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残されたもの

 病院の冷たい廊下で、真白は祈るように手を握りしめていた。

 しかし、その祈りは届かなかった。急性心不全。搬送されてから数時間後、咲子は一度も意識を取り戻すことなく、静かに息を引き取った。


「世界で一番、私の人生を愛したの」


 あの少女のような笑顔が、もう二度と見られない。

 病室の前には、病院からの連絡を受けて駆けつけた、咲子の姪だという女性と、その親戚の姿があった。彼女たちは泣くでもなく、ただただ面倒そうに、これからの事務手続きについて小声で話し合っている。


「どうするのよ、あのおばさんの部屋。ものすごいゴミ屋敷らしいじゃない」

「えー、最悪。業者に片付けさせようよ。葬式だって、家族葬で済ませればいいよね」


 カーテン越しに聞こえてくる血の繋がった家族の冷淡な会話に、真白は胸を締め付けられた。咲子がどれほど深い愛を持って生きてきたか、あの部屋のモノたちがどれほど大切な「戦友」であるか、彼女たちは何も知らないのだ。


 数日後、咲子の葬儀は、親戚たちだけでひっそりと行われた。

 ただの「隣人」でしかない真白には、式場がどこなのかさえ知らされなかった。お葬式に行くことすら叶わず、最期のお別れもできない。

 胸にぽっかりと開いた大きな穴から、冷たい風が吹き抜けていくようだった。



 さらに数日後のこと。

 静まり返った真白の部屋に、ピンポーンと控えめなインターホンの音が響いた。


 ドアを開けると、そこに立っていたのは、病院で見かけたあの咲子の姪だった。年齢は40代半ばほどだろうか、咲子とは違い、落ち着いたシックな服装をしており、いかにも「大人の女性」という佇まいだった。


「お忙しいところ恐れ入ります。302号室の整理に来ている者です」


 女性は丁寧にお辞儀をし、手にした小さな紙袋を差し出してきた。


「管理人さんから伺いました。あなたが異変に気づいて、確認するよう強く言ってくださったそうですね。発見が遅れずに済んで、本当に助かりました。これはほんの気持ちですが、お受け取りください」


 手渡されたのは、有名デパートの包み紙に包まれた焼き菓子だった。

 彼女の言葉にも態度にも、非の打ち所のない礼儀正しさがあった。けれど、そこに「身内を亡くした悲しみ」の温度は一切含まれていない。ただの事務的な、近隣住民への『挨拶まわり』という記号だけの礼儀だった。


「……いえ。私は、何も……」


 真白が小さく頭を下げると、女性はどこかホッとしたように小さく息を吐き、バッグから一冊のノートを取り出した。それは、色あせた古い革表紙のノートだった。


「それから、もう一つお伝えしなければならないことがありまして……。叔母の部屋を片付けていたら、いわゆるエンディングノートのようなものが遺されていたんです」


 女性は少し困惑したような、呆れたような苦笑いを浮かべた。


「そこに、おかしなことが書かれていましてね。『もし私に何かあったら、部屋にあるものでお隣の方が気に入ったものがあれば、何でも、いくつでも持って帰ってもらってちょうだい』って」


 真白の心臓が、ドクンと大きく波打った。


「私たちとっては、あそこにあるのは本当にただのゴミでしかなくて、これからすべて業者に頼んで処分するだけなんです。ですから……もしあなたが、あんなものでも何か欲しいと思われるなら、どうぞ遠慮なく持って行ってください。こちらとしても、少しでも処分する量が減る方がありがたいですし」


 女性は時計に目をやりながら、淡々とそう言った。

 咲子が愛した、人生のコレクションたち。それを目の前の親族は「ゴミ」「あんなもの」と切り捨てる。けれど、咲子は分かっていたのだ。自分が去った後、あの部屋がどう扱われるかを。


「……ありがとうございます。少し、見せていただいてもいいですか」


 真白の震える声に、女性は「どうぞ、どうぞ」と快く鍵を開けた。

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