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閉ざされたドア

 週末に買ったブルーのキャンドルと、咲子へのプレゼントのスパイスティー。真白はそれらを大切に抱え、302号室のインターホンを押した。


 ピンポーン。


 しかし、いくら待っても返事はなかった。

(出かけてるのかな……。まぁ、また出直そう)

 その時は、少し残念に思っただけだった。


 けれど、異変はそこから始まった。

 その日の夜も、次の日の仕事終わりも、咲子の部屋からは何の音もしなかった。


 いつもなら夕方になると隣のベランダから漂ってくる、あの甘くスパイシーな匂いが、全くしない。

 夜になっても、ベランダのアンティークランプに明かりが灯ることはなく、302号室はただ不気味なほど真っ暗な静寂に包まれていた。あの部屋から五感に響いていた、極彩色のノイズが完全に消え去っている。


(もしかして……何かあったんじゃ……)


 脳裏をよぎったのは、恐ろしい最悪の想像だった。

 咲子は高齢の一人暮らしだ。もし部屋の中で倒れていたら。誰にも気づかれないまま、孤独の中にいたら――。

 そう思うと、真白は居ても立ってもいられなくなり、1階の集合ポストへと走った。


 302号室のポストを覗き込む。

 そこには、数日分の新聞と、ピザのチラシが乱雑に押し込まれ、溢れかえっていた。几帳面な真白の目から見れば、それは明らかに「あるじが数日間、この家に戻っていない証拠」だった。


 心臓が早鐘を打つ。真白はスマートフォンの画面を握りしめ、エントランスにある管理人室のガラス窓を激しく叩いた。


「管理人さん! すみません、お隣の302号室の方なんですけど……!」


 突然血相を変えて現れた真白に、初老の管理人室の男性は目を丸くした。


「あぁ、どうかしたの?」

「ここ数日、明かりもつかないし、物音もしないし、 ポストにも新聞が溜まっていて……高齢だし、もしかしたら、部屋の中で倒れているかもしれないんです。お願いです、確認してください!」


 必死にまくし立てる真白の声は震えていた。大切な人を失うかもしれないという恐怖が、彼女を突き動かしていた。


「……え? ああ、確かにここ数日見かけてないねぇ」


 管理人室の男性は、のんきに首を傾げた。

「旅行にでも行ってるんじゃないの?」

「違います!」


 真白は思わず大声を上げていた。

「旅行に行くなら、ベランダの植物をそのままにはしません! 新聞だってこんなに溜める人じゃない! お願いです、鍵を開けてください。もし中で何かあったら、取り返しがつかないんです!」


 真白のただならぬ気迫と、必死の形相に、のんきだった管理人の顔つきが変わった。

「……分かった。ちょっと待ってて、合鍵を持っていく」


 管理人の重い足取りが、今はもどかしくて仕方がなかった。302号室の前に戻り、管理人が震える手で鍵を差し込む。カチャリ、と冷たい金属音が響き、ドアが開いた。


「管理人です。入りますよー」


 管理人の声に応える者は誰もいない。

 ガラリと開いた暗い玄関の向こうから、いつもなら心地よかったはずのお香の匂いが、今はどこか澱んだ、冷たい空気と共に流れてきた。


「こんにちは!」


 真白は管理人を押しのけるようにして、真っ先に部屋へと踏み込んだ。

 天井から吊るされた無数のランプは消え、部屋は薄暗い。あの極彩色の絨毯やリンゴ箱の棚、世界中から集められた「無駄なもの」たちが、今はひっそりと静まり返り、主の危機を沈黙で伝えているようだった。


「どこですか……!」


 足の踏み場もない部屋の奥、リビングのソファの脇に、それはあった。


「あ……」


 色鮮やかなクッションの隙間に埋もれるようにして、咲子が床に倒れていた。

 小さな体をさらに縮こまらせ、ピクリとも動かない。


「ああっ!!」


 真白はなりふり構わず、床のごちゃごちゃしたモノを蹴散らしながら駆け寄り、咲子の体を抱き起こした。


「ねえ、しっかりしてください!」


 何度も声をかけ、その肩を揺さぶる。しかし、咲子の目は閉じたままで、ピクリとも動かない。


「管理人さん、救急車です! 早く、早く呼んでください!」


 泣き叫ぶような真白の声に、我に返った管理人が慌ててスマートフォンを取り出し、119番にダイヤルし始める。


 真白は、倒れている咲子の手をぎゅっと握りしめた。

 皺だらけの、いつも温かく自分を包んでくれた、大好きな人の手。それが今は、凍りつくように冷え切っている。


(嫌だ、置いていかないで。私、まだプレゼントを渡してない!これからもまだ、お話したい……!)


 世間から見れば、ここはただの「ゴミ屋敷」かもしれない。

 でも、今の真白にとっては、凍えそうな自分を救ってくれた、世界で一番温かい場所なのだ。その場所の主を、絶対に失いたくなかった。


「すぐ救急車が来ますからね。私、ここにいますから。ずっと手を握ってますから……!」


 遠くから、微かにサイレンの音が聞こえ始める。

 真白は溢れる涙を拭いもせず、咲子の冷たい手を自分の両手で包み込み、必死に温め続けていた。

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