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エピローグ

 心地よい風がベランダのカーテンを揺らす。

 真白のスマートフォンは、机の上で静かに眠っている。


 風の噂で、貴文の家庭は結局破綻し、離婚が成立したと聞いた。会社での立場も失い、今は地方の支社に飛ばされているらしい。時折、彼から寂しさに耐えかねたような未練がましいメッセージが届くこともあるが、真白はそれを既読にすることすらなく、届いた瞬間に機械的に削除している。


 さらに真白のスマートフォンには、実家の母親からの着信履歴が数件残っていた。

『ちゃんと部屋は綺麗にしてるの?』

『無駄なものは買ってないでしょうね』

 かつてなら、その文字を見るだけで動悸がし、母の期待に応えなければと強迫観念に駆られていた。けれど今の真白は、お茶を一口すする心の余裕を持って、その画面を眺めることができる。


 母のことは嫌いではないし、育ててくれた感謝もある。けれど、母の正しさが、私の正しさである必要はないのだ。

「私は私で、うまくやってるから大丈夫だよ」

 そう心の中で呟き、真白はスマートフォンをそっと伏せた。すぐに返信をしないという、ほんの少しの境界線。母の冷たいルールから静かに一歩外へ踏み出せた自分に、真白は小さく微笑んだ。


 真白は視線を、部屋の特等席へと向けた。

 白を基調としたすっきりとした部屋。けれど、以前のような息の詰まる冷たさはどこにもない。

 ベッドの上には、あのターコイズブルーとオレンジの刺繍クッション。

 そして棚の真ん中には、あちこちの色が剥げた小さな木彫りのゾウの置物が、今日も愛嬌のある顔でちょこんと佇んでいる。


 そのゾウの隣には、あの愛おしい遺品整理の日に、咲子の部屋から大切に引き取ってきた、小さな「青いガラスの空き瓶のライト」が並んでいた。かつて咲子が「近所のイタリアンのお店の裏で拾ったのよ」と笑っていた、手作りのライトだ。


 真白がスイッチを入れると、小さなLEDの光が灯った。

 よく見ると、ガラスの表面には無数の細かい傷がつき、歪みもある。決して売り物のような美しい光ではない。けれど、その不完全な傷があるからこそ、光が不規則に乱反射して、真っ白な壁にまるで夜空の星のような、優しい光の粒をぽつぽつと生み出しているのだった。


「綺麗……」


 完璧ではないからこそ、世界にひとつだけの愛おしい光を放つ。それは、傷を抱えながらも必死に生きてきた、咲子の人生そのもののようであり、これからの真白の人生のようでもあった。


 母親が見たら『早く捨てなさい』と顔をしかめるような、役割のない、不完全なもの。……でも、今の真白にとっては、見るだけで心がじんわりと潤う宝物だった。


 これを見ていると、「完璧じゃなくてもいいんだよ」と、誰かに優しく声をかけてもらえているような気がする。他人の目線や、実用性だけで世界を縛ってしまうのは、なんて寂しいことだったのだろう。


 真白は立ち上がり、机の上に一冊のノートを開いた。


『一人旅計画』


 これまでの真白なら、一人で海外旅行に行くなんて、無駄だし危険だと切り捨てていただろう。けれど、咲子が愛したエキゾチックなモノたちが生まれた国を、自分の目で見て、肌で感じてみたくなったのだ。咲子がかつて、どんな風に世界を旅し、どんな風に自分の人生を愛してきたのかを、追いかけてみたかった。


 窓の外の青空をそっと見上げる。隣の302号室からは、もうあの不思議なお香の香りはしてこない。

 けれど、真白の胸の中には、あの極彩色の「世界一温かいごみ屋敷」が今も鮮やかに生き続けている。


「役割がなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。……自分が『素敵だな』って心から思えるなら、いいんだよね」


 真白は棚の上の木彫りのゾウの頭を、指先で優しくぽんぽんと撫でた。


 窓から吹き込んできた優しい風が、青いガラス瓶の不完全で美しい光をきらきらと揺らす。まるで隣の部屋から、「それでいいのよ。行ってらっしゃい」と、あのファンキーなおばあちゃんの賑やかな笑い声が聞こえてきたかのように、真白の新しい部屋は、どこまでも温かい光で満たされていた。

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