ディランと私 1
私たちが学園を卒業してから殿下が即位するまで十年。
その間に、殿下は執務の合間を縫って私の「恩返し」の道筋を立ててくれた。
私の名前を冠する慈善事業『エルレシアの屋根』を創設し、国中の人々に生活の支援や医療の提供を行えるような体制を作り上げたのだ。
貧しい人々や恵まれない子供たちを主要な支援対象と置きつつも、しかし求める者あれば拒まずという姿勢で比較的裕福な民まで平等に受け入れたその事業は、国民から大きな支持を得てあっという間に規模を大きく広げていった。
当然、殿下が全てを一人で推し進めてしまっては、私の恩返しにはならない。だから、運営は私が中心になって行った。
寄付金集めに各地の有力貴族や商人の元を巡り、また必要があれば「王太子妃直々のお手伝い」を見世物になるつもりで何度もこなした。
幸いにして私が学園時代に築き上げた評判は上々のもので、学友たちを通せば大体の依頼は私にとって都合の良いように叶えられていった。私を直接知らない相手に相対するときは、お母様譲りの美貌が大きな仕事を果たしてくれた。
そうやって手にした資金や資源をしっかりと事業の運営に回し人々のために使うだけで、私の評判はうなぎ登りに上がっていった。
私を突き動かす原動力はトールというたった一人の男でしかなくて、そこに高尚な精神などありはしないのに、私は気づけば「慈母エルレシア」という大仰な称号まで戴いてしまっていた。
「慈母だなんて、私には似つかわしくないわ」
「いいじゃないか。動機が何であれ、エルが成していることが人々の知る全てなのだから。これでまた事業の運営がやりやすくなったと思えば、儲けものさ」
互いに忙しくしている中で、私と殿下が出会える機会は必然的に少なくなった。
これではまるで妃に愛想を尽かされたみたいだな、と悪い冗談を放つ殿下の心はしかし、いつまでも私にまっすぐ向けられていた。
私も、数少ない逢瀬の時間をできるだけ充実したものにしようと励んだ。
いつからだっただろう、トールという前提を置くことなく自然体で殿下に向き合えるようになったのは。
私の口調からは無駄な敬意が抜け落ちて、殿下は私を「エル」と呼ぶようになった。
頻繁に会えなくなったのに、私はそれをまったく寂しいとは思わなかった。私の心は殿下の完璧に知るところにあって、わざわざ常に見せびらかす必要なんてなかった。
私の勘違いでなければ、殿下も同じように思ってくれていた。
子供が二人産まれた。
一人目の男の子には「バッカス」、二人目の男の子には「フィルダム」という名前を付けた。それぞれ旧い言葉で、炎の精霊、鉄の精霊。
トール、という単語から何かを引っ張ってこようとも少し考えたけれど、あまりにもありふれた名前過ぎて気の利いた修辞に落とし込むことは難しかった。
代わりに、不死鳥と死神の象徴たる炎と大鎌から一つずつ拝借することにした。
三人目が産まれたらどうしたら良いのかは、今のところ考えていない。「僕にも名前を付けさせてくれよ」とうるさい殿下に名付けを譲っても良いかも知れないけれど、私は殿下の美的感覚にそこまでの信頼を置いていない。
二人はすくすく大きくなって、かつての私のように王宮中を駆け回って大人たちをやきもきさせている。
こっそり「トール」と呼びかけてみてもきょとんとするばかりだったから、おそらく二人もトールの生まれ変わりではない。
私はもう、そのことに落胆するような私ではない。
「ごめんなさい、間違えたわ」と笑って、二人を胸の中に抱きしめてやるのだ。
殿下が即位して、陛下になった。
陛下はこれまで王国が辿ってきた穏健的な方針を概ね維持することを即位演説で明言した後に、横に並ぶ私を人々の前に押し出した。
ひょっとすると陛下よりも人々に顔を知られている私は、詰めかけた群衆の歓声に迎えられた。
私がその歓声に応え終わるのを待ってから、陛下は再び言葉を振るった。
「慈母エルレシアは、これから文字通り、国母となる。彼女は皆に支えられ、また皆を支えんとするものだ。どうか、これからも『エルレシアの屋根』に皆の大きな支援を続けて欲しい」
また歓声が上がる。
その大きさは、私と陛下がこれまでに積み上げてきた「トールへの恩返し」が決して空疎な物でないのだと、私に明確に伝えてくれた。
権力を握るようになった陛下は、その力でもって私のために一つの建物を建ててくれた。
『エルレシアの屋根』の拠点だ。
それまでは王宮の中であれこれ切り回していたものの、規模が拡大して行くにつれてだんだんと場所が足りなくなってきていた。
最近は他の国にも支援の手を伸ばしはじめていたというのもあって、王国政治の中枢から慈善事業を分離する必要性にも迫られつつあった。
私は真新しい、まだ乾ききっていない真白の漆喰の香りが残る執務室に踏み入って、その場所を自分のものだと思い込むことに努めた。
「どうだい、気に入ってくれたか?」
「ええ、とっても。特に、この机が素敵よ」
「そうだろう、エルは書き物机にはうるさいからな。ロク材の書き心地の良いやつを特注したんだ」
「もう、そんなお金があったなら、ちょっとでもパンや薬を買いたいのに」
「仕事場の環境を良くすることは立派な投資さ、将来の仕事ぶりに大きく関わってくる。それに、一番大きなおねだりは君がしたじゃないか」
そう言って、陛下は部屋の一番目立つ場所に飾られたレリーフを仰いだ。
燃えさかる翼を羽ばたかせ、天空を優雅に舞う一羽の鳥が刻まれている。
不死鳥、つまりトールの象徴。
もしもトールがこれからの時代に生まれ変わるようなら、このレリーフと「エルレシア」という名前を繋げて、私の気持ちを受け取ってくれるかも知れない。
そんな微かな希望が、ここに込められている。
「国中の関連施設全部に不死鳥の紋章を配してくれ、なんてね。最近のエルにしては珍しく強引だったから受け入れたけれど、実のところ君は───」
不死鳥の伝承は、私たち生者にはあくまで「伝説」「神話」としてしか知られていない。
けれど、私が語ってきた”夢”はきっと、聡明な陛下の中に何か特別な確信を抱かせてしまう程度には怪しかったはずだ。
「それ以上は何も言わないでおきましょう、ね?」
私は陛下の口にそっと人差し指を伸ばし、言葉が続かないように遮った。
陛下は肩をすくめ、口を尖らせた。
「世の中には、口にしない方が良いことだってあるのよ」
「君はいつもそうやって煙に巻く。僕達が結婚してからもう十年経ったんだぞ」
「ちょっとくらい秘めたるものがあるほうが、刺激的じゃない?」
「ちょっと、か?」
「ちょっとよ。ちょっと、になったの」
私は笑って、背伸びして、殿下の頬に口づけた。




