ギフト
数日ぶりに足を踏み入れた302号室は、主を失ってひっそりと冷え切っていた。
真白は、業者の手によって次々と段ボールに詰め込まれていく、咲子の「人生の欠片」たちを、必死に目で追った。ほんの少ししか、彼女との思い出はないはずだった。隣人になって、ほんの数ヶ月。言葉を交わしたのも数えるほどだ。なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。ここにあるすべてが、愛おしくてたまらなかった。
「……あの、これと、これも、いただいていいですか」
真白は、あの夜に咲子がチャイを淹れてくれた、ぽってりと丸い陶器のマグカップを拾い上げた。それから、咲子がいつも着ていた、太陽のように鮮やかなアジアンテイストのカラフルな服。彼女の耳元でいつも楽しげに揺れていた、エキゾチックな大ぶりのピアス。ベランダでひっそりと灯っていた、空き瓶で作られた手作りのライト――。
そして、最後に、棚の隅で埃を被りかけていた、ひび割れた木彫りのゾウをそっと両手で包み込んだ。
「え、そんなもの……本当にいるんですか?」
咲子の姪は、真白が抱え込んだモノたちを見て、隠そうともせずに呆れた目を向けた。
「それ、ただの古いガラクタですよ?……まぁ、こちらは構いませんけど」
「はい。私にとっては、大切なものなんです」
これまでの真白なら、他人にそんな「呆れた目」で見られたら、恥ずかしさで消え入りたくなっていただろう。けれど今は、一歩も引かなかった。世間が、親族がこれをゴミと呼ぼうと関係ない。これは、咲子が愛した宝物であり、自分を救ってくれた「最後のギフト」なのだ。
「ありがとうございました……」
真白は頭を下げると、宝物を落とさないようにしっかりと腕に抱え、そそくさと部屋を出て隣の我が家へと帰った。
パタン、とドアを閉める。
白とグレーしかなかった無機質な部屋の一角に、咲子の遺品をそっと並べた。
週末に買った淡いブルーのキャンドルに火を灯す。
揺れるオレンジ色の炎が、カラフルな服を、大ぶりのピアスを、空き瓶のライトを、クッションを、そして木彫りのゾウを優しく浮かび上がらせた。部屋の一角だけが、あの「世界一温かいごみ屋敷」のグラデーションに染まっていく。
真白はキッチンに立ち、買ってきたスパイスティーを取り出した。咲子の手つきを思い出しながら、ミルクと砂糖をたっぷりと入れて、小鍋でコトコトとチャイを淹れる。
甘くスパイシーな香りが部屋を満たしていく。
咲子から譲り受けたマグカップに、温かいチャイを注いだ。
ソファーに座り、両手でマグカップを包み込む。じんわりと手のひらに伝わるぬくもり。
一口、口に含んだ瞬間。
「うっ……、あ……」
堰を切ったように、涙が溢れ出て止まらなくなった。
寂しい。こんなに寂しい。
胸の奥が引きちぎれそうなほど、痛くて、寂しい。
もっと一緒にいたかった。もっと色んな話を聞きたかった。あのごちゃごちゃした部屋で、くだらないことで笑い合って、何度も何度も、一緒にこの温かいチャイを飲みたかった。
「……っ、……っ!」
真白はマグカップをテーブルに置くと、カラフルなクッションに顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。涙が、ターコイズブルーとオレンジの刺繍を濃く濡らしていく。
役割なんてなくたっていい。完璧じゃなくたっていい。
そう言ってくれた唯一の人は、もういない。
けれど、真白の部屋に灯ったこの鮮やかな色は、もう消えることはなかった。
泣いて、泣いて、涙が枯れるまで泣きながら、真白は咲子が遺してくれた温かい光を、その心に、一生消えない灯火として強く、強く、刻みつけていた。




