ディランと私 2
平和で幸せな時代は長く続かなかった。
事の発端は、国境沿いでの些細な小競り合いだった。
初めはただの喧嘩にも近い形で、我らブラクセン王国の兵士と隣国の兵士がやり合った。
それが小隊同士の殺し合いになり、部隊同士の国境を挟んだ睨み合いになり、すぐに大軍同士の衝突にまで加熱していった。
穏健的な姿勢を堅持してきたブラクセン王国は、もちろん外交的な努力を怠っていたわけではなかった。
陛下は何度も使者を隣国に送り、また第三国にも手を回してどうにか破局的な展開を回避しようと試み続けた。
隣国の主張は変わらなかった。「かつて奪われた我ら同胞の地を取り戻すのみ」。
複雑に入り組んだ歴史の中に領土的正当性を委ねるのは詭弁に他ならない、と誰もが分かっていたが、それだけに、狂った論理を真顔で唱える隣国を説き伏せるだけの「正しい」論理を誰一人として提示できなかった。
加えて、人々のなかにひそやかに囁かれていた陰謀論があった。
”『エルレシアの屋根』は、我が国の民から巻き上げた寄付金で隣国の人々を肥やしているのではないか”。
全く同じ論が、主語である「我が国」の意味だけを変えて、王国と隣国の双方で広まってしまった。
私は慌てて帳簿や金の流れを誰が見ても分かるように明らかにし、それが謂れのない言いがかりであることを叫んだ。
叫びは欺瞞の中に響かなかった。それどころか、さらに疑惑は加熱した。
”『エルレシアの屋根』の職員は、ブラクセン王国が我が国の情勢を掻き回すべく派遣したのだ”。
”『エルレシアの屋根』は、密かに我がブラクセン王国の情報を隣国に伝えている裏切り者の集まりだ”。
”王妃エルレシアはそれを隠すため、必死に偽りの正義を掲げている”。
人々の猜疑に晒された私は歯を食いしばり、めっきり少なくなってしまった寄付金を元手になんとか慈善事業を続けた。
しかし、一度壊れてしまった組織が、戦争という極限状態の最中に元に戻れるはずもなかった。
やがて、陛下が私の元にやってきて告げた。
「すまない、エル。これ以上は、支援ができない……戦費が嵩んできた上、『エルレシアの屋根』に対する優遇措置を続ければ、民の心が王家を離れてしまう」
「……わかりました」
その時点で私は決断を下した。
即座に組織を解体し、これまで力を尽くしてくれた人々が支障なく別の仕事を見つけられるように手配した。
手元に残った僅かな資金や資産は、支援対象であった人々の中でも特に恵まれない人々のために使い切った。
彼ら彼女らの元を巡ると、頻繁に「エルレシアの飼い犬」という侮蔑に晒されているところに出くわした。
私の善意がかえって誰かを傷つけていたのだと知ることは、私の心に深い痛みを刻んでいった。
全てを片付けてから、私はいわゆる王妃らしい王妃になった。
宮殿の中に居座って、時折有力貴族やご令嬢方とお茶を飲んでみたり、国王の執務に付き添ってみたり。
全く落ち着かなかったけれど、少なくとも私の心を理解してくれている陛下のお側にいられることだけは、私の傷んだ心を癒やしてくれた。
私はただ願った。
どうか早くこの戦争が終わりますように。
その願いは叶えられた。
ブラクセン王国の滅亡という形で。
「お妃様、こちらです!」
私は侍女たちに誘導されるままに王宮の隠し通路を駆け抜け、用意された馬車に向かった。
荒れ果てた王都のどこぞとも知れない小さな広場に、質素な馬車が停まっていた。
中にはこんこんと眠る陛下と二人の子供、そして僅かな腹心たち。
己の首で戦争を終わらせようと望んだ陛下は気絶させられたままに馬車の中に連れ込まれたらしく、私が身を擦り合わせるように隣に詰めても目を覚ますことはなかった。
げっそりとやつれた陛下の頬を痛切な悲哀を込めて撫でているうち、馬車は王都を飛び出して、亡命先に選ばれた別の国に続く長い旅路を辿りはじめた。
誰もなにも言葉のないまま日が暮れて、夜が更けて、朝日が昇った。
討手は前からやってきた。
「何故、何故だウォーロウ!」
陛下の忠臣の一人が、私たちの道を塞ぐように兵を引き連れ立っていた。
「悪く思うな、これも民のため!」
「民のため働き続けた陛下を討つことが民のためになるものか!」
「これ以上この地に血を流させる訳にはいかぬ!」
