に定まり、私は自由を失った。
なるほど、これが魂を刈られるということらしい。
私の身体から噴き出た炎が、ディランの胸に飛び込みはじめた。
「これは……!?」
「不死鳥に与えられた権能を、一つお教えしましょう」
いつかトールが私にしてくれた説明を思い出し、一言一句違わずになぞる。
三十年という長い時間が経っても、私の頭の中にあの時の記憶は鮮明に焼き付いている。
「死神に己の魂を刈らせることで、その死神を永劫の牢獄から解き放ち、魂の循環へと送り返すことができる」
「……そんな、嘘みたいな」
聡明なディランは、これだけの説明で何が起こっているのかを理解したらしい。
やっぱり、私とは頭の作りが違う。
「私の魂も巡る。きっと今度の私は、前世のことを覚えていられないと思うわ。トールがそうだったように。……あなたがどうかは、分からないけれど」
「ま、待ってくれ、なら、今のエルは死んでしまう!」
私の身体はどんどんと霞み、反対にディランの掠れていた身体には熱が取り戻されていく。
表情を動かす力を取り戻したからだろうか、みるみるうちにディランの顔は激情に歪んでいく。
私は改めてディランの頬を愛おしむように包んだ。
「お願い、悲しまないで」
ぎりり、とディランの歯が食いしばられた。
「勝手に僕に全部押しつけていなくなるくせに、幸せそうな顔で笑わないでくれよ……!」
私は驚いてディランを見た。
「エルはどうして、何もかもを忘れるなんて運命に納得できるんだ。どうして、今の二人で幸せに生きられないんだって、僕と一緒に嘆いてくれないんだ」
荒ぶる感情がはち切れそうなほどに込められた声で、ディランは私に語りかける。
ディランは悲しんでいるのではなく、怒っていた。
「僕を一人にしないでくれ、エル!」
その叫びを聞いて、私の心は動かなかった。
私は理解した。
結局、冥府の王が告げたように、不死鳥は「自由」なのだ。
今の私には、ディランというしがらみが残っていない。
ディランに自分の記憶を代償として未来を押しつけて、私は一人魂の循環へと溶けて失せる。
私はもう、ディランの愛を受け取れはしない。
そのことに、私は納得している。
ディランがどれだけ怒っても、私の心は揺らがない。
「いいえ、ディラン。不死鳥は自由なの。誰を生かすも、誰を殺すも。そして、私はあなたに生きていて欲しい。私の記憶があなたを生かすのなら、私は喜んでそれを捧げてみせる」
トールの台詞をなぞって、私はまた新たな理解を得た。
トールが私への愛を頑なに伝えようとはしなかったのは、きっと、トールがそれで納得していたからなのだ。
私は、トールを満足に送ってやれたのだろう。最初から、恩返しなんて必要なかった。
足が地面を踏みしめる感覚が消えた。
途端に、肉体の存在感があやふやになる。
もう、私に残された時間は長くない。
「もちろん、次もあなたに出会いたい、愛されたいと思ってるわ。けれど、私がトールからの愛をあなたに繋いだみたいに、あなたも私じゃない別の人に愛を繋ぐことになるかも知れない。そのときは、絶対に迷わないで。あなたの生には、必ず意味が生まれるから」
不死鳥らしく言いたいことを身勝手に言い切って、私は空を舞い、ディランの額に口づけをした。
実体すらない私の炎は、額の感触を伝えてはくれなかった。
「こんな、こんな……!」
いよいよ終わりの時が近づいている。
ずっとトールの台詞をなぞってきたけれど、最後に、これだけは伝えておこう。
私はトールとは違って我儘な悪女なのだ。伝えておかないと納得できない。
笑う。
ディランが見る最後の私が、とびきり美しくあるように。
「愛していました、ディラン」
「……ああ、僕もだ。愛していた、エル」
ディランが顔をくしゃくしゃにして私に愛の言葉を囁き返してくれたとき、既に私の耳は何も聞こえなくなっていた。
けれど、長い年月を彼と共に過ごした私は、ちゃんと目だけでディランの言葉を聞き取って、頭の中にその声を響かせることができた。
意識がぼやけ、ディランの胸に伸びる炎の筋が私をまどろみに引きずり込んでいく。
透明になっていく世界の中で、私はただ願っていた。
ディランの来世が幸福な物になりますように。




