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完璧じゃなくていい

 真白の部屋のベッドの上には、今もあのターコイズブルーとオレンジの刺繍クッションが置かれている。


 白とグレーだけで構成された無機質な空間の中で、そのクッションだけが完全に浮いていた。かつて真白が絶対のルールとしていたインテリアの黄金比は、完全に崩れている。


 けれど――真白はソファーに深く腰掛け、そのクッションを眺めながら、ふっと口元を緩めた。


 不思議なことに、あのクッションが視界に入るだけで、以前なら寒々しく感じられた白い部屋が、どこかぽかぽかと温かく感じられるのだ。部屋の統一感には決して必要のないもの。けれど、今の真白にとっては、見るだけで心がじんわりと潤う、かけがえのない「お気に入り」だった。


「役割なんてなくたっていい。完璧じゃなくたっていい。失敗しても、いいじゃない……」


 咲子の言葉を、真白は口の中でそっと丁寧になぞってみる。

 それは、実家の母から植え付けられた『役に立つものしか持ってはいけない』という冷たい呪縛を、そして貴文から押し付けられた『都合のいい女』という役割を、優しく上書きしてくれる魔法の呪文のようだった。


 *


 数日後の夜。

 静まり返った真白の部屋に、突然、執拗なインターホンの音が鳴り響いた。


 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。


 恐るおそるドアを開けると、そこにいたのは、酷く髪を乱し、目の下に濃い隈を作った貴文だった。


「貴文、さん……?」

「真白、中に入れてくれ……」


 焦燥しきった貴文は、真白の返事も待たずに強引に部屋へと滑り込んできた。かつてのスマートで余裕のある面影はどこにもない。彼はソファーに乱暴に腰掛け、頭を抱えて自分の不運をまくし立てた。


「嫁に完全にバレた。……で、昨日子供を連れて実家に帰りやがった。弁護士を通すから直接話すな、だってさ。家には誰もいないし、電気もついてなくて真っ暗でさ……」


 そこまではまだ、家庭を壊した男の自業自得の哀れみがあった。しかし、貴文が次に口にしたのは、真白の耳を疑うような言葉だった。


「なぁ真白、俺さ、昨日からまともに飯も食ってないんだよ。家に戻っても誰もご飯なんて作ってくれないし、コンビニ弁当じゃ味気ないだろ? とりあえず、何か温かいものでも作ってくれないか?」


 かつて「居心地がいい」と言ったこの静かな部屋を、そして真白自身のことを、彼はまたしても「自分の都合のいい避難所」であり、「自分の身の回りを世話してくれる都合のいい家政婦」として扱いに来たのだ。


 真白は冷めた目で、その哀れで醜い男を見つめていた。

 不思議だった。あんなに拒絶されることを恐れていた相手なのに、今はその声が、ただの不快な雑音にしか聞こえない。


「……私は、あなたの奥さんの代わりでも、ご飯を作る道具でもない」

「何言ってるんだよ、冷たいな。俺はお前を頼ってここに来たんだぞ?もう嫁は離婚する気だし、今後はお前と――」


 どこまでも自分勝手な言葉を吐きながら、貴文はふと、あのクッションに目を留めた。白一色の空間で、それだけが鮮やかなターコイズブルーとオレンジの光を放っている。


「……なんだ、あれ。お前の部屋に、こんな小汚いモノ、似合わないだろ」


 その瞬間、真白の胸の奥で、カチリと何かが完全に切り替わった。

 母に言われるがままに大切な物を捨てた、あの日の記憶。自分をゴミ扱いした貴文の冷酷さ。そして今、自分をただの「役割」として消費しようとする目の前の男。


「うるさい」


 低く、けれど地を幾ら這うような鋭い声に、貴文がびくりと手を止めた。


「え……?」

「そのクッションのこと、二度と悪く言わないで」


 真白は一歩踏み出し、クッションを両手で大切に抱きしめた。そして、これまで貴文に見せたことのない、冷徹で強い眼差しで彼を真っ向から見据えた。


「これは、あなたみたいな人には一生理解できない、私の大切な宝物。……そして、私はあなたの都合のいい『役割』を満たすための道具じゃない」

「真白、お前、何を言って――」

「帰って」


 真白はドアを勢いよく開け放ち、外を指差した。


「帰って!! 二度と私の前に現れないで!!」


 遮二無二叫んだ真白の怒声は、彼女の人生で初めて、理不尽な支配に対して放った本気の「拒絶」だった。貴文はその迫力に完全に気圧され、何かを言いかけながらも、逃げるように部屋を飛び出していった。


 バタン、と激しくドアを閉め、鍵をかける。


 真白の激しい呼吸の音だけが部屋に響く。

 スマートフォンを取り出し、貴文の連絡先を、その履歴ごと、何のためらいもなく完全に消去した。


 画面を裏返し、真白はベランダの窓を大きく開け放った。

 夜の風が部屋に流れ込み、貴文が持ち込んだ澱んだ空気を一瞬で外へと追い出していく。その風は、驚くほど心地よく、優しかった。


 胸のつかえが取れ、呼吸が驚くほど深く吸えることに気づく。


 抱きしめたクッションのカラフルな刺繍を見つめながら、真白はぽつりと呟いた。

「これで、いいんだ……。ううん、これがいい」


 誰かの本命になれなくても、他人の基準で「正しい」とされる役割を持たなくても、私は私をゴミだなんて絶対に思わない。

 これからは、他人の目線ではなく、自分の心が本当に「素敵だな」と震えるもので、この真っ白な世界を少しずつ、私だけのグラデーションで染めていけばいい。


 ベランダの向こう、302号室の窓から、古いアンティークランプのオレンジ色の光が、真白の新しい一歩を祝うように温かく漏れ出ていた。

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