「ッ、そうか、貴様がッ!」
馬車の前で剣を構えた騎士団長がぶるぶると身体を震わせ、叫んだ。
「貴様が手を引いていたのだな、ウォーロウッ!」
政治に触れてこなかった私には、どうして騎士団長がその確信を得るに至ったのかは想像ができなかった。
ただ一つ、私にも分かることがあった。
騎士団長の叫びを聞いたウォーロウ公爵は、実に愉快そうな笑みを浮かべていた。
馬車の中に隠れていた護衛の一人が私の背中を叩いた。
「お逃げください、奥様」
「貴方たちは」
「ここでできる限り食い止めます、時間は稼げないでしょう。早駆けはできますか?」
「……」
端的な会話の合間に御者台に繋がる扉を細く開き、馬の体躯を確かめる。
大丈夫だろう。
「私はここに留まります」
ざわめきが馬車を満たした。
「どなたか一人、子供たちを連れて、お逃げなさい。おそらくあれほどの馬であれば、大人一人に子供二人を乗せても耐えられましょう」
「しかし、それでは奥様は」
「私は良いのです。ブラクセンの血を継ぐのはこの二人。私が生き残ったとて、価値はない」
強く言い切ると、護衛たちは覚悟を決めた顔で頷いた。
「おかあさま?」
不安いっぱいの顔で聞いてきた、まだたった六つのフィルダムをそっと抱きしめる。
隣できゅっと唇を結ぶバッカスに目配せして、私は最後の言葉を編み上げた。
「いいこと、バッカス、フィルダム。これから貴方たちに、お父様の誇りを未来に繋ぐ、大切なお仕事を任せます。絶対に生きて、大きくなりなさい。二人が私たちを忘れない限り、私たちはいつまでも家族よ」
バッカスは涙を浮かべて、しかしその雫を零すことなく、首を縦に振った。
よく分かっていない様子のフィルダムの額に唇を落とし、続けてバッカスにも同じようにする。
「さあ、お行き」
護衛の中でも一番若い一人が二人を預かってくれ、馬に飛び乗って駆けていった。
それを見たウォーロウ兵が騒がしくなり、すぐに「かかれ!」と号令が響いた。
矢の雨が降り注ぎ、質素な馬車の壁にいくつもの穴を開けた。
陛下に覆い被さるように丸まっていた私の背中に、何本かの矢が突き刺さった。
何十年ぶりの激烈な痛みが、私の頭を灼く。
馬車に繋がれたままだった身体の小さな馬が、怯えのあまりに駆け出した。
御者のいない馬の暴走に巻き込まれ、私は馬車の中で思い切り揉まれ転がった。
そのとき。
「……これ、は……?」
陛下の声がした。
「っ、ディラン……」
「エル……? エル!?」
激しい揺れによって目を覚ましたらしい陛下は私を見つけるなり、碧い目を剥いて手を伸ばした。
馬車は揺れ、その手は届かない。
私は力なく転がって、背中に刺さっていた矢がさらに深く肉をえぐった。
「ぷ、ぁ……、ぁ……」
痛みに喘ごうとして、口から声の代わりに血が零れた。
「エルッ!!」
ああ、そんな顔をしないで。
そんな困ったような、泣きそうな顔をしないで。
あなたの凜々しい眉を、凜々しいまま覚えていたかったの。
「こら、落ち着け! ええい、斬れ、殺せ!」
暴れ回る馬をなんとかしようとするウォーロウ兵たちの声が聞こえた。
それで陛下は全てを悟ったようだった。
陛下は私を見て、外を見て、また私を見て、そして唇を噛んで、鬼のような形相になった。
「エル……すまない」
陛下は剣を引き抜いた。
その瞬間に、私は恐ろしい可能性に気づいてしまった。
「僕は君を心の底から愛している」
狭い馬車の中で、鈍く輝く剣が高く掲げられる。
私は力の限りに首を横に振った。
いけない、やめて、やめて!
そうしたら、あなたは……!
「だから、君が苦しんでいるところを見たくないんだ。最後の我儘を、許してくれ。僕もすぐに後を追おう」
剣の輝きと一瞬の冷たさ、そして狂気的な熱が、私の最後の記憶だった。
最初に感じたのは、”自由”だった。
音とか光とか、そういう感覚よりも先に、「私は自由だ」という幸福感が私を形作った。
翼を広げる。空に溶けるような炎が、どこまでも世界を私の領域に染め上げていく。
息を吸う。私の体温と比べてとても冷たい空気が口から喉をくすぐっていって、それが愉快で仕方がない。
目を開く。私は雲を切り裂き、高い空の中を舞っていた。
陛下に殺された私は、不死鳥になった。




