ひと匙の色
咲子の部屋は、今日もアンティークランプの淡いオレンジ色の光で満たされていた。
お香の煙がゆったりと立ち上る中、真白はソファのクッションに顔をうずめ、しゃくり上げながらすべてを吐き出した。母親に怒られないように部屋をきれいにしていること、貴文とは結婚していることなど知らずに関係を持ったこと。奥さんにバレそうになった途端、手のひらを返したように自分を拒絶し、自己保身の言葉をぶつけてきたこと。そして、自分の存在そのものが、最初から誰にも必要とされていなかったように感じること――。
「……私、何のためにこんな風に生きてるのか、分からなくなっちゃいました。間違えないように、傷つかないように、怒られないように、がんばって、がんばって……それでも誰にも認めてもらえないなら、私なんて、最初からいなくても同じだったのかなって。私自身が、誰の役にも立たないゴミみたいな存在に思えて……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした真白を見て、咲子は静かにハーブティーのカップをテーブルに置いた。
そして、真白の隣に深く腰掛け、子供をあやすように彼女の細い肩を引き寄せ、優しく抱きしめた。咲子の体からは、温かい日向のような匂いがした。
「つらかったわねぇ。本当に、よくがんばってきたわねぇ」
咲子の声は、驚くほど穏やかで、ずしりと温かかった。真白の頭を何度も優しく撫でながら、語りかける。
「わかるわよ、痛いほどわかる。私もね、若い時はね、自分なんていなくなってしまえばいいって、本気で思ってたの。私の人生には何もない、誰も私を必要としてくれない、私は社会の『ゴミ』だって、毎日自分を呪って泣いていたわ」
咲子は、棚の上の木彫りのゾウに視線をやった。
「でもね、世間が私をどう言おうと、あの人が私をどう扱おうと、私が過ごしてきた愛おしい時間も、誰かを一途に想った記憶も、全部私だけのものだもの。この傷だらけの人生を愛せるのは、世界で私しかいないのよ」
咲子は真白の体をそっと離すと、彼女の顔を覗き込み、シワの刻まれた親指で真白の涙を優しく拭った。その手のひらのぬくもりが、真白の冷え切った頬にじわりと染み込んでいく。
「だからね、今の私は、自分のことをゴミだなんて絶対に思ってないわ。世間がこの部屋をゴミ屋敷って笑っても、私にとっては大切な思い出が詰まった宝箱。それと同じよ。あなたが必死で守ってきたものはね、誰かの期待に応えようと、誰かを傷つけないように、今日まで一生懸命戦ってきた証拠だったんでしょう? 誰がなんと言おうと、自分をゴミだなんて思わないで。あなたは、ちゃんとここにいていいのよ」
「……っ、う、あ……」
真白の目から、また大粒の涙が溢れ出した。ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「役割なんてなくたっていいの。完璧じゃなくたっていい。失敗したっていいじゃない。あなたの心の中にある傷も、流した涙も、全部あなたという人間を形作る、世界に一つだけの愛おしいコレクションなんだから」
その言葉は、真白が幼い頃から誰からも、そして自分自身からも与えられなかった「絶対的な肯定」だった。
役に立つ人間でなければ価値がない、無駄なものは排除しなければならないと教え込まれてきた真白の胸に、咲子の言葉が温かい血液のように流れ込んでいく。
真白は、涙の滲む目で、咲子の異国情緒あふれる、ごちゃごちゃとした、だけど温かい「おしゃれなごみ屋敷」を見渡した。
溢れるモノたちが、まるでお互いに寄り添い合いながら、真白を「大丈夫だよ」と励ますように優しくきらめいている。
「これ、よかったら持っていって」
帰り際、咲子はソファにあった、色褪せたアジアンレトロな刺繍のクッションを真白に優しく手渡した。ターコイズブルーとオレンジの太い糸で、どこか不器用な、けれど力強い花が刺繍されている。
「これ、私が昔、刺繍したものなのよ」
「え……? すごい……」
「ちょっとお嬢さんの部屋にはうるさい色かもしれないけれどね。また寂しくなって、胸が苦しくなったら、それをぎゅっと抱きしめるといいわ。うちにもいつでも来ていいのよ」
「……ありがとう、ございます……っ」
真白は両手でしっかりと、その温かいクッションを胸に抱きしめた。
自分の部屋に戻り、静まり返ったベッドの上に、そのカラフルなクッションをそっと置く。
真っ白で無機質だった、かつては防衛陣地だった真白の部屋に、ぽつんと灯った、ひと匙の鮮やかな色。
それを見つめていた時、真白の胸の強張りが、今度こそ完全に、優しくほどけていくのだった。